お傍日記 −3月ー




遠くから私の姿を見とめた悟空が、転がるように走りよって来ました。三蔵様が用心して着せなすったコートはもはや分厚くて、悟空の頬は健康そうなピンク色に輝いております。

「ねえ! 見て!」

差し出される手のひらの上には、可愛らしい小さな、黄色と紫の花が乗っていました。

「おや、菫と…連翹ですね。」
「ちょっと可愛そうだったけど、あんまり可愛いからもらってきちゃった。」

ニコニコと、本当にこぼれんばかりの笑顔です。その後にはきっと、三蔵様のお色だと続くのでしょう。私は思わず微笑んでしまいました。
寒さの間は元気がなくて、三蔵様や私を心配させた悟空も、このところすっかり元気です。
雪解けとともに芽吹いた花々が、芳香とともに悟空の健やかさも運んでくれたようでした。

「そう…もう啓蟄も過ぎましたからね。」
「ケーチツ…? なにそれ?」
「だんだん暖かくなって、冬眠していた虫や蛙たちが目覚める頃、ということですよ。」

悟空には少し難しい言葉だったかもしれません。でも、私の拙い説明を聞いた悟空はパッと目を輝かせてくれました。

「そういえば、虫や蛙も見るし、鳥も鳴いてる!」
「春は誕生の季節ですからね。」

私は悟空を頼もしく見下ろしました。
幼い言動で軽んじられている悟空ですが、わずかな言葉からも気持ちを汲み取る感受性は豊かです。春の明るい気分を、悟空はしっかり受け止めてくれたようでした。

「春は楽しいですね。洗濯物もよく乾きます。」
「美味しいものもいっぱいあるしな!」

去年、土筆をてんぷらにしてもらったことを覚えているのでしょう。悟空は嬉しそうに地面を見下ろしました。きっと数日しないうちに、籠にいっぱいの土筆やせりなどを摘んできてくれそうです。


悟空はしゃがみこむと、手水鉢の中にそっと菫と連翹を浮かべました。可愛らしい黄色と紫が、小波を立てて、石造りの鉢の中を揺れました。

「風もこんなに気持ちいいし…三蔵もたまには外に遊びに来れればいいのにな…。」

後半は小さな呟きでしたが、私の耳にはしっかり届きました。三蔵様と申せば、相も変わらずたくさんの書類仕事を抱え、執務室でいつものように仏頂面をなさっているのでした。

「そうですねえ。三蔵様も少し日にお当たりになれば、少しは笑顔も出なさるでしょうに。」

私は独り言のように言いながら、洗い立ての三蔵様の法衣を振るいました。真っ白に洗いあがった法衣は、春の日差しの中に光るように見えました。

「悟空、そなたが三蔵様の元に、春を運んであげなさればいい。」
「春を?」
「そう、そのように、三蔵様のお手元まで春の欠片を運んで差し上げなさい。」

そよ風が吹いて、手水鉢の中の菫と連翹を揺らしました。まるで花たちが手に手を取って踊っているようです。

「きっと三蔵様もお喜びなさりますよ。」
「うん…でも…でも…、せっかく咲いている花をあんまり摘んじゃかわいそうだから…。」

悟空の表情がめまぐるしく動きます。悟空は、摘んでもかわいそうではない春を一生懸命探しているようでした。
やがて悟空の目が輝きました。何か三蔵様に差し上げるにふさわしいものを思いついたのでしょう。

「俺っ、沢に行って来る! 入れ物借りて行くね!」
「いってらっしゃい。あんまり遅くならないように。」

私は最後の洗濯物である、三蔵様の足袋を干しました。丁寧に糊を効かせたそれを、型崩れしないように整えて干し、丸めていた腰を伸ばしました。

「………沢?」

ふと思い返して、私は反復いたしました。
わざわざ沢まで足を伸ばさずとも、身近に手に入るものは沢山ありそうでした。
一体悟空が、わざわざ沢からなにを運んでくるのか…少し怖いような気が致します。


その日の夕刻。
そのとき私は、三蔵様の秘蔵の湯飲み茶碗をお探ししていたところでした。皇帝陛下から下賜されたその青磁は、かの方のおおせられるように、三蔵様のお肌をそのまま写し取ったように滑らかで静謐に青白いのです。国宝級とも言うそれが見当たらなくて、私は蒼くなっていたところでした。
それはまさしく、神の啓示というよりは虫の知らせと言ったほうが近いかもしれません。私は不意に悟空の言葉を思い出したのでした。
沢に春を取りに行った悟空は、入れ物を借りると言っていたはずです。美しい青磁は、悟空にとってもお気に入りの逸品なのでした。
沢の春…私はその直前に、悟空に啓蟄を教えたのではありますまいか。
もしやして、悟空の愛する春は、柔らかい色使いの花だけではないのかもしれません。


扉を開けた途端飛び込んできたのは、珍しく真っ赤に顔を高潮させなすって、悟空をどやしつける三蔵様のお姿でした。場違いな事かも知れませんが、そうして怒り狂っていられる三蔵様もまたお美しく、滑らかな肌に朱のさした様子はそれこそ春の訪れを予感させるようでした。

「だって! ケーチツだから! 暖かくなったから!」
「ふざけんな! だからってこんなところに突っ込むな! 危うく飲んじまうところだったじゃねえか!」

ああ、悟空、私が教えたことを素直に吸収してくれるあなたがとても愛しく感じます。
でもやはり、三蔵様のおっしゃるのが正しい。これはそのような器ではありません。


青白く高貴な器の水面は、黒くうねっていました。
びっしりといれられたおたまじゃくしも、春の訪れを喜んでいるようでした。











戻る