彼岸花このところ、三蔵はものすごく忙しい。 俺は土手にねっころがって空を見上げていた。目の前を真っ赤なとんぼが横切っていく。ちょっと前までは毎日じりじりするみたいに暑くって、こんな風に真正面から太陽を浴びていると肌がひりひりした。 いつのまにか、空はうんと高くて風は冷たい。うるさいくらいにもさもさ生えていた緑の草むらも、尖がったはっぱのはしっこの方からだんだん茶色に枯れてきている。もう「お彼岸」ってやつになるんだって、八戒が教えてくれた。 お彼岸には何と言ってもお墓だ。 三蔵はよく、このお寺はショーチョーテキな意味での寺にすぎないって言う。観光客を呼び寄せるような立派なだけのお堂に、がらんどうの仏様。その仏様に魂を吹き込むべき最高僧は破戒僧のこの俺だと言う。だけど俺はそんな事ないと思う。あの大きい仏様が本当にがらんどうだとしても、三蔵は本当にきれいで神々しいんだ。三蔵がいるだけだって、このお寺は立派なお寺に違いない。 三蔵の言う、ショーチョーテキなお寺にも、ちゃんとお墓はある。 俺は時々、お墓を見回りに行く。お彼岸のお墓は結構楽しい。 薄く煙の立ち込めているところには、たいてい人がいる。 人がいなくなった後には、たいてい色とりどりの切り花や、おいしいお饅頭、時々はカップ酒なんかも残ってる。俺は丁寧にお墓に手を合わせて、それをおいしく頂戴する。三蔵は呆れるけど別に怒りはしない。あんまり古そうなものや、やばそうなものは食うなって言うくらいだ。お寺の仏様の前に飾ってあるお供えを食べると怒るのは、きっと他の坊さんに言い訳するのが面倒だからなのだろう。 ある時、小さなお墓の前に蹲っているおじさんがいた。 どのお墓より貧相なそのお墓は、だけどどのお墓よりもきれいな花で溢れていた。 おじさんは、最初はうな垂れてるだけだった。そのうち地面に手を付いた。頭がどんどん下がって、おでこも付いた。 おじさんは泣いているのだった。押し殺したような鳴咽が、次第に胸も張り裂けるような号泣に変わっていった。お墓を洗って湿った地面の土が、おじさんの周りだけいっそう濃く湿った色になった。 俺はぼんやりそれを見守っていた。大人の男の人があんなふうに泣くのを見るのは初めてだった。気が付くとすぐ傍まで、墓守のじいちゃんがきていた。 「あの男は、たった一人の娘を亡くしたのじゃ。」 じいちゃんは言う。お墓をきれいに保つ事を何よりも誇りに思っているじいちゃんは、寺のいじわるな坊主たちよりよっぽど修行ができているのだと三蔵は言う。 「ちょうどおまえと同じくらいの年の、可愛いお嬢さんだった。 あの男には、悲しみに暮れる時間が必要なんじゃ。」 じいちゃんはそう言って、竹ぼうきに曲がった腰を支えた。 「おまえも、くれぐれも三蔵様を悲しませてはいけないぞ。あの方は淋しい方なのじゃ。」 じいちゃんは、何度も繰り返して俺の頭を撫でた。 だけど三蔵は、俺のために涙なんか流さないと思う。 三蔵は、死んだら人は無になるだけだと言う。墓や坊主は、生き残った者たちの心の安定のために存在するんだそうだ。 だから、誰かが死んでも泣く事は無意味な事だと。そう言ってはさみしい目をする。 三蔵の言う事なら大概なんでも納得する俺も、それだけはなんだか納得できない。 三蔵はきっと今、忙しすぎて心が不安定なんだ。お彼岸にはお坊さんたちがみんな走り回っている。あっちの家、こっちの家、坊さんを呼びたがるところはいくらでもある。ましてや最高僧の三蔵では。 昨日も三蔵は、起きるなり朝メシも食わずに飛び出していった。帰ってきたのは夜遅く。三蔵が個人のおうちを訪ねる事はないけれども、その分余計に気を遣う、よそのお寺だとか、なになにの祭礼だとかに出席しなくてはならないのだそうだ。 「今日のスケジュール、誰が組みやがった、畜生。」 三蔵の口の悪いのはいつもの事だけど、いつもよりもっと口調に険が多い。 「一日で真逆の方向に三個所だと! ふざけるのも大概にしろ!」 苛立った顔で煙突みたいに赤マルをふかす。ことお寺の事に関しては何にもできない俺は、黙って三蔵の愚痴を聞いているしかない。どんなに文句を言っても、三蔵は割り当てられた仕事はきっちりこなす。三蔵に言わせると、それは三蔵の意地なのだそうだ。決して好きでやっているわけではないらしい。 「三蔵、くたびれちゃった?」 俺は三蔵の肩に手を回す。三蔵はうるさそうに腕の一振で俺の手を払う。 「うぜえ。おまえの肩揉みは痛ぇんだよ!」 いつもなら、力が強くて気持ち良いって言ってくれるのに。 三蔵は相当疲れているらしい。 「あの…さ、俺になんかできることないの?」 ほんの少しでも三蔵の助けになれれば。そう思って恐る恐る口に出した言葉を、三蔵は鼻息ひとつで笑い飛ばす。 「おまえにできることは、俺に手を焼かせねえでおとなしくしてることだけだ。」 俺はため息をついた。わかっちゃいるけど、三蔵はちっとも俺を頼りにしてくれない。 忙しくていらいらしている三蔵に俺がしてあげられることは、居心地のいい部屋を作ってあげることぐらいだ。 とはいっても三蔵の部屋を掃除するのはちゃんと係りの僧がいて、俺になんか絶対にその仕事をやらせてはくれないし、第一俺が掃除した後は、なぜかする前より散らかっちゃうんだ。割れた窓ガラスとか、零しちゃった花瓶の水とか。 だから俺は今日も花を摘みに来た。三蔵は何にも言わないけれども、俺の摘んでくる花を邪険にしたことはないから、きっと少しは喜んでくれているんだろう。 太陽が高くなると、そこらじゅうに溢れている花たちも様変わりする。 真夏のきつい日差しが似合う、色鮮やかで力強い花たちはすっかりその出番を終え、優しいはかなげな感じの花たちが静々と寄り添うように開きだす。 今日は何を摘んでいこう。秋桜もいいけどもう3日続いたし、その他の花たちは落ち着き払ったたたずまいで、今の俺の気分に合わない。元気のない三蔵には、もっと華やかで誇らしげに咲いている花を見せてあげたい。だけど思うような花にめぐり合えなくて、俺はうろうろと足を伸ばしていた。 そんなときだ。あの花を見つけたのは。 山の中の花は、可憐だけれども小さくて地味なものが多い。経験上それをよく知ってた俺は、地面の平らなところばかりをうろうろと歩いていた。さっき群生していた野菊を摘むしかないのかな、そう思って行き着いた先は例のお墓だった。 俺はお墓の土手に目をやって、はっと息を飲んだ。ついこの間来た所に、見たこともない花が咲いている。辺りの低い叢をしもべのように従えて、すうっと薄緑の綺麗な茎が天に向かって伸びている。その先に咲いた花は、炎のように鮮やかな赤が踊っているような印象の、華やかでりりしい花だ。 俺は慌てて駆け寄った。よく見ると、あちこちにすうすうと、鮮やかな赤が伸びている。数日前まで何にもなかったはずなのに。そう思って見ると、その花には葉っぱのひとつもついていないのだった。 ただ地面からまっすぐに伸びた茎が、それだけが使命のようにあでやかな花を咲かせている。土手にへばりつく緑の草が、その赤い花をあがめてはいつくばっているように見える。三蔵みたい。俺は胸をドキドキ言わせた。 花しか咲かせない潔さも、すらりと伸びた美しい姿も、周りの草に負けない倣岸なあでやかさも、すべてが三蔵そのものだ。 決めた。今日はこの花を摘んで帰ろう。土手に生えている花だから、誰のものでもないのだろうけれども。俺は辺りを見回した。すぐそばに、墓守のじいちゃんが掃除をしている。俺は声を張り上げた。 「じいちゃん、この花、もらって行っていい?」 じいちゃんは、ゆっくり腰を伸ばして俺のほうを透かすように見た。ちょっとためらうように眉根を寄せる。 「いいじゃろ。だが、少しだけだぞ。」 「うん! ありがとう! えと、この花、なんて言うの?」 「………曼珠沙華じゃ。」 俺が感じた通り、なんだか三蔵に似合いそうな名前だ。マンジュシャゲ。 じいちゃんはいつも気前がいいのに、今日はなんだかケチだった。 俺は言われたとおり少しだけ摘むつもりでいた。だけど気が付いたら腕いっぱい赤い花を抱えていた。赤い花といっても、一つ一つ色が違うんだ。炎みたいな赤も、夕焼けみたいな赤も、よく熟れた桃みたいな赤も、どれもこれも三蔵に見せたかった。 俺は長く伸びたおしべにほっぺたをくすぐられて、くすくすと笑いながら、一目散に三蔵の部屋へと戻って行った。 マンジュシャゲは葉っぱがないので、花瓶に真っ直ぐ挿すと、花だけがいきなり花瓶の首から覗いて、なんだか格好悪かった。 俺はマンジュシャゲのすうらりと伸びたきれいな緑の茎も見せたくて、四苦八苦しながら飾り付けた。深い花瓶は駄目だと分かって、大僧正のじいちゃんの部屋まで行った。そこには浅い鉢にトゲトゲのいっぱいついたのを入れて、そこに花を挿すようになっているのもあるのを、俺は知っていた。 「じいちゃん。」 声を掛けながら覗いたが、返事はない。いつも悠然と構えているじいちゃんさえ、お彼岸は忙しいのだった。俺は無人の部屋を眺め回して、掛け軸の下の鉢を見つけた。中にトゲトゲも入ってる。 「借りるね。」 俺はお礼の代わりにマンジュシャゲを1本、掛け軸の下に置いた。薄墨の山水画の下に鮮やかなマンジュシャゲの赤はとっても映えて、俺はなんだか良い事をした気分になった。 摘んできたマンジュシャゲは、鉢には入り切らなかった。 俺は大僧正のじいちゃんの部屋に置いてきたマンジュシャゲを思った。存在感のある花だから、ああやって横に置いとくだけでも素敵に見える。窓際に注意深く置いてみた。うん。いいかも。花の大きさを揃えて並べてみる。殺風景な出窓に、華やかな赤いラインができた。 それでもまだ一掴みのマンジュシャゲが残ってる。俺はそれらをあちこちに飾り付けた。三蔵の筆立て、壁に掛かってるなんだか難しい言葉の入った額、いろんな道具類の入った戸棚の取っ手の上。思い付くところ全部に鮮やかな赤を散らしていった。 やっと手の中のマンジュシャゲがなくなった頃には、三蔵の部屋はびっくりするくらい明るく見えた。 俺は満足して見回した。これならきっと三蔵も喜んでくれるだろう。 いつのまにか窓の外は暗くなっている。最近あっという間に夜が来るようになった。これも季節が変わる証拠なんだそうだ。 部屋の外がざわついている。きっと三蔵が帰ってきたんだ! 俺は帰ってきた三蔵の驚く顔が見たくて、わくわくしながら部屋で待ちうけていた。 聞きなれた足音が近づいてくる。途中からお供の僧を振り切って身軽になった三蔵の、少し乱暴な足音だ。あの歩き方は、あんまり機嫌の良くない音かも。俺は大きく扉を開いて三蔵を出迎えた。 「さぁんぞ!」 もう既に赤マルを咥えてライターを擦りかけていた三蔵は、いきなりの俺の声に眉をひそめ、それから部屋の中を見てポカンとした顔をした。 「俺が飾ったんだぜ! きれいだろ! もっとよく見てよ!」 俺は三蔵の腕を掴まえて、部屋の中へ引っ張った。案外たやすく、三蔵は俺の手に引っ張られて部屋の中に踏み込んだ。なんだか呆れたような顔つきで、部屋中の赤を見回す。 「へえ…。」 三蔵の口から素直な感嘆の言葉が漏れたのを聞いて、俺は嬉しくなった。 「彼岸花か…。」 火の点いてないままの煙草を口の端に引っかけて、それをくらくら揺らしながら三蔵は呟いた。俺は首を傾げた。 「ちげーよ。マンジュシャゲだもん。」 「おんなじだ。馬鹿。」 三蔵のぶっきらぼうな言い草に、俺はちぇっと唇を尖らせた。だけど三蔵は、言葉ほどにはこの花を嫌っているわけではないらしい。ゆっくりと首を巡らせて、それから思い出したように赤マルに火を付けた。 「な、すっげーきれいだろ! 俺、この花を土手で見つけたとき、三蔵みたいって思ったんだ。だからぜって、見せたくて!」 「俺は彼岸花か…? 言い得て妙だな。」 三蔵は薄笑いを浮かべて煙を吐き出した。俺は張り切った。三蔵の周りを忙しく飛び跳ねながら、土手に咲いていたマンジュシャゲの、潔く伸び切ったさまを説明しようと伸び上がった。その時、なんだか部屋の外がやかましくなった。 俺は扉の方に注意を向けた。大きな声が俺を呼ばわりながら近づいてくる。あれは、いつも大僧正のじいちゃんの傍に張り付いている、坊主たちの中でも飛び切りやな坊主だ。じいちゃんが偉いのは自分のおかげであるかのように、いつでも威張りくさってふんぞり返っている。 「悟空! この妖怪め! 大僧正さまのお部屋にこのような…。」 開けっ放しだった扉に踏み込んだ坊主は息を呑んだ。片手に、俺がじいちゃんにやったマンジュシャゲを持っている。彼は闖入者を迎えるように戸口に向けられたマンジュシャゲの赤に圧倒されているようだった。 「どう? きれいだろ、この花!」 俺は胸を張って言った。三蔵も気に入っているらしい花を否定されるわけはないと思っていた。だが、その坊主は見る見る憤怒をその顔に浮かべた。 「何と言う不遜な事を! この罰当たりめが!」 ガラガラ鳴るような大声で俺を怒鳴りつけると、大声で小坊主たちを呼び、手を叩いた。 「早くこの不浄な花を片づけるのだ!」 「不浄…ってなんだよ! なんで片づけちゃうんだよ!」 俺は慌てた。飾るだけだって、あんなに時間が掛かったんだ。このきれいな部屋を、そんな風に荒らされたくない。 だけど、その坊主は片っ端からマンジュシャゲを叩き落としてしまう。俺は彼の手にぶら下がった。 「止めろって! せっかく飾ったのに!」 「この…馬鹿者! こんな墓場の花なぞ、尊い三蔵様のお部屋に撒き散らす奴があるか!」 「…そりゃ、お墓から摘んできた花だけど…!」 お墓だってどこだって、地面はつながっているのに。みんな俺の懐かしい大地なのに。お墓だってお寺だっておんなじ土に決まってるのに。 「見ろ、この凶凶しい赤を! これは死体の血を吸った色なのだ!」 「ちがわい! お墓っつっても土手から摘んできたんだもん! 死体の血なんか吸ってないよ!」 仮に本当に吸っているとしても、あの泣き伏していたおじさんの女の子の血だ。それなら素晴らしくきれいなはずだ。 「馬鹿者! よく聞くのだ!」 坊主はますます居丈高になった。なんだか嬉しそうに見える怒り顔で、俺をじっと睨む。 「この花は不吉な花なのだ。何のよすがもないところから生え出て、あたり一面を血の色に染める。しかも可憐なふりをして、この花は毒まで持っているのだ。毒花なんだぞ!」 「え…? 毒…?」 俺は突然浴びせられた思いがけない言葉にびっくりして、思わず後ずさった。毒花だから、墓守のじいちゃんはなんだかケチだったんだ。呆然とする俺に、坊主が我が意を得たりとばかりに、にやりと笑う。 「まるでおまえ自身のようだな。」 「………おい。」 俺の背後から三蔵の低い声がした。俺を怒鳴りつける事に夢中になっていた坊主は、明らかに三蔵の事など忘れていたのだろう。びくっと身を竦め、あからさまに狼狽した顔をした。 「片づけるな。これはせっかく悟空が俺のために飾ってくれた物だ。それとも何か? 俺の私室の事までおまえにとやかく言う権利があるのか?」 「は…しかし…。」 「サルにはこの花が俺に見えるらしい。」 三蔵は短くなった赤マルを、灰皿ですり潰した。三蔵の背後にさりげなく庇われている真っ赤なマンジュシャゲの鉢は、三蔵の金髪を引き立てていた。 「俺も気に入っているんだよ。この花が。何のよすがもないところから生え出て、血の色に染める? しかも毒花? まるで俺の事だ。そうじゃねえか?」 「さんぞ…。」 俺はそんなつもりでこの花を摘んできたわけじゃない。 俺の後ろで小さくなってかしこまる坊主より、俺はよほど後悔していた。三蔵にそんな事を言わせるつもりはなかったのに。ただ俺は、この花の赤が三蔵の忙しい心にも明かりを灯してくれるように思えて、三蔵を喜ばせたかっただけなんだ。 俺はぼんやり立ち尽くしていた。坊主に払い落とされて踏みにじられたマンジュシャゲみたいな、悲しい気分だった。 次の日になっても、たっぷり水を吸ったマンジュシャゲは、燃えるような鮮やかな赤さを保っていた。 三蔵は昨日帰るのが遅かったためか、今日は朝から書類仕事に追われている。 いつもなら久しぶりに部屋にいる三蔵に纏わりついて、うるせえって怒鳴られちゃう俺だけど、今日は三蔵が背後にしているマンジュシャゲの赤が居たたまれなかった。 本当に、三蔵の鋭いみたいな金の髪に、燃えるみたいなマンジュシャゲは良く似合うんだ。昨日、あの坊主が言った酷い言葉をそのまま実証するように。 俺は立ち尽くした扉からじりじりあとずさって、三蔵から離れた。 途中で気が付いた三蔵が、何か言いたげに俺の方を見ているのが分かったけど、俺は三蔵の顔が見られなかった。 「おい、悟空。」 「…俺、遊びに行ってくる!」 三蔵の声はちっとも怒ってなかったけど、俺はその場から逃げ出した。 どうして三蔵が、そんなにマンジュシャゲと俺を庇ってくれるのか分からない。 裏山からお寺を遠巻きに回って町へ降りた。移動だけですっかり時間が掛かって、もうお昼だった。腹がグウグウなったけど、お寺に帰る気はしない。 俺は悟浄と八戒の家へ向かった。どうせ俺が行けるところなんてそんなに数は多くないんだ。いつものように八戒を呼んでドアを開けると、珍しくそこには悟浄がいた。 「悟浄、めずらしいね、こんな時間に。」 悟浄はちっとも腰の座らない男だ。だいたいいつも、明るいうちからふらふら町へ遊びに行ってしまう。元々は賭博で生計を立てていた彼は、町の盛り場に行けば、なじみの顔がわんさといるらしい。 「よお、子猿ちゃんか。どうしたい、しけたツラして。」 悟浄は寄りかかったイスの背をきしませてそっくり返った。賭博を生業にしていただけあって、悟浄は意外にも繊細で、人の顔色を窺うのがうまい。俺なんかはいつでも見透かされて悔しい思いをしている。 「んー、別に…。八戒は?」 「買い物に行ったよ。昼飯食ってくんだろ?」 悟浄はイスをガタガタ鳴らして引いてくれた。仕方なく俺は、そこに腰を降ろした。 「…今日は花はなしか? お猿ちゃんにしちゃ、珍しいじゃねえの。」 いつもお土産代わりに持ってくる花のことを言っているらしい。なんでいきなり核心をつくかなと、俺はほんのちょっぴり恨めしく思いながら首を振った。昨日の今日で、さすがに花摘みをする気分ではなかった。 「んー、ちょっと昨日…、失敗しちゃって…。」 「失敗? はは、それで八戒に慰めてもらいに来たのか。」 ぷかぷかハイライトをふかしながら笑う。まったく図星だったので、俺は小さく頷いた。 悟浄にそんな風に軽い調子で言われるのは面白くないけど、本当のことだからしょうがない。悟浄は俺のそんな渋い顔を見てなんだかやたら嬉しそうだ。 「どれどれ、お兄さんに言ってみたまえ。相談に乗ってあげようじゃねえの。」 何がみたまえだよ。俺は唇を尖らせた。八戒だから失敗を聞いてもらう気になるんだぞ。 だけど俺は結局、ポツリポツリと昨日のことを話し出していた。誰にでもいいから、昨日のことを聞いて欲しかったんだ。 「…でな、毒花だって言うんだ。そうしたら三蔵が、三蔵にぴったりだって言うんだ。」 そういったときの三蔵の傷ついたような顔が忘れられなくて、俺はぼそぼそと言う。悟浄はイスの足を半分浮かせた伸びきった格好をしていて、俺の話をちゃんと聞いていてくれるのかさっぱりわからなかったけれど、その中途半端な態度がなんだか俺を安心させていた。 「何のよすがもない…ね。お寺の坊さんもなかなか小洒落たことを言うじゃねえの。」 しばらくすると、悟浄はそんなことを言った。ふと俺は悟浄に悪いことを言ったかなと思った。マンジュシャゲの真っ赤な花は、三蔵よりももっと悟浄を連想させる。 「…しかしま、毒花なんてのは、ある意味誉め言葉だぜ。」 ややあって、悟浄はそんなことも言った。俺の方を見て、小さくウインクすらしてみせる。 「毒も薬も紙一重なんだぜ。毒気のまったくないヤツなんざ、面白くもクソもねえヤツってことだ。やつらがありがたがって使ってる薬だって、一つ間違えりゃ、立派に毒薬になる。」 「そ…なの?」 「そうともさ。カビから作る薬だってあるの、知ってんだろ。」 俺はかろうじて頷いた。ペニシリンてヤツだな。三蔵に聞いたことがある。 「いずれ、おまえはそんなにへこむこたねえよ。三蔵はあれで結構洒落のわかるやつだぜ。そんなに気になるなら、後で彼岸花の根っこでも掘ってみりゃいい。きっと三蔵の上機嫌のわけがわかるぜ。 それに、…へへへ。」 悟浄は急に何か思い出したみたいに笑った。 「三蔵が彼岸花なら、八戒はさしずめ、トリカブトってとこだな。」 「………へえ。」 俺が返事をするより早く、戸口の方から声がした。だらんとだらしない格好をしていた悟浄の背中がいきなりぴしっと伸びた。 「僕はトリカブトですか。それはそれは。」 「あ、八戒、お帰り。」 俺は振り返って声を上げた。両手にいっぱいの荷物を抱えた八戒がにこやかに立っている。だけど…こころなし、頬が引きつっているような。 俺は立ち上がった。俺の言いたいことは言ったし、悟浄の言う、マンジュシャゲの根っこも気になる。さっそく掘ってみようと思った。 「おや、悟空、もうお帰りですか? ご飯を食べていくんじゃなかったんですか?」 「うーん、いい。これから行くとこがあるから。」 本当はものすごく未練だったけど、俺は無理してそう言った。八戒は残念そうに笑った。 「そうですか、困りましたねえ。材料が余っちゃいますよ。これから悟浄も出かけて、当分ご飯はいらないそうですから。」 「………あのー、八戒さん…。」 悟浄が情けない声を出した。八戒は見事なくらいにこやかに悟浄を見た。 「おや、そんなところでまだぐずぐずしているんですか? とっととお行きなさい。 それとも、トリカブト入りのご飯でも作って差し上げましょうか?」 うわあ。さすがの俺にも、八戒がこの優しい笑顔の下で激怒していることがわかった。 俺はそうっと悟浄の顔を窺った。悟浄は情けない顔をして、がっくり肩を落としていた。 「……な、やっぱりトリカブトだろ。」 俺にだけ聞こえるように小さい声で囁く。そんなこと言わない方がいいのに。八戒はときどき、ものすごく耳がいいんだ。 俺は恐る恐る八戒を見た。ほら、やっぱり。額の青筋が確実に増えている。俺は悟浄と一緒に外へ出ながら、小さい声で囁き返した。 「トリカブトなんて言わなきゃいいのに。八戒怒ってるよ。」 すると悟浄は落ち込んでいるくせに、なんだかとっても余裕のある顔をした。 「しょうがねえよ。俺は八戒の毒にこてんぱんにやられてるんだから。 それにな、トリカブトにだってとっても綺麗な花が咲くんだぜ。」 俺は驚いて悟浄の顔を見た。 毒ってそんなに悪いものじゃないのかな。俺は初めてそう思った。 マンジュシャゲの根っこに一体何があるんだろう。俺はお墓まで一生懸命走った。 お墓は、お寺の門を乗り越えればすぐだけれど、町から行くのは結構遠い。墓は、誰でも行けるけれども、住んでいるところからは適当に遠いところがいいんだと三蔵が言っていた。 お墓に近づいて、草花が多く茂ってくると、転々とマンジュシャゲが咲いている。俺はお墓の土手に着いてびっくりしながら辺りを見回した。昨日あれだけ摘んだのに、マンジュシャゲたちはまたぐんぐんと茎を伸ばして真っ赤な花を風に揺らしている。あの坊さんが言ったとおりだ。マンジュシャゲは赤い絨毯を敷き詰めたみたいに、辺りを真っ赤に染めていた。 お墓には、またあのおじさんがいた。昨日ほどではないけれども、まだ泣いている。 悲しみに暮れるおじさんの前でざくざく土を掘るのがなんとなくはばかられて、俺はぼんやり突っ立っていた。おじさんがいなくなったらマンジュシャゲの根っこを掘るんだ。だからそれまで待っていようと思った。 「おい。」 思いがけず、とてもよく知った声に呼ばれて、俺は驚いて振り返った。三蔵が、書類仕事のまんまの服装で、俺の後ろでマルボロをふかしていた。俺を探しに来てくれたのだろうか。珍しく優しいじゃん。 「またあの親父か。」 三蔵が、言葉ほどにはぶっきらぼうでなく呟いた。 「…おまえも、俺が死んだら、あんなふうに泣くのか?」 「………あったりまえじゃん。」 「馬鹿だな。俺は彼岸花だぞ。」 俺はそれには答えなかった。三蔵は、自分が彼岸花─マンジュシャゲだから、悲しむのは意味がないって言いたいんだろうか。いきなり生えてきて、葉っぱも残さない花だから。だけど、俺には無理なんだ。 だってもし、三蔵が俺の前から突然消えたら、俺はどうしようもなく狼狽する。 どんなに言い聞かせられても、冷たい体に触っても、絶対にそれを認められない。 きっと声が嗄れるまで呼んでしまう。喉が潰れたら探しに行ってしまう。いつか三蔵の生まれ変わりに出会えるまで、世界の端から端までさまよってしまう。それがどんなにあてどもない旅でも。 俺はしゃがみこんで指先で柔らかい土を掻いた。マンジュシャゲが淡い緑の茎を伸ばしている土だ。花が途中で折れないように、そうっと土を掻き分けた。 「何のよすがもないところからいきなり花が生えるものなんてあるわけねえ。彼岸花は、花が終わってから葉が出るんだ。」 俺は三蔵の柔らかい声を聞きながら、一生懸命土を分けていた。青々とした茎の下から、柔らかい丸みを帯びた根が現れた。 「花が終わってから伸びた葉で、たっぷり栄養を根に蓄えて、冬に備えるんだ。そうやって彼岸花は命をつないでいく。次の年も、また次の年も。」 俺は三蔵の声を背後に聞きながら、じっとその根を見下ろしていた。確かに豊かに太った根は、永遠に続く営みを約束しているように見えた。 「おまえと俺が彼岸花だって言うのは、本当に的を得てるかも知れねえな。たとえ花が枯れたって、俺たちはその場限りで終わるわけじゃねえ。また次の年も、きっと花を咲かせるさ。 それに、…確かに毒はあるが、処理のしようによっちゃ、彼岸花は食えねえこともねえ花なんだぜ。誰にでも愛想を振り撒くわけにはいかねえが、必要としてくれるものには確実に恩恵をもたらしてやれる。」 うずくまっていたおじさんがゆっくり立ち上がるのが見えた。おじさんは涙と鼻水を袖でぐいっと拭いた。もしかして三蔵の低い声が届いたのかもしれない。死んでしまった女の子の為に、自分自身の見えないよすがの為に、おじさんは真っ直ぐ進んでいくんだろう。 「俺は、おまえとおんなじ彼岸花でよかったと思ってるぜ。俺たちは独立しているように見えて、ちゃんと根っこで繋がってるんだ。」 三蔵の大きな手が俺の頭をゆっくり撫でた。いつまでもこうしていたいけど、もう三蔵をお寺に返してあげないといけないな。三蔵はみんなの太陽で大輪の花で、誰もが待ち焦がれているんだから。 「俺、三蔵がどんな毒の花だっていいよ。」 俺はゆっくり三蔵を見上げた。 「俺、もう、三蔵の中毒だから。三蔵の毒は俺にとってのお薬なんだ。」 頭に載っていた三蔵の手が、思わず悲鳴をあげるほどにぎゅっと俺の頭を掴んだ。鼻の頭に皺をよせて、三蔵は少し意地悪そうに笑った。 真っ赤なマンジュシャゲの群れの中に、三蔵の黄金の髪はやっぱり絵に描いたようによく似合っていた。 |