きもちいいコト山のようにあった書類の束がようやく片付いた。金蝉は熱い梅茶をすすった。 濃く入れたほうじ茶に梅干を一つ落としただけの飲み物だが、書類仕事に疲れたときにはこれに限る。このほど良い塩分が体中に染み透るようだ。 梅は紀州産の肉厚のもの。できれば三年物の梅干が望ましい。 「…そういえば、悟空のやつ、遅いな。」 呟きが部屋の外に漏れたかのように、ドアがばたんと開かれる。両手に本を抱えた悟空の、得意満面のご帰還だ。 悟空のポーズを見れば、彼が足でドアを蹴り開けたことはすぐわかる。片足が高々と上がっているからだ。 「悟空っ! ドアは手で開けろと何回言ったらわかるっ!」 「ただいま〜。だって両手が一杯なんだもん!」 怒鳴りながらもなんとなく楽しそうだった金蝉の顔が急に引きしまった。悟空の背後から、天蓬が顔を覗かせたからだ。 「こんにちは、金蝉。楽しそうですねえ。」 「おまえか。何の用だ。」 「ご挨拶だなあ。頼まれた本を持ってきたのに。」 金蝉は、手渡された本に目を落とした。ピンク色の表紙に「李歐」と書いてある。 「何だこれは? 人名か?」 「高村 薫です。絶品ですよう。」 「ふうん。悟空、おまえは何を借りてきたんだ?」 「ほらっ、これっ!」 「…またア●パ●マンか…。」 金蝉は、すっかりお馴染みになった丸顔の表紙にため息をついた。 悟空はそんな金蝉の顔色に気付きもせず、得意満面だ。 「すっげーんだぜ、ア●パ●マンって! 顔が汚れると弱くなっちゃうんだけど、ジャ●おじさんに新しい顔を作ってもらうと元通りに強くなるんだぜ!」 「…そりゃ確かにすげーや。」 「ジャ●おじさんちはパン工場だから、ア●パ●マンは永久に強いんだぜ!」 「はいはい。まったくうっせーなあ、おまえは…。」 興奮しきって頬を高潮させる悟空に、金蝉は嫌そうな顔をしながらも、いちいち律儀に答えている。 天蓬がそんな金蝉の様子を見ながら微笑むと、金蝉は面白くないというような顔をした。 「でもさあ、俺、わかんねえんだ。」 悟空が少し声を落とす。金蝉の顔色を窺うような目を向ける。金蝉はいかにもいやいやを装って先を促した。 「ア●パ●マンの顔はアンパンだけどさあ、体は何でできてるんだろう。食パ●マンとかカ●ーパ●マンとかも、体を作ってるのは見たことないんだ、俺。」 「…くだらねえ…。」 「そんなことありませんよ。いいところに気付きましたねえ、悟空。」 横合いからいきなり天蓬に割り込まれて、金蝉は面白くなさそうに梅茶をすする。 「それはねえ、きっと、ジャ●おじさんとバ●子さんが調達してくるんですよ〜。」 「ほんとー!」 悟空のきらきらした尊敬のまなざしを受けて、天蓬はえらそうに反り返る。 「そうですよう。それが証拠に、あの村には人間は一人もいないじゃありませんか。きっとジャ●おじさんとバ●子さんが、夜な夜な狩をするんです。」 「すっげー! カッケー!!」 「あのア●パ●マン号だって、パン屋には過ぎた装備です。アレできっと人体改造を…。あのパン工場の裏には使用済みのされこうべがゴロゴロと…。」 「うわあ、すっげー!!!」 「おい天蓬!」 堪り兼ねて金蝉が叫ぶ。天蓬はいつもの穏やかな笑顔で振り返った。 「なんです? 金蝉。」 「サルに気持ち悪いこと教えるな!」 「別に気持ち悪くないですよ?」 「おまえが良くても、俺が悪いんだっ!」 「なあなあ、んじゃさ、金蝉。」 悟空がくいくいと金蝉の袖を引く。金蝉は不機嫌な顔のまま悟空を見下ろした。 「気持ちいいこと教えてよ。」 「…何だ、気持ちいいことって。」 「あのね、せっくすしてねんまくを擦りあわすと気持ちいいんだって。天ちゃんが言ってたよ。」 「ぶはあっ!!!」 「ご、悟空!」 金蝉は飲みかけていた梅茶を盛大に吐き出した。天蓬が慌てて悟空の側に駆け寄る。 「…ダメですよ、悟空。そういうことはもっとムーディーに誘わないと。」 「むうでぃーって何?」 「そうですね、例えば…。」 「…天蓬っ!!!」 「…あら、金蝉、ご立腹ですか?」 金蝉は仁王立ちになってわなわなと震えていた。いつも愛用している白い服が、ほうじ茶で茶色に染まってしまっている。 だが、問題はそんなことではないらしい。握り締めた厚焼きの茶碗がみしりと音を立てた。 「おまえっ、ガキにろくなこと…っ!」 「…何なら僕が悟空に教えてあげても…。」 「うるさいっ! 出てけっ!!!」 金蝉が手にしたままの茶碗を振り上げたのを見て、天蓬は慌てて立ち上がった。 すばやく閉めた扉に、茶碗があたったらしい重い音がする。 「ひゃあ、危機一髪。怒りっぽいなあ、金蝉は。カルシウム不足じゃないですかねえ。」 振り返ってぽりぽりと頭を掻く。そこに悪びれた表情はない。 「それにしても、悟空、ちゃんと教えてもらえるんですかねえ。気持ちいいこと。」 少し考え込んでいた顔が不意に人の悪い笑顔になる。 「…明日悟空に聞こうっと。」 スキップしながら帰る元帥閣下を、何人もの部下が信じられない目で見送っていた。 |