お傍日記 −10月−




セイタカアワダチソウの生い茂る野原に来れば、きっと悟空を見つけられると思いましたのに、私はまだそれを果たせないでいます。
海を越えてやってきたという黄色い花は、いつの間にか野原を埋め尽くし、黄色い海へと変貌させていました。 勢いを増してきた風が、黄色い花の野原を、まさしく本物の海が荒れるように右へ左へと薙ぎ払っています。
普段なら悟空は、三蔵様の色だと喜んで、飽くことなくこの黄色い野原で遊んでいるのです。でも、流石の悟空も、この強い風と雨に辟易したのかもしれません。
おそらく今年最後の嵐が、上空に渦巻いているのでした。



麓の風読みが、嵐の到来を告げたのは昨日のことでした。
空の色や風の匂いに天候の変調を感じ取る風読みは、どこの村にも必要ですが、彼は特にその精度を誇っていました。その彼が、顔を蒼くして大きな嵐の到来を告げたものですから、村は大騒ぎになっていました。
今年は特に嵐が多く、人々の備えも充実してはおりましたが、風読みのいつにない真剣さが人々の不安を煽りました。
収穫を間近に控えた穀物や果物の畑を見回るもの、放牧していた動物たちの回収に躍起になるもの、そして、夏の暑さに傷んだ家屋を補修するもので、悟空の大好きな裏山もかなり踏み荒らされてしまいました。手ごろな木材を求めて、村人が大挙したからです。
流石に、三蔵様のおわす寺院のお膝元たる裏山に踏み込むものはわずかでしたが、峰続きの山々には、ここからも分かるほどに山肌が見え、荒らされてしまっているところもあるのでした。
最近この辺りの山を親から受け継いだ地主は、山の木々を材木としか考えていない男でした。ですから、嵐の到来はそのものにとっては好機でしかなく、建材にするにはまだ青い木でさえ、木であるという理由だけで無残に刈り取られています。
こんな光景を見たら、悟空がまたはらはらと涙を落とすに違いないと、私は密かに胸を痛めていました。悟空がどうにもならない理不尽さを三蔵様に訴えていたのはもう先のことだったのです。



「杉の木が…! あの立派な1本杉がなくなっちゃった!」

いつものとおりご機嫌で遊びに行った悟空が、血相を変えて戻ってきました。よほど慌てて戻ってきたと見え、丸い膝小僧には、転んだのか血の滲む有様です。
執務室で書類を睨んでいられた三蔵様は、顔をしかめたまま悟空を見つめられました。そうして一つため息をつくと、聞こえなかったとおっしゃるように、また書類に目を落とされました。

「なあ、三蔵! あの杉の木が…!」
「うるせえ。しょうがねえだろうが。」

三蔵様はしぶしぶ筆を置かれると、煙草をくわえられました。そうして大きく椅子の背に寄りかかって、苦々しいお顔をされました。

「あの山は寺の管轄じゃねえんだ。いくら端でワイワイ言おうが、持ち主の意向じゃしょうがねえだろう。」

三蔵様の投げやりなお言葉に、悟空は酷く傷ついた顔をしました。

「でも…でも…、この辺じゃ一番大きな木だったのに! もう600年も前からここにいるって言っていたんだよ!」

悟空が木々や花々と言葉を交わすのは別に珍しいことでなく、その意思の疎通が悟空の言葉どおりであるにしろないにしろ、それらは悟空の大切な友達なのでした。

「どうして簡単に切っちゃうんだよ! あの木はまだまだ生きるんだったのに!」
「どうして…といや、一枚板にして、座卓を寺にも寄贈するとか、殊勝らしいことを言っていたが。」

三蔵様は苦いものをかみ締めたようなお顔をされました。

「切ってみれば、中ほどに洞があって、…使い物にならねえって、寄贈を断りやがったな。」
「そんなの…最初から分かっていたことだったのに!」

私たちに分からない、大木の中ほどの洞も、悟空にとっては簡単に看過できるものであったようです。悟空は、地団太踏んで悔しがりました。

「杉だけじゃない、辺り一面掘り返しちゃって! あそこには植物や、虫や、小さな動物がたくさんいたのに! 全部…全部…!」
「うるせえ! 俺にどうしろっていうんだ!」

ついに三蔵様が癇癪を起こして怒鳴りなさりました。悟空はびくりと首を竦めると、大きな蜂蜜色の瞳をいっぱいに見開きます。みるみるそこには涙が溢れてきました。
悟空にとって三蔵様は、万能の神であるのかもしれません。しかし、当然ながら三蔵様のお手の届かない事もあり、お寺の存続に寄与しない個人の財産など、その最たるものなのです。
三蔵様は忌々しそうに舌打ちなさいました。私にはそれが、お力の及ばない三蔵様の歯がゆさだと分かっておりましたが、悟空は悲しそうに項垂れてしまいました。
そうしてとぼとぼと歩いていく小さな背中を追いかけることは、三蔵様にも、私にも出来なかったのです。



ますます風が強くなり、肌を叩く雨粒は痛いほどになってきました。私は思わず風から顔を背け、その先に三蔵様を見つけました。
いつまでも戻らない悟空に焦れなすった三蔵様が、嵐も省みずお出でになったものと見られます。しかし、尊い三蔵様がこのような嵐に打たれることはあってはならないことで、私は心臓を握りつぶされるような焦りとともに、三蔵様の元へ駆けつけました。

「三蔵様、嵐でございますから…!」
「猿はどうした。」
「いえ、必ずすぐに連れ戻しますから、どうぞ三蔵様はお戻りになって…。」

言いかける私を無言で押しとどめ、三蔵様は顔を上げられました。そうして不意に苦々しいお顔をなさると、勢いよく踵を返されました。

「三蔵様…?」
「…馬鹿が。」

短い叱咤のお言葉は、私ではなく、悟空に向けられたものでした。
そうして、三蔵様が足元のお悪い中進まれたのは、あの杉の木のあった山林の中でした。



遠目にも分かっていたとはいえ、近づいてみると伐採の跡はそれは生々しいものでした。
へし折られた枝は白い繊維を無残に晒し、掘り起こされた赤土が、幾筋も小さな流れを作って麓へ流れ落ちていきます。足元さえ定まらない山道に、私は何度も転びそうになりました。
踏みしめる度に踵までめり込むもろい土壌に、三蔵様の白い足袋が無残に汚れていきます。私は、あの泥汚れを落とすのは骨だなあと、ぼんやりそんなことばかりを思っていました。
不意に三蔵様が立ち止まられ、下ばかりを見て歩いていた私は、危なく三蔵様のお背中にぶつかりそうになってしまいました。
慌てて顔を上げると、そこは悟空の大好きだったあの杉のあったところで、無造作に積み上げられた赤土が小高い丘になった上に、捜し求めていた小さな姿がありました。



「悟空!」

私は思わず叫んでいました。朝方、三蔵様が丁寧に梳かされて、臙脂の紐で結ばれた髪がざんばらに解け、勢いを増す風に舞っていました。一体いつから悟空はそこに立ち尽くしているものか、衣服は全てしとどに濡れ、そこここから雫が滴っているのでした。
ああ、あんなに雨に濡れては、風邪を引かせてしまう。思わず駆け寄ろうとした私を、三蔵様が片手で制されます。お難しいお顔で睨まれる先を見て、私はハッと息を呑みました。
悟空の鉤のように曲がった指からは長く爪が伸びていました。風に煽られる髪に見え隠れする瞳は、いまや朔の月のように細く鋭く、いつもの悟空の愛らしさをとどめていないのでした。
一体どうしたことでしょうか。悟空の本能を縛るはずの金鈷はそのままに、悟空は今や荒々しい神の姿をさらけ出してしまっているのでした。

「迂闊に近寄るな。あれは悟空じゃない。」
「でも! 悟空なんです!」

突き放したような三蔵様のお言葉に、私は思わず叫び返してしまい、そうしてたちまち後悔いたしました。三蔵様が噛み付くようなお顔で私を睨まれたからです。



悟空を深く愛しんでいる三蔵様がおっしゃるお言葉に、慈悲がないわけはないのでした。三蔵様が危惧されているのは偏に私の安全でなく、起こり得る惨事の後の悟空の嘆きを慮っていられるのに違いないのでした。
そうした私たちのやり取りに気付いたのか、悟空がゆっくりとこちらを見ました。嵐に立ち向かうように四肢を踏みしめたまま、険しい顔は綻びません。でも、心なし削げて見えるずぶぬれの頬が、涙に濡れているように思えるのは、私の思い過ごしでしょうか。

「ここはまもなく崩れ落ちる。」
「…だろうな。」

悟空のものとは思えないような低い声に、三蔵様は臆する事なく答えられました。そうして辺りを見回しては、鋭く舌打ちなどなさるのでした。

「木を切るとは言っていたが、こんなに広範囲に根まで掘り返しやがって。…スキー場でも作るつもりでいやがったのか。」

悟空の嘆きがいまさらに私の胸に沁みました。まったくこの有様は、手当たりしだいといっていいでしょう。緑滴る森だった山の反面は、今や残土を晒した只の斜面でした。

「ここが崩れれば、下の村を直撃だ。人死にが出るぞ。」

悟空はニッと笑いました。口元からは長く犬歯が伸びていました。

「山の死を、人の死でもって購うのだ。愚かな人の子の償いとしては気が効いておる。さあ、どれだけの命を差し出すのだ。
空と土が長年育んできた緑の代償だ。高くつくぞ。」

ああ、これが本当にあの愛らしい悟空の口から出る言葉なのでしょうか。私は只立ち尽くすだけでした。
悟空はと言えば、恐ろしい言葉を投げつけながら私達を睥睨するだけでした。固く踏みしめた足はまるで地に根が生えたようで、まさしく大地の申し子たる悟空の本性が透けて見えるように思えました。でも、それでいながらも、悟空はやはり三蔵様が愛しんでおられる幼子で、私の慰めでもあるのに違いないのです。
私達を睨みつけるその顔が、なぜか悲しみに濡れているように思えるのは、私の贔屓目だけではありますまい。
ふ、と、三蔵様が肩の力を抜かれるのが分かりました。



「確かに人の子は愚かだ。だが、それならおまえは、どうしてここを守っている?」

悟空が小さく震えるのが分かりました。瞬いた黄金の目からは険しさが薄れ、いつもの愛らしい蜂蜜色の瞳に戻りつつあるようでした。

「おまえがそこを退けば、たちまち山が崩れるのだろう。
それをしないのは、おまえの中に眠らされている悟空が嘆くからだ。そうじゃないのか?」

私はやっと、拭い去れない違和感に納得がいったように思いました。嵐を背に、村人達に害をなそうとしているにしては、悟空の姿はあまりにも痛々しすぎるのでした。
俯いた悟空の小さな震えは、やがて肩を揺らすような哄笑になりました。そうして三蔵様と私を睨みながら、悟空は叫ぶのでした。

「人の子など生きて高々100年、大地の営みに比べれば毛程の価値もないものを、愛しいと言うのだ、このお人よしは。そうして自分の身を削ってまで僅かな寿命を全うさせて、なにが嬉しいんだろうよ。
おい、そこな人の子。おまえはこいつに何を誓う。こいつの嘆きの何をわかってやれるというのだ。」
「…俺に出来ることはわずかだ。だが、俺は俺の命がつきるまで、悟空を手放さないと決めたんだ。…今言えることはそれだけしかない。」
「決めた…誓うよりも確かだと言うのだな。」

悟空の声が次第に高くなっていきます。気がつけば、禍々しく伸びていた爪も犬歯も、いつの間にか小さくなっていて、悟空は愛らしい元の姿を取り戻しているのでした。

「愚かな人の子らよ。おまえ達は失ったものの素晴らしさを知らないのだ。この杉だけはない。このあたり一面の樹木…それらの恩恵を、おまえ達は知らな過ぎる。」
「…そうだな。」

悟空の姿が戻るにつれ、三蔵様のお言葉も柔らかくなって行きます。いまや三蔵様の前にいるのは、いつものやんちゃな幼子でしかないのでした。

「春には芳しい花を。夏には涼しい木陰を。秋にはたわわな実りを。冬には凍てつく風を遮る幹を。」

三蔵様が歩き出しました。嵐は依然勢いを落とす様子も見せませんが、三蔵様の歩みはずっと軽く見えました。
「…そうして、綺麗な空気と水を。小鳥や小さな動物達には住処を。…俺には遊び場を。三蔵にはお昼寝の木陰を。
みんなだってこの森の花や実を楽しんできたはずなんだ。なのに…何で簡単に切っちゃうんだよ。」
「…馬鹿猿。」

三蔵様の呟くようなお声が、嵐の間を縫って私にも聞こえました。三蔵様の前でしゃくり上げているのは、荒ぶる神から大地の御子に戻った、私達の悟空でした。



この季節には珍しい遠雷がしています。間もなく嵐も収まるのでしょう。

「嵐が過ぎたら、最高僧の権威でこの斜面には苗を植えさせる。
だからそんなに嘆くな。また嵐が来るぞ。」

確かに、この嵐はあるいは、大地の御子たる悟空の嘆きに呼応したものだったのかもしれないのでした。
三蔵様の広げた腕に、悟空がすがり付いていきます。大地の御子を懐にした三蔵様の御髪が、いつにも増して神々しく輝くのが見えました。







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