お傍日記 −ふたたび4月ー




数日前、春の嵐が吹きました。
一晩中梢を鳴らし、唸りを上げる風の合間に、細い悟空の悲鳴が聞こえたような気が致しました。


「は……。」

私は水に濡れた手を払うことも忘れて立ち尽くしました。素足に水滴が垂れて、ようやく前掛けで手を拭うことを思いつきました。
そうして私がぼんやりしていると、侍従長はたちまち不機嫌そうに眉間に皺を寄せました。

「小さな寺院ですが、古刹です。地域住民の信頼も得ている寺です。そなたには過ぎた話だと思いますが、いかがですか。」

侍従長は口やかましいので煙たがられてはいますが、本当は後輩思いの人格者なのです。その気短が、彼の一番の欠点なのでした。

「ええ…とても有り難いお話だと思います。でも…。」

私は答えあぐねてむやみに前掛けを揉みました。水に浸されたままの悟空の上着が酷く気になりました。

「まあ…いいでしょう。即答が欲しいわけじゃありません。数日中に返事をいただけますか。」

侍従長は神経質に抱えた書類を揃えました。私は慌てて深く頭を下げました。

「ありがとうございます。考えさせていただきます。」
「急ぐことはありませんから、ゆっくり考えなさい。」

そう言う端から踵を返し、せかせかと歩いていってしまいます。
私はもう一度深く頭を下げました。


春の嵐の後には暖かい風が吹きます。梢の蕾も一気に膨らみました。
私は、三蔵様と少し遅れて歩く悟空の後を俯きがちに歩いていました。珍しく三蔵様からお誘いいただいた遠出なのに、私の胸は自身の身の振り方に塞がれて、ちっとも弾まないのでした。

「なあ、元気ないのな。」

ふと気がつくと、悟空が私の顔をじっと見上げていました。私は慌てて背筋を伸ばし、にっこり笑いました。悟空は手におにぎりの詰まった籠を捧げ持っていて、それを大事そうに運ぶあまり、酷く仕草が稚いのでした。

「そんなことはありませんよ。少し考え事をしていただけです。」
「だって…なんか最近ぼんやりしてる…。」

悟空は恨めしげに私を睨みます。
そういえばここ数日、悟空の元気な姿を見ていないのは、もしかすると私の怠慢のせいかもしれません。
私は空咳をし、改めて悟空を見下ろしました。
悟空はちょっとすねたような顔をして、前を進む三蔵様のお背中を見ているのでした。颯爽と進む三蔵様は、当然ながらお手に何も持たれず、そのせいか、楽しい外出なのになぜか緊張感を孕んだ出立のようにも見えるお背中なのでした。

「そういう悟空こそ、いつもならもっとはしゃいで三蔵様にくっつくのではありませんか?」
「俺、いつまでも子供じゃねーもん。」

思いがけず大人びた答えが帰ってきて、私はハッと息を飲みます。
そういわれて見れば、いつのまに背が伸びたのでしょうか。悟空の胡桃色の頭は私の肩ほどにあり、悟空が私を下から覗き上げるためには体を窮屈にひねらないといけないのでした。
大事そうに籠を抱える腕や、丈の短いズボンから伸びる足も若木のように伸びやかで、私の僧衣にしがみ付いて泣きべそをかいていたあの頃の、丸々した子供らしさはすっかり消えているのでした。


私があんまりびっくりしてしげしげ眺めたせいでしょうか。悟空は顔を赤くして、少し歩を速めました。その背中を見送って、私はおやと首を傾げました。悟空がわずかばかり足を引きずっているように見えたのです。

「悟空、足をどうかしましたか?」

問いかけると、こちらが驚いてしまうほどに悟空がビクッとするのが分かりました。

「も、もう全然大丈夫だし! もう痛くないし!」
「痛く…? どこか怪我でもしたのですか?」
「え、うう、ううん? 三蔵が悪いわけじゃないし!」
「…はい?」

なぜこのやり取りで三蔵様のお名前が出てくるのでしょう。私が悟空の顔を見つめると、悟空はゆだったように真っ赤な顔をしているのでした。

「大丈夫! 俺は…俺は、ちっとも嫌じゃなかったし、つか、嬉しかったし!」
「…悟空?」
「ちょっと泣いちゃったけど、でも!」
「…悟空。」

三蔵様の低い声が聞こえて、私と悟空は同時に振り向きました。だらだらと続いた坂を上りきった先が開けていて、そこには見事な桜の大木がありました。咲き乱れる桜を背後に置いた三蔵様は、それこそ夢の様にあでやかで、いつになく頬を染めていらっしゃるのがなお一層眩しく見えました。
三蔵様は大またで悟空の傍に歩み寄られると、いきなり悟空の頭を拳骨で小突かれました。

「なにを益体のないことばかり言ってやがる。」
「だ…だって!」
「うるせえ、余計なことを言うんじゃねえよ。
おら、お前が見たがってた桜だ。そのでっかい目をひん剥いてよく見とけ。」
「あ…、うわあ、綺麗…。」

まるで悟空の声を聞きつけたかのように桜の梢が震えました。ふわりと暖かい風が吹いて、薄紅色の花びらを吹き上げます。悟空は籠を置くと無邪気に手を伸ばしました。大地の御子たる悟空の手放しの賛辞を受けて、桜が嬉しさのあまり身もだえしたかのように見えました。
舞い散る桜の饗宴に見とれていた私がふと気がつくと、悟空と三蔵様は、まるで対の彫像のように寄り添って立っているのでした。
三蔵様の手が悟空の背中に触れているのがとても優しくて、私は愚かにもそのときになってやっと、お二人のつながりの変化に気付いたのでした。
ああ、と私は霞のように嘆息いたしました。離れられないお二人なのだから、むしろ遅すぎたと申せましょう。花に蝶が寄り添うように、月に星が従うように、お二人が静かに身を寄せ合うのはとても自然な事と思えました。


私は静かに後退ると、思わず頭を垂れていました。もうお二人には、私の手助けは必要ないのだと知れました。
桜の花がお二人を歓迎するように、私も静かにお二人を祝福し、そうして身を引くときが来たようです。
振り向いた悟空が不思議そうに私を見つめています。私はゆっくりと口を開きました。
輝かしいお二人の未来が、恐れ多くも、私のささやかな未来まで明るく照らしてくださるように思えます。
降りしきる桜の中に立ち尽くす私たちの行く道は、分かれているのかもしれません。でも遠い先で、きっと一つに繋がっている、そんな気が致しました。







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