消灯の時間を過ぎると、サルはいつも俺の部屋に潜り込んでくる。サルには部屋も与えてあるのだが、北の端の小さな部屋だから、寒いし静か過ぎるのだとサルは言う。
そうして、あんまり縋り付くような目をするから、俺は仕方なく寝床の半分を提供してやる。サルはおずおずと俺の寝床に潜り込むと、俺の胸元で小さく丸くなる。
握り締められた俺の夜着が皺だらけになるくらいぎゅっと拳を握る。そんな夜は眠りながらビクビク震えたりもする。なにか怖い夢でも見ているのだろうか。
人の温もりを知ってしまったサルは、殊更一人の時間を怖がるようになった。
そして今夜はそれが猫付きだった。

「三蔵、この子、ミルク飲まないよ。」

サルは、泣き出しそうな目をした。暖かい炉の前に柔らかい布を敷いて、サルはそこに仔猫を寝かせていた。
ヤギ飼いの婆さんからもらってきた絞りたてのミルクを鼻の先に突きつけてやっても、仔猫はぐったり目を瞑ったままだ。乾ききった鼻の頭だけが時折ひくひくと動く。
サルだけでもウザいのに、その上仔猫の飼育とは。
俺は仕方なくミルクの平皿に指を浸した。かさかさの鼻の頭にミルクを擦り付けてやると、仔猫は抗議するように鼻を蠢かし、それからミルクをぺろりと嘗めた。
何回かそれを繰り返してやると、鼻の頭に塗られる物が旨い物だと気付いたらしい。次第に直接指を嘗めるようになり、次には僅かながら平皿から直接ミルクを嘗めた。

サルの目が輝いている。俺を見上げる目は、尊敬の色が浮かんでいる。

「飲んでくれた! これで元気になるよな!」
「…ああ。」

俺は目を反らす。仔猫が鼻面を嘗めたのは反射だし、皿のミルクも飲んだと言えるほど減ってはいない。それでもサルは安心したようだった。
仔猫をそうっと抱きかかえると、目やにだらけの汚い顔をものともせずに仔猫に頬刷りをする。

「明日、ちゃんとお母さんの所へ帰してやるからな。今夜はゆっくり寝るんだぞ。」
「…お前もいいかげんもう寝ろ。明日…また山へ行くんだろうが。」

サルはこの上なく幸せそうな顔をして頷いた。俺はなんだか罪悪感につまされる。

だから生き物は嫌なんだ。それが道理も分からないサルならなおさらだ。



呼ばれたような気がして、俺は夜中に目を覚ました。炉にはおき火がちらついている。仔猫の長いシッポがふらりと揺れたように見えた。

「猫ちゃん?」

いつのまに起き出したのか、三蔵が俺に背中を向けて蹲っている。仔猫を腕に抱えているらしい。
その大きな背中は、俺の声を聞いてちょっと震えた。俺はいきおいよく、暖かい寝床から抜け出した。素足に床がひんやり冷たい。

お腹が空いたのかな? 俺はワクワクしながらしゃがみこんだ。
さっきはちょっとしかミルクを飲まなかったから、きっともっと飲みたいって言ってるんだ。三蔵がしてくれたみたいに、今度は俺が飲ませてあげる。そうしたらきっと親猫に連れて行かれた他の仔猫たちみたいに、フワフワのムクムクになるんだろう。
俺は三蔵の腕にぶら下がるようにして、仔猫を覗き込んだ。

三蔵の大きな手の中で、仔猫はなんだか壊れたおもちゃみたいに見えた。

冷たい手が、俺の胸の中をギュッと掴んだ気がした。
俺は恐る恐る細い背中を撫でてみた。暖かくて柔らかい毛皮。俺が撫でると、文句を言うみたいに手足をぷるぷる震わすんだ。そうして今度こそ、かわいい声で鳴いてくれるに違いない。

仔猫の背中は、濡らした雑巾みたいにひんやりしていた。

前足をぎゅっと握ってみた。肉球を押すと、指の先からにゅっと爪が伸びる。そうするとイヤイヤって振りほどくはずなのに。

仔猫はもう動かなかった。ぺたんこのお腹はぺたんこのまま、小さな呼吸のために上下することもしない。

不意に、俺は岩牢に閉じ込められていたときのことを思い出した。
俺の側に遊びに来てくれた小鳥。あんなに忙しく動き回っていたのに、ある日突然動かなくなった。
どんなに指を伸ばしても僅かに届かないその先で、小鳥は蕩けてなくなった。かわいい声も、掌に乗る細くて暖かい足の感覚も消えないのに、小鳥の姿だけが蕩けてなくなった。

この仔猫も、そうして俺を置いていってしまう。

「どうして?」

声が震える。俺は三蔵の腕を強く握った。三蔵はなんにも言わない。

「どうしていなくなっちゃうの? 俺を置いていっちゃうの?」
「諦めろ。…仕方がなかったんだ。」

三蔵の声がいつにも増してぶっきらぼうに聞こえて、俺はぎゅっと目を瞑った。まぶたが食い込むほどに目を閉じているのに、涙がぽろぽろ流れる。

「親猫も、この子はもう駄目だってわかっていたんだ。だから置いていったんだよ。最初から…無理だったんだ。」
「だって、ミルクも飲んでくれたのに。この子は生きようとしてたのに。こんなに小さいのに…。」

言葉が続かない。俺に立ち向かうことのできない大きな不条理が、俺とこの世界を隔てている。俺はきっと誰からも忘れ去られて置いていかれてしまう。

「やだよ。三蔵、なんとかしてよ。三蔵はエライお坊さんなんだろ…。」

縋った三蔵の腕がミシリと鳴った。俺の力が強すぎるんだ。わかっているけど、俺は力を緩めることができない。

三蔵が膝の上に乗せていた仔猫をそっと敷物の上に下ろした。仔猫は、生きていたころの柔軟さとは程遠い硬さで横たわった。
三蔵の大きな手が、俺の頭の上に乗せられた。

「悟空、よく覚えておけ。生き物は生れ落ちた瞬間に死ぬことが決まっているんだ。それは誰にも変えられない。ただそれが早いか遅いかだけの差だ。死んでしまってかわいそうだなんてことはない。」

大きな手が、ゆっくりゆっくりと俺の頭をかき混ぜる。俺は歯を食いしばってその言葉を聞いていた。

「本当にかわいそうなのは、死んじまった後に誰も泣いてくれることがないことだ。坊主の経なんか本当は必要ない。死を惜しんで泣いてくれる人のあることが、一番の供養になるんだ。
だからこの仔猫は不幸せじゃない。お前もそんな泣き方をすることはない。思いっきり泣いていいんだぜ。」
「みんな…死んじゃうの? 本当に? 俺もいつか、みんなと同じところに行くの?」

俺は三蔵の顔を見上げた。涙で三蔵のきれいな顔がぼやけて見える。三蔵は僅かに笑ったようだ。

「そうだな…。おまえは少し遅いかもしれない。お前みたいに命冥加なやつは、きっとうんと長生きできるさ。」

そんな答はちっとも嬉しくなかった。
俺はもう取り残されるのは嫌だ。いつ終わるともない暗闇の中を、ただじっと蹲って待つあの生活に戻るのは嫌だ。この綺麗な金髪に二度と触れられないなんて嫌だ。
俺はもう一度三蔵の腕を握り締めた。手が震えているのが、三蔵に伝わっただろうか。

「じゃあ…、三蔵もいつか行っちゃうの? 俺を置いて行っちゃうの?」

見上げた三蔵の顔が、ほんの少し陰った。



サルが寝付いたのを見計らって、俺は寝床から抜け出した。
仔猫の側に跪き、小さな頭を撫でてやると、それは髭を震わす事で答えた。
こんな小さな生き物にも、一宿一飯の恩義を感じる誠意はあるのだ。褥を暖かい場所に移してもらっただけでも、この仔猫はあのサルに感謝するのだろう。それが最後の場所であったとしても。

最初からこの仔猫はもう助からないと分かっていた。
野生で生きていくには小さすぎる仔猫。きっと兄弟たちに跳ね除けられて、生まれたときから乳も満足に飲んでいないだろう。そうやって淘汰されていくのだ。それが自然の掟だ。

だが俺は、それをサルに言い聞かす気にはなれなかった。あの柔らかい心に刻み込むには、この真実は深すぎる。
サルはきっと、聞き分けなく泣き喚くだろう。

仔猫の足がピクリと震えた。最後の痙攣が、時間に抗うように小さな体の端々まで伝わっていく。
口が開いて、粟粒を並べたみたいな歯が見えた。それきり、仔猫は永遠に動かなくなった。

俺はため息をついた。柄にもなく、口の中で経を唱えてみた。この小さな命の勇敢さに、ほんの少し心動かされたのかもしれない。

俺は仔猫の温もりが去るのをじっと待っていた。このまま黙って、どこかへ埋葬するつもりだった。
サルには、元気になって逃げていったとでも説明すればいいだろう。あのきれいな黄金の瞳には、なるべく美しいものだけを見せてやりたい。

「猫ちゃん?」

背後から突然声を掛けられて、俺は不覚にも背中を震わせた。サルが起きだしてきていた。
まるでこの仔猫が、最後の力を振り絞ってサルを呼んだ、そんなタイミングだった。

サルは跳ねるような足取りで駆け寄ってくると、俺の腕の中を覗き込んだ。そのまま沈黙する。仔猫の亡骸をおっかなびっくり撫でる手が、僅かに震えていた。

「どうして?」

案の定サルは聞き分けがない。俺は仕方なく言葉を告いだ。言い訳めいた言葉が、自分でも不甲斐なかった。
サルはぎゅっと目をつぶった。大粒の涙が溢れては流れる。それは俺の予想していた泣き方とは程遠かった。

こんなにも罪悪感につまされるのは、きっとサルがこんなに切ない泣き方をするからに違いない。感情の発露を抑えて抑えて、それでも身を切られるような切なさに涙だけを溢れさす、サルの泣き方はそんな風だった。
こんな悲しい泣き方を、このチビザルはどこで身に付けたのだろう。ガキはガキらしく、涙も鼻水も一緒に振り撒きながら泣き喚けばいいのだ。
こんな風に、自然な感情さえ抑制された泣き方をするようなどんな経験を、このサルは積んできたんだろうか。

「………俺もいつか、みんなと同じところに行くの?」

だからこの質問に、俺は返って安心した。
このサルは、単純に死というものを恐れていただけなのだ。ガキらしい恐怖心で一杯になっていただけなのだ。だからこんなに俺が心を砕く必要はないのだ。俺はそう思って適当に返事をした。
500年以上子供のままで生き抜いているサル。そう簡単に最期が訪れるとは思えない。

「じゃあ…、三蔵もいつか行っちゃうの? 俺を置いて行っちゃうの?」

真剣な目だった。サルの恐怖心が伝わってきた。痛いほど握り締められた腕から、サルの嘆きが伝わってくる。俺は息を飲んだ。
この小さな体には、どれだけの悲しいことが詰まっているのだろう。こんなにも力を込めて縋られるだけの何を、俺はこのサルにしてやれるのだろう。俺は、この綺麗な黄金の瞳に溢れる、怯えと期待とに叶うだけの資格があるのだろうか。

だから生き物を飼うのは嫌なんだ。情が移って抱きしめて慰めてやりたくなる。

「心配するな。俺が行くときは、きっとお前も一緒に連れて行ってやる。」

俺は思わずそう答えていた。サルの頭を撫でてやりながら、こんなたわいもない約束で、このサルの悲しみが癒されることを願った。

「もうお前に淋しい思いなんか…させたりしねえよ。」

サルは俯いた。細い肩が震えている。膝の上で揃えた握りこぶしに、サルの瞳から零れ落ちた真珠にも似た涙が、砕けては消えた。

「…ひ────……ん、んっ、んっ、んっ………。」

サルは拳で顔を拭った。溢れ出した嗚咽は、細く高く、俺の胸に穴を穿つようだった。

修行が足りない。高僧が聞いて呆れる。

俺は自分の痛みを拭うように、サルを胸に抱きしめていた。



翌日はよく晴れていた。俺はあの猫たちを見つけたところまで、かわいそうな猫ちゃんを運んだ。三蔵も一緒だ。
忙しいお仕事を一生懸命寄せて、三蔵は俺に付き合ってくれた。

一本杉の根元に穴を掘る。あっという間に猫ちゃんの体を納める穴が掘れてしまう。俺は冷たい体とお別れするのが悲しくて、最期にこの子をぎゅっと抱きしめた。

「ここに埋めると、どうなるの?」

俺は三蔵に聞いてみた。三蔵はまぶしそうな顔をした。

「この杉に吸い上げられて、お前を見守ってくれるさ。」
「ふー…ん。」

それならきっともう淋しくない。杉の梢にはたくさんの小鳥たちが訪れて、この子と仲良しになってくれるだろう。

「三蔵、俺さあ。」

仔猫の小さな包みに土を被せてやりながら、俺は言った。三蔵は黙って聞いている。

「かくれんぼをして、誰もいなくて淋しかったけど、きっとこの子と俺が会うために、みんな来なかったんだと思うんだ。」

三蔵がぶつぶつ言った。オヒトヨシめって言ったのかな。

「きっと今度はこの子が隠れていて、それでいつかきっと見つけられると思うんだ。リンネって言うんだろ。生まれ変わって俺の前に来るまで、俺はこの子を探しててもいいんだなって思ってる。」

考えがうまくまとまらないけど、俺の言いたいこと、三蔵にはちゃんと伝わるかな。

俺は最期の土を被せて、手を合わせた。この一本杉が、かわいそうなこの子の墓標になってくれる。

「もう誰とも、二度と会えないなんて事…ないよな。」

半ば祈るような気持ちで、俺は三蔵を見上げた。三蔵はうっすらと笑って、俺に手を差し伸べてくれた。

「さあ、…帰るぞ。」
「うん!」

握り締めた三蔵の手は暖かい。俺は振り返ると最期に仔猫にお別れを言い、そして、三蔵と一緒に生きるために一歩を踏み出した。



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