緋毛氈




霜月も末ともなれば、寺院の様相も慌しさを増してくる。三蔵のデスクの上には、書類の山が、こなしてもこなしても積み上げられて、彼の気分を著しく害していた。

「…くそっ。」

三蔵はマルボロのフィルタを噛み潰した。長く伸びた灰が舞って書類に細かい焼け焦げを飛ばし、それが一層彼を苛立たせる。

「…んな細けーことまでいちいち重要書類にしやがって…。来賓の席順なんて、てめえらで決めやがれ。」

思い切り丸めてやろうかと思ったが、ぐっと辛抱する。そこにはすでに、大僧正の印もある。温和で悟空にも優しい老人は、三蔵の弱みの一つでもある。
大僧正が悟空を庇ってくれるから、何とか悟空はこの広い寺院の片隅に起居を許されているといって過言でない。
小賢しい坊主どもは、三蔵がなにに弱いかを承知していて、あらかじめ手順を踏んだものを回してくるようだった。

「嫌がらせじゃねえか…なにが三蔵法師様だ…ったく。」

しかし、いったん引き受けてしまったものは、きちんと目を通してからでないとサインも出せない。三蔵のそんな性格も熟知している寺の僧どもには、実は三蔵ほど扱いやすい者はいないのかもしれない。
三蔵は、名目だけの重要書類を歯軋りしながら読み下していった。



やっと八分目ほど書類が減った。顔を上げると、すでに午後もだいぶ時間が経っている。どうやら、今日の分の書類の“おかわり”はもうないらしい。
三蔵は少し愁眉を開き、肩をまわした。明日の行事に備えて、今日は少し仕事を早めに切り上げてもいいらしい。

そういえば悟空の存在をすっかり忘れていた。少し早く仕事が終わったならば、久しぶりに悟空と一緒に夕餉をとることにしようか。
三蔵は強張りきっていた自分の眉間から、ゆるりと力が抜けていくのを感じた。
悟空のことを思うとき、自然に肩から力が抜けていく。それを自覚したくなくて、ことさら眉間に力を入れたとき、廊下の端から騒々しい足音がしてきた。
まるで自分が呼び寄せたようなタイミングじゃないか。三蔵は新しいマルボロに火をつけた。

「三蔵! …うぁ!」

扉を叩きつけるように開けた悟空は─妙な格好だと思ったら、シャツを胸までめくりあげて、その中になにかしこたま詰め込んでやがる─片手を放した勢いの為か、抱えてきたものを景気よく部屋中にぶち撒きやがった。
部屋の中に大粒の雨が降ったような音がした。三蔵の頭やデスクの上にもそれらは降り注ぎ、いくつかは硯を直撃して巨大な跳ねを飛ばした。
三蔵は呆然とした。せっかく出来上がりかけた書類が墨まみれだ。見下ろせば真っ白な法衣までもが水玉模様になっているから、この顔が濡れた感じも、きっと災禍を免れてはいない証拠なのだろう。

硯の中央に申し訳なさそうに鎮座しているのは、大きなドングリだった。
おそらく今年最後のドングリたちが、悟空の手を経て、招いてもいない三蔵の執務室に大量に闖入してきたわけだ。

「ああっ、俺のドングリ! せっかく集めてきたのにぃ!」

甲高い声に我に返る。気がついた時にはハリセンを振り下ろしていた。
空気を切る軽い音がして、悟空の甲高い悲鳴が上がる。

「いてーっ! なにすんだよう!」
「それはこっちのセリフだ! このバカザル!」
「最後のドングリなんだぞ! もう森のどこを探したって、一粒のドングリだってないんだからな!」
「だったらてめえで大事に抱えていやがれ! 俺はくれなんて一言も言ってねえ!」
「うーっ、うーっ、だって、三蔵だってたまには外の雰囲気が味わいたいかと思って! わざわざ探してきたのに!」

悟空は地団太を踏んで、黄金の目を潤ませた。
三蔵の怒りは、実は最初のハリセンの一撃でだいぶそげている。今はただ、むやみな主張を繰り返す悟空の様子がおかしくて、からかいの言葉を重ねていくだけだ。

「頼んでねーよ! バーカ!」
「うっ、…三蔵の…ばかぁ!」

悟空は捨て台詞を吐くと、わずかに残っていたドングリも全部放り出して、盛大に足音を響かせて飛び出していってしまった。
三蔵は部屋を見渡して、大きなため息をついた。傍付きの僧が、何事かと覗きに来て、部屋の惨状にあたふたしている。
僧らが大挙して押しかけてくる前に、三蔵は転がっていたドングリを一つつまみあげた。
大きな丸いドングリで、ちゃんと帽子もかぶっている。これは確か、ずいぶん遠くまで足を延ばさないと見つけられない木になる実だったはずだ。
三蔵は思わず小さく含み笑いを漏らした。



結局、書類の類はみんな書き直しで、三蔵の仕事はいつもより長くかかってしまった。
最後の書類に印を押すと、待ちかねていた僧がねぎらいの言葉を掛けてくる。その、上の空なほめ言葉を聞きながら、三蔵は悟空のことを考えていた。
飛び出していった悟空はまだ戻ってこない。窓から外を覗うと、すでに日は落ち、空気も冷え切っている。

「…ったく、しょーがねえな…。」

三蔵はぼやきながら立ち上がった。
本当は三蔵にも、今日という日が何であるか、なぜ悟空があんなにドングリなぞを抱えてきたのか、ちゃんと分かっている。その上で尚、素直になりきれないのは、悟空から発せられる手放しの祝辞が照れくさいからだ。

「…面倒ばっか掛けやがって…。」

言いながらも頬が緩んでしまうのは、悟空のまろい微笑に癒されきっている自分を自覚しているからかもしれない。
心の耳を澄ませば、いつでも悟空の声が聞こえる。それが、こんなにもこわばった心をほぐしてくれるようになるとは、思ってもいなかった。
三蔵は、さも面倒くさそうな顔を作り、大きく肩を回した。それから、わざとらしくため息をついて、歩き出した。
悟空の声は、裏山の方から響いている。



風が冷たい。三蔵はマルボロを噛むと目を眇めた。
まもなく、煙草の煙のせいでなく、息が白くなる季節がやってくる。
ますます寒くなるはずの山中で、三蔵の向かう先だけがほのかに暖かく思えるのは、きっとそこに悟空がいるからだ。過保護な大地は、いとし子に対してのみ、自然の摂理すら捻じ曲げるらしい。
程なく三蔵は、目的の場所に行き着いた。藪をかき分けて、三蔵は思わず足を止めた。
悟空の周り一面には真っ赤な花びらが落ちていて、そこだけ暖かい敷物でもあるようだった。



「おい、何やってんだ、バカザル。」

ぶっきらぼうに声を掛けると、驚いたように振り向く悟空は、まだ眼を潤ませていた。

「さんぞ…。」
「帰るぞ。地べたに座り込んでんじゃねーよ。」

少し声を和らげて足を踏み出した。赤い花びらは、どれもこれも新しく艶やかで、芳醇な香りを放っているようだった。踏みにじってしまうのがためらわれる。
三蔵は足元に注意を払って進んだ。見ると悟空の手には小さな花の枝が握られている。
この花びらの絨毯は、そこから生まれ出でているらしい。

「なんだ…山茶花か。」

ほぼ散り落ちてしまっているようだが、悟空の手の中の花は、まだ十分に存在感を放っていた。
悟空は途方にくれたような顔をすると、小さく頷いた。

「ここまで、できるだけ静かに運んできたつもりなんだけど、どんどん落ちちゃって、もう一歩も歩かれないんだ。
せっかくきれいに咲いていたのを、一輪だけもらってきたのに…三蔵に見せる前にこんなに小さくなっちゃって…。」
「ふん、馬鹿くせぇ。」

三蔵は呟いた。緩んでしまう頬を乱暴な言葉と態度で押さえつけているのが、悟空には分からないのかもしれない。
傷ついた目をする悟空に咎められた気がして、三蔵は慌てて言葉をつないだ。

「山茶花じゃねえか…寒椿でもあるまいに、散ってナンボのもんだろうがよ。」
「だって、三蔵、ドングリ気に入らなかったじゃないか!」

急に思ってもいないことを叫ばれて、三蔵は目を瞬かせた。

「明日は…寺のみんなが盛大に祝うのに、俺だけ何にもなしなんてヤダ!
だから、せめて一番きれいな花を…って、思ったのに!」

叫ぶとついに我慢しきれなくなったのか、悟空の丸い頬に真珠粒のような涙が転がった。
梢がざわざわと鳴る。冷たい風を伴わない山の鳴動は、大地の御子を泣かせる三蔵を咎めるものなのかもしれない。
三蔵はこめかみを指先でさすった。どうにも自分は、悟空に対しては甘くなりすぎる。

「山茶花は、俺よりお前に、自分の一番きれいなところを見せたかったんだろうさ。」
「……?」

悟空はそれこそ小猿のように、頑是無い顔をして三蔵を見上げている。
三蔵は真っ赤な花びらの敷物と悟空をそっと見比べていた。いくら山茶花の花びらが多いといっても、花一輪のそれにしては数が多すぎる。悟空の傍には、優しい物どもが、常に追い従っているらしい。

「冬を代表する花である寒椿と、山茶花との最大の違いは、その散りかただ。寒椿が花ごと潔く落ちるのに対して、山茶花は豪奢に花びらを撒き散らす。そうして真っ赤に散り染めた大地を、山茶花は自分の美しさとして誇るのだろう。
だからその山茶花が散ったのは、お前のためさ。」

三蔵はかがんで花びらを数枚拾い上げた。ベロアの欠片にも見える豊かな赤が、名残を惜しむようにわずかに震えた。

「俺はこれでいい。ありがたくもらっておく。」
「でも…っ、それだけじゃ、やっぱり…!」
「………今年はドングリももらったしな。」

悟空がさらに目を潤ませそうになったのを見て、三蔵はしぶしぶ白状した。
懐に手を突っ込んで、さっきからゴロゴロしていたドングリをつまみ出して見せてやる。途端に、悟空の黄金の瞳が大きく見開かれた。

「三蔵は、俺が持ってくるものなんて、みんな捨てちゃうんだと思ってた…。」
「冗談じゃねえや。」

どうにも気恥ずかしくて眉間に皺がよってしまう。三蔵はその厳しい顔のまま、悟空に手を差し伸べた。
小さな暖かい手が縋ってくると、それをしっかり握り返してやった。

「お前が持ってきた花は、少しずつ全部押してあるし、きれいな小石だの葉っぱだの、セミの抜け殻だのはみんな取ってある。…流石に沢蟹とかカブトムシは放したがな。」
「本当に…?」

立ち上がった悟空がおずおずと近づいてくる。見下ろすと真っ赤に染まった頬が、嬉しそうにほころんでいる。
手にはまだ、残りわずかな山茶花をしっかり握り締めている。三蔵はほんの少し笑って見せた。

「おかげで、執務室の書庫の引き出し一つ、お前に占領されちまったがな。」

えへへ、と満足そうな含み笑いが聞こえ、三蔵の手の甲に柔らかいものが押し当てられた。見下ろすと、満面の笑みの悟空が、握り締めた三蔵の手に頬を摺り寄せているのだった。

「どうしよう、なんか、すっげ嬉しいんだけど、三蔵。」
「お気楽なサルだぜ、まったく。」

三蔵は無邪気に縋ってくる茶色い頭を見下ろした。悟空は三蔵の視線に気付くと、もう一度、花の綻ぶように笑った。

「俺が三蔵にしてあげられることなんて何にもないから、三蔵が喜んでくれるだけで、俺とっても嬉しいんだ。」

そんなことを言っておいて、いきなり不安そうな顔をする。

「…喜んでくれてるよな、三蔵?」
「……さあな。」

嘯いてみせると、途端に柔らかい体が絡みついてくる。三蔵は柔らかく微笑んでしまいそうな頬を引き締めながら、悟空の手を引く。

僧達や町の権力者たちが貢いでくれるものはもちろん、悟空が差し伸べてくれるものよりももっと、悟空自身の存在が、三蔵にとっての何よりの宝であることは、決して三蔵の口からは語られないのだろう。
三蔵は強く悟空の手を握りなおし、ことさらにそっけない振りを装った。

「帰るぞ、バカザル。」
「うんっ、あ、だけどその前に…。」

思いがけない力で引き寄せられて、大きく体を傾けさせた三蔵の耳に、悟空の柔らかい唇が触れた。

「お誕生日、おめでとう、三蔵。」

このときばかりは、三蔵も、頬の朱を止めることができなかった。





戻る