お傍日記 −11月ー




まな板が軽快な音を立てました。水気をたっぷり含んだ大根は、光るような白さを増しています。私はそれを丁寧に短冊に切り、湯のみに入れると、深く頭を垂れながら黄金色に輝く蜂蜜を垂らしました。
普段なら大僧正様しか召し上がれない希少な蜂蜜は、大僧正様のご厚意で悟空に頂いたものでした。これで大根を浸してしばしおくと、咳によく効く蜜が取れるというのも、大僧正様からじきじきに伺ったことなのでした。
私はいくつか作り置いた大根のはちみつ漬けの、一番奥のものを取り出しました。大僧正様に教えていただいたように、大根の水分がすっかり上がってきております。
それを持つと私はそそくさと踵を返しました。先ほどから、庫裏を任されている僧が胡乱な目で私を見ていました。
この寺では、三蔵様に差し上げるお食事ならともかく、悟空のために一人前の時間や手間が取られることを、決して快く思わないものも依然多いのでした。


私は静かに廊下を進み、突き当りの粗末な扉を叩きました。
三蔵様があらせられるときには、三蔵様のお膝元に入り浸っている悟空でしたが、今は大人しく自分に宛がわれた部屋に篭っております。
北向きの小さな部屋は、悟空のような幼い子供に宛がえるにはどうかと思わざるを得ないのですが、三蔵様が捨て置かれるものを、私にはどうすることも出来ないのでした。
返事の代わりに小さな咳が聞こえ、私は少し肩を落とすと、そっと扉を開けました。
白い寝具が小さく盛り上がって、そこに悟空のいることを示していました。


セイセイと、小さな悟空の胸が鳴っています。
幼い子供の辛そうな様子は、どうしてこんなにも胸に迫るのでしょうか。私は湯飲みを下ろすと、悟空の様子を検めました。
力なく投げ出された手足はまだとんでもなく熱く、頬もゆだった様に真っ赤です。薄く開いた唇はひび割れて血が滲んでいました。丸い額に手を押し当てるまでもなく、まだ悟空の加減が悪いことは察せられました。
私が寝具を触ったためか、小さな声を上げて悟空が薄く目を開けてしまいました。とろりと濁った瞳が私を見上げて、それから悟空は小さなため息をついたようでした。

「…ん、ぞ、は?」
「さあ、まもなく戻られますよ。目が覚めたならこれをお飲みなさい。大僧正様からのお差し入れですよ。」

声までがひび割れて辛そうです。私は優しく、しかしながら強引に悟空の背中を支えて起こしました。蜜の入った湯飲みを手渡すと、今度ははっきりと、悟空はため息をつきました。
わずか数日のうちに、悟空の背中はしぼんでしまったようです。
悟空が体調を崩したのは、三蔵様が出立なされてすぐでした。


先日の嵐ですっかり体を冷やした悟空は、どうやら風邪を引いてしまったようでした。
それでも、翌日から始まった修復工事や、森林再建のための植林など、悟空には珍しくも嬉しい事柄が続いたようで、三蔵様や私がたしなめるのにも構わず、あちらへこちらへと飛び回っていたのです。
嵐の被害は我々が思っていたよりよほど甚大だったようで、まもなく三蔵様には長期のご出張の命が下りました。各地を回り、被災した方々を慰労して回られるのです。その期間は、一月ほどになるご予定でした。
本来ならば、そのような長期のご出張には、なにをおいてもお傍係の私が同伴せねばならないのです。三蔵様がそれを固辞されたのは、偏に悟空のことがあるからなのでしょう。
悟空の蜂蜜色の瞳は、多くの村人たちにはまぶしすぎ、どんな噂を呼ばないとも限らないのでした。
普段は、お留守番も平気でこなせる悟空が、酷く切なそうな目をしたことを覚えています。
そして悟空は、数日経たないうちに寝込んでしまったのでした。


悟空は、小さな湯飲みに半分ほどたまった蜜を、休み休み飲みました。喉が酷く腫上がっていて、つばを飲むのさえ辛そうなのでした。
これまでも悟空は、風邪を引いたり、柿の枝を踏み折って転げ落ちたりして、その度に三蔵様や私を心配させてくれたものでしたが、今回のように食欲までなくしてしまうことなどついぞなく、それがますます私を不安にさせているのでした。
おそらく、冬に向かっているこの時期がよくないのでしょう。三蔵様のおっしゃるとおり、悟空は大地の御子であり、緑が形を潜めている今は、悟空の体調も今ひとつ芳しくないようでした。
そして、何よりも三蔵様のご不在が、悟空の体調を大きく左右しているのに違いありません。
悟空にとっての三蔵様は、文字通り太陽であらせられるのでした。


私はようやく飲み終えた悟空の手から湯飲みを受け取りました。袖口の大きな寝巻きから覗く指先が震えていて寒そうです。
すぐに又横になってしまう悟空に布団を着せてやりながら、私はもう一枚布団が必要だと感じていました。この部屋は病人には寒すぎます。

「悟空、お布団をもう一枚持ってきますけれど、ほかに何か要りますか? 食べられるようならおかゆさんでも炊いてきますよ。」
「………さんぞ…。」
「え?」

呟くような悟空の言葉を聴きあぐねて、私は問い返していました。
私を見上げる悟空の目は、熱のせいばかりでなく、赤く潤んでいました。

「なんにも要らない。さんぞがいればいい。さんぞ…いつ帰ってくるの…。」

きっと熱の辛さがいつもより悟空を涙もろくさせているのかもしれません。
でも私はすっかり困り果ててしまいました。三蔵様のご帰還はまだまだ先で、悟空を宥めるすべは私にはありません。
はらはらと涙を落とす悟空の前に立ち尽くす私を救うように、扉を叩く音が聞こえました。


扉の前には、悟空と仲のよい小坊主が、気遣わしげな顔をして立っていました。手には一抱えある箱を持っています。小坊主は恭しく頭を下げました。

「三蔵様から悟空にお届け物です。」
「三蔵様から?」

おおよそ何事にも無関心な三蔵様が何かを送ってこられることなど初めてのことで、私は驚きながら箱を受け取りました。それは大きさの割には軽く、何かよい香りがいたしました。
三蔵様の一言が聞こえたのでしょうか。悟空はけだるい顔をして、それでもこちらをじっと見つめていました。

「三蔵様から、そなたにお届け物だそうです。」
「さんぞが…? な、なに?」
「開けてあげましょう。そのように慌てないで。」

悟空は一瞬にして明るい表情を取り戻し、それが私の頬も緩ませました。
中に入っているものを傷つけないように注意しながら蓋を開けていくと、よい香りが強くなりました。

「…わあ…っ!」

悟空が小さな歓声を上げました。箱の中にみっしりとつまっているのは紫と黄色の菊で、それらが辺りによい香りを振りまいているのでした。


中には紙が2枚入っていました。私は悟空の膝の上にその箱を乗せ、悟空が菊をよく見られるようにしてあげてから、紙を開きました。
1枚は菊の説明書でした。それによると、これらは食用菊なのでした。香りは菊そのものですが、苦味が少なく、甘みさえ感じるものだと言うことでした。
もう一枚は、三蔵様からのお手紙でした。
おそらく、悟空にも読みやすいように大きな文字で書かれたそれは、ごく簡潔なものでした。
私は思わず微笑んでしまいました。三蔵様には悟空の状態をお伝えすることが出来ないままだったのに、悟空のことなら三蔵様は全てお見通しのようでした。


「悟空、三蔵様からのお手紙が入っていますよ。」

顔を上げた私は、思わず口を押えていました。
数輪の菊を抱きしめる姿で、悟空はいつの間にか眠っていました。まだ頬は真っ赤でしたが、先ほどまでの苦しげな様子が影を潜め、口元にはかすかに微笑みさえ浮かべているのでした。
私は悟空のお布団を直してあげ、改めて三蔵様の文面に目を落としました。あんまり泣くな。俺が帰るまでそれでも食ってろ。と言う短い文面は、おそらく悟空が菊を食べつくすまでには戻ってくると言う謎掛けであるのでしょう。
悟空の普段の食欲を鑑みれば、三蔵様のご帰還は予定を大きく早回るものに違いありません。


夕餉には、悟空のためにおかゆを炊いて、そこに菊を散らしてあげようと、私は思いました。きっと悟空は喜んで、食も進んでくれることでしょう。
真っ白なご飯に紫と黄色の花びらが散る様子を思い、その楽しさに自然心が浮き立ってくる私でした。

Photo素材『Harmony』











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