お傍日記 −4月ー




日差しが和らいで、桜の蕾も膨らみ出してございます。もう1日暖かい日が来れば、そろそろ花が咲き綻び出すでしょう。
去年この寺院に来たばかりの悟空は、大僧正さまが大変愛でていらっしゃる桜の盛りを知らないでしょう。植物好きの悟空のことですから、見事に降りしきる桜の花びらに、きっと歓声を上げてくれると思います。
私は楽しい空想に顔を綻ばせ、お掃除の手を止めて、小坊主と遊んでいる悟空を眺めやりました。長い髪がひらひらと翻って、それは楽しそうです。

悟空の長い髪を結うのが、三蔵様のひそかなお楽しみになっていることを知っているのは、私と悟空だけでしょうか。そう思うと、悟空の愛らしいお下げが一層愛らしく見えてしまうのは、傍仕えの私の贔屓目だけというものではありますまい。

「…悟空は小坊主とうまくやっているのか。」
「ええ。お友達も多ございますよ。」

先ほどから息抜きと称されて、悟空の駆け回るのを眺めていらした三蔵様が、不意に私に問いかけられました。私は振り向くと、にっこりお答えいたしました。
実際のところ、残念ながら悟空を取り巻く環境は、良好とは申せません。
悟空のあの、綺麗な蜂蜜色の瞳が、見るものには酷く禍々しく見えるらしく、悟空の起居するのさえあしざまに罵るものも少なくありません。

でも、この1年で悟空には味方も増えました。それはそうでしょう。悟空の素直で愛らしい内面を知れば、誰もが引き付けられるというものです。
しかし私は、そういった端から思わず眉を顰めてしまいました。大柄の修行僧の一人が、楽しく遊んでいた小坊主たちを蹴散らかすように突き進んできたからです。



修行僧といっても、実際のところ、小坊主たちと大して年齢が違うわけでもありません。
ですが、修行の内容や実務の厳しさは比べるべくもなく、ほぼ同年代の彼らが楽しく遊んでいるのが癪に障るのでしょうか。
しかし、小坊主たちは自分たちの責務は果たしているのですから、八つ当たりもままならず、そうした苛立ちは食客である悟空に向けられるのが常でした。
彼は、小坊主たちを庵の方へ追いやると、悟空に向かって居丈高に何か怒鳴っているようでした。

「…なんだ、あれは。」

三蔵様が、偽りなく不機嫌そうなお顔をなさってお呟きなされます。私は何も申し上げられず、俯いてしまいました。
悟空が決して手放しで歓迎されているわけではないことは、三蔵様とてご承知ないわけではないのです。
やがて悟空を好きなだけ罵倒して満足したのか、修行僧はふんぞり返るようにして立ち去りました。私は、私の可愛い悟空にそのような態度を見せる彼に憤りと、ほんの少し憐憫も感じていました。
彼はこちらに三蔵様がおわすことなど気付いていなかったのに違いありません。
三蔵様が、こと悟空に関しては、限りない博愛と強い執着心をお見せになることも存じてはいないのでしょう。今から彼に対する三蔵様の報復が心配です。



しゃがみこんだ姿勢のまま、しばらく首を傾げていた悟空が立ち上がると、一散にこちらに走ってきました。
ずっとこちらを見もしなかった悟空ですが、三蔵様がいらっしゃることをちゃんと承知していたようでした。そういえば悟空は、三蔵様の気配ならどんなに離れていても分かるなどと、可愛らしくも不思議なことを申すものです。

「なあ、さんぞ! 俺、頭の足りねえガキって言われちゃった!」

三蔵様の眉間の皺が、ますます深く刻まれなさります。そんなことにはまるでこだわらず、悟空は続けます。

「飯が足りねえって言うのは分かるんだけど、頭が足りないってどういう事? 頭も腹が減るみたいになるのかなあ。だって俺、ちゃんとみんなと同じに、頭一つついてるもん。」

私は思わず吹いてしまいます。確かに悟空の申すとおりです。

「………馬鹿猿が。」
「いたし方ございません、三蔵様。そろそろ悟空にも教育を授ける頃合かと存じます。」

私はやっと笑いを収めてご進言申し上げました。
三蔵様は、さも面倒くさそうに、首を大きく回されました。



「…詩歌の一つも歌えれば、チンピラにコケにされずに済むか。」
「さよう…ですが、詩歌…ですか。」

私は思わず言葉を詰まらせてしまいます。きょとんとした目を見開いて、私たちを見上げているばかりの悟空には、詩歌など難しすぎると思われるのですが、三蔵様はご自分のお考えにご満悦のご様子です。
そんな私の戸惑いには気付かれないで、三蔵様は悟空に向き直られました。いつものとおり、視線の高さを合わせることすらしない、一見手厳しい様子で悟空に語り掛けられます。

「悟空、お前は勉強が足りないから、あんな奴に馬鹿にされるんだ。俺が知恵を授けてやるから、それでも覚えておけ。」
「勉強…? みんながやってるヨミカキっていうヤツ?」

悟空は目を輝かせます。好奇心旺盛な悟空には、小坊主たちの手習いの時間も興味の元だったのでしょう。

「そうだ。…そうだな、とりあえず、春は曙だ。」
「アケ…?」
「曙だ。いってみろ。あ・け・ぼ・の。」
「あ…あーけーぼーのー? ……それ何?」
「曙…いわゆる明け方のことだ。これは四季の美しさを歌った歌の一節で、春は明け方が一番美しいといっている。やうやうしろくなり行くやまぎは…春の短い日が昇ってきて、辺りが白み始めた頃を歌っているんだな。山に掛かる雲の色や………。」

存じ上げませんでした。三蔵様がそんなにも清少納言に造詣がお深くていらっしゃるとは。
朗々と歌われる三蔵様を尻目に、そっと悟空を窺ってみると、ぽかんと口を開けたまま視線があらぬところをさまよっています。やはり。私は思わず嘆息してしまいます。悟空に季節を学ばせたいのなら、せいぜいがチューリップの歌ではないでしょうか。

そんな私たちの様子にもお気づきなく、一通りの説明を終えられた三蔵様は、満足気にわずかながら頬を高潮させなすって、悟空を見下ろされました。
三蔵法師様という尊いご身分でも、まだ年若くあらせられる三蔵様は、ご自分の詠唱の結果を今すぐお知りになりたいようでした。

「そんな意味だ。雅だろう。……分かったか、悟空。」
「へ? あえ、もう終わり?」

たちまち三蔵様の麗しい眉間が曇られます。私は知らず、静かに後退していました。

「終わりだ。おさらいだ。言って見ろ。春は……なんだ?」
「え? は…春…春は…。」

珍しく悟空が慌てているのが分かります。三蔵様はどこからともなく取り出されたハリセンを片手に、自らの肩を叩いていらっしゃいます。下手な答えをすれば、それが炸裂するのは必至でしょう。

「………さっき言わせただろうが。春はなんだ。」
「…悟空、あ…ですよ。」

私にも、ここまでの助太刀が精一杯です。私とて、三蔵様の逆鱗に触れたくはありません。
慌てたようにじたばたしていた悟空は、次第に先ほどの復唱を思い出したようでした。
「あ…あ…、あの…? えと、あ。」

一言を思い出すのに散々手足を振り回し、不意に悟空は得意げに胸を反らしました。

「春は…あのボケ!」

…私は三蔵様の背後に、春のいかづちが降るのを見た気がいたしました。

「このボケーッ!」

ハリセンの音に悟空の悲鳴が重なりました。
………悟空には春はまだ遠いようです。





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