お傍日記 −2月−




一年の中でももっとも寒い時期になりました。
今日はことのほか寒く、井戸端で洗い物をしていた私は、背中を丸めて指に息を吹きかけました。水は切るように冷たく、指先は真っ赤にかじかんで感覚がありません。
固まってしまった腰を伸ばすように反らし、私は空を見上げました。まだ早い時間だというのに、灰色に曇った空は重く視界を覆いつくし、今にも泣き出しそうに思えました。
ふと、悟空の様子を思い出しました。
今年は例年になく暖かい冬で、山間のこの寺にもまだ土の窺えるところもあります。
それでも寒さが増すにつれ、元気の塊のような悟空が日増しに大人しくなっていくのが気がかりなのでした。
悟空の気鬱は、春になるまで晴れないのでしょうか。
洗い桶を抱え上げた私は、思わず小さく吐息をついてしまいました。
大きな雪の一片が─おそらくはそのまま凍りつくのに違いない湿ったぼた雪が─今まさに降り出したところでした。


夜半になって勢いを増した雪は、朝方にはすっかり一面を銀世界に変えていました。
私はしんしんと冷える廊下を渡って三蔵様の執務室に出向きました。空はまだ雪を降らし足りないらしく、重く垂れ込めているので、辺りは夕方のように暗いのでした。
私はお持ちした蜀台を置くと、思わず辺りを見回してしまいます。悟空が外へ出た形跡はないのですから、いつもなら三蔵様のお傍に甘えた顔をしているはずなのでした。

「…サルならいねぇぞ。」

三蔵様が苦々しげにおっしゃいます。三蔵様のご機嫌がおよろしくないのも、どうやら悟空の不在に原因があるようでした。

「…見てまいります。」

申し上げると、三蔵様はあからさまにほっとしたお顔をされました。
私は踵を返し、悟空の北向きの小さな部屋へ急ぎました。


曇天にもかかわらず、いつも薄暗い悟空の部屋が尖った白さに満ちているのは、積もった雪の反射によるものでしょうか。私はさして広くない悟空の部屋をぐるりと見回して、扉の裏にあたる壁際にその小さな姿を見つけました。
なるべく窓から遠ざかろうとしたのでしょうか。悟空は板の間に、寝巻きで裸足のまま蹲り、しっかり両耳を押さえているのでした。

「悟空…、風邪を引いてしまいますよ。」

なるべく柔らかく声を掛けると、彼は恐々目を開けました。大きな黄金色の瞳には、幕を張ったように涙が浮いているのでした。

「午後になったら、手の空いた者から雪投げなどするようですよ。そなたも混ぜてもらったらどうですか?」

それは口からでまかせでなく、小坊主たちの楽しい計画でした。実際悟空も誘うようにと、私は彼らに頼まれていたのです。
でも悟空は、かたくなに首を振るだけでした。
悟空にとっては清らかなこの雪が、全てを飲み込む恐ろしいものなのでした。

「では…せめて三蔵様のお膝元にお出でなさい。そなたがそのように塞いでいては、三蔵様がご心配なさります。」

私は悟空の細い腕を掴み、やや強引に引き上げました。悟空は、全てのものを拒絶するかのように小さく拒みましたが、三蔵様のお名前を上げた時にだけは大人しくしてくれるのでした。
こうして私はなんとか、悟空を三蔵様の元にお届けすることに成功したのです。


所要で何度か三蔵様の執務室をお尋ねしましたが、いつも悟空は窓から一番遠い壁の隅に蹲って耳を押さえているのでした。

「ちっと寝ろっつってんだが。」

三蔵様は麗しい眉間に皺を立てなさります。

「言うこと聞きやしねえ。この俺よりも、雪のほうが恐ろしいんだとよ。」
「三蔵様はお優しいですから。」

他意はなく本心で申し上げましたのに、三蔵様は射抜くような目で私を睨まれました。
私は少し肩を竦め、悟空の傍に跪きました。悟空は私が入ってきたのにも気付いていないようでした。

「悟空、少しはおやすみなさい。三蔵様のお膝元です。何をそのように恐ろしいことがありますか?」

そっと問いかけると、しばしの沈黙の後、悟空は細い声を上げました。

「だって…雪が…。」
「雪がどうだと言うのですか?」

何ほどのこともない、と言うつもりで窓を指しましたが、悟空は首を振るばかりでした。

「雪が降ると、何にも見えなくなって…音も全部吸い込まれて…俺がこの世にたった一人だって思い知らされるんだ…。」

それはいつもの悟空にない妙に大人びた物言いで、私は思わず言葉を飲み込みました。

「真っ白い雪がすべてを覆いつくしてしまう。遠くの山も、木立も、全て。きっと三蔵だっていつか雪に飲まれて見えなくなってしまう…。」

確かにこの雪景色はいつにもました静寂を呼んでいて、雪は何者をも捕らえて放さない魔力を秘めているようにも感じられるのでした。
私が思わず言葉をなくしているのを見かねたのか、鋭い舌打ちと共に、三蔵様が立ち上がられました。

「三蔵様…ど、どちらへ。」

声をおかけする私に一瞥をくれて、扉が荒々しく閉じられました。
すっかり静まり返った執務室に、私と悟空は取り残されたのでした。


ややあって戻っていらした三蔵様は、白磁の頬を寒さに赤く染めておいででした。裾や袂が濡れていて、どうやら三蔵様が雪の中を歩かれていらした様子が分かりました。

「悟空、来い。」

三蔵様は乱暴に悟空の腕を掴みなさると、そのままご自分の執務机にお掛けになり、悟空を強引にご自分の膝の上に座らせなさりました。三蔵様の執務机は明かりが良く入るように、背後と左側に窓があり、その窓の近さだけで今の悟空には恐怖のはずでした。
案の定、慌てて身を捩る悟空を、三蔵様はご自分の胸にギュッと押し付けなさりました。

「聞け。」

低いけれども、決して威嚇でない声が凛と響きました。

「雪に埋もれない音なら、いつでもここにある。好きなだけ聞いてろ。」
「う…うん。」

悟空の白い頬に血の気が戻ってまいりました。確かに、三蔵様の胸に顔をうずめた悟空には、三蔵様の確かな鼓動が聞こえているはずでした。

「それから…これを持っとけ。」

悟空の目の前に無造作に差し出されたのは、小さな黄色い花でした。

「福寿草だ。去年の苗が、ちゃんと今年も咲いていた。」

悟空の目が丸く見開かれました。その瞳の色は、福寿草の鮮やかな黄色に負けないぐらい美しく輝いています。

「雪は確かに全て覆い包むかも知れねえが、ちゃんとその懐にこうして命を抱いてる。すべてを滅ぼすわけじゃねえんだ。
おまえもいつまでもしょぼくれてねえで、この花みたいに健気に咲いて見せろ。」
「うん…うん、さんぞ………。」

悟空が三蔵様の胸に顔をうずめてしまったので、何を呟いたのかまでは私には聞こえませんでした。
でも、三蔵様のお優しい、ご慈悲に満ちたお顔を拝見すれば、お二人にもっとも嬉しい時間が訪れているのが私にもわかりました。
私はそっと足音を潜めて執務室を退出いたしました。
お二人にも雪解けは近いようです。







戻る