お傍日記 −6月ー




暖かい空気が、雨を伴って落ちる季節になってまいりました。
裏山に続く石垣の道の一隅に、紫陽花が今年もみっしりとした蕾をつけています。まもなく、空の色を映すような淡い青が咲き綻んで、雨の日にはどことなく大人しい悟空の、よい遊び相手になってくれるでしょう。
遊び相手といえば、悟空はたとい一人置かれたとしても、時間をつぶすに苦労はないようです。
去年もちょうどこの季節だったでしょうか。しとしとと降る雨に全身をしっとりと濡らした悟空が、懐に大きな紫陽花と、小さな蛙を抱えて帰ったことがありました。


前の晩から降り続いた雨は、決して激しくはないものの、あたり一面を浸すには十分すぎる湿り気を伴っていました。
執務室の床で、三蔵様の足元に直に寝転がって絵を描いていた悟空は、黄色のクレヨンが足りないと不平を漏らしていました。悟空の描くものはいつも決まっているので、たいてい真っ先に黄色が減ってしまうようでした。

「今度町に降りた時に、黄色いクレヨンを探してまいりましょう。」

私はそっと悟空をなだめます。雨の日には悟空以上にお気が立ちやすい三蔵様の、神経を逆なでするような真似をさせたくはありませんでした。

「でも、これじゃもう、描けないよ。」

悟空は豆粒ほどになってやっと摘めるクレヨンを掲げて訴えました。

「それに、これは本当の色じゃないんだ。」
「ほう、ではどんな色がご希望ですかな?」

私はさりげなく悟空の画帳を拾い上げ、三蔵様のお御足の届かない方に悟空を誘導しました。さもないと詮無く騒ぐ悟空にじれた三蔵様が、今にも悟空を蹴り飛ばされそうでした。
画帳につられたように立ち上がって、数歩歩いた悟空は、後ろを振り返ってもじもじいたしました。それで私には、悟空の望んでいる色が、黄色ではなくて金色なのだと分かってしまいました。

「もっと…明るくて、きれいな色なんだよ。みんなが振り返って見るような。きれいで、暖かくて、まぶしい…。」
「そうですね、まるで太陽のようなお色ですね。」

三蔵様が、小さな舌打ちとともに、私を睨んでいらっしゃるのがわかります。
私は、お照れになる三蔵様を微笑ましく拝見いたしました。三蔵様は、悟空の申すことなら、大概のことは受け入れておしまいでした。


私は丁寧に画帳を畳むと、それを彼に返しました。悟空はまだ、ちびてしまったクレヨンに未練があるようでした。

「そなたが三蔵様のお姿を描きたいのは分かるけれども。」

私は思わず苦笑いしてしまいます。悟空の視線は、まだうろうろと、三蔵様の辺りをさまようことをやめないのでした。

「せっかく12色もあるクレヨンなのだから、黄色ばかり減るのではもったいない。
周りを見回して御覧なさい。いろんな色が溢れていますよ。」
「ええと…どんな色?」
「ご自分で探して御覧なさい。この色もこの色も、そしてこの色も。みんなそなたに使われたがっていますよ。」

私は新品同様のクレヨンをいくつか指しました。それは三蔵様が纏われることはない色ばかりで、悟空の意識には上らない色のようでした。
悟空はしばらく目を見開いていました。まるで、世界に三蔵様以外のものがあることを、初めて知ったようでした。
そして、私がちょっと目を話した隙に、悟空は抜け出してしまったのでした。


雨の降るせいばかりでなく、外が薄暗くなってきて、三蔵様が苛立っていられるのが分かります。悟空が戻らないからです。
私はおろおろと窓の外を見遣りました。三蔵様のご機嫌もそうですが、悟空の様子も気になります。雨具の一つも持たない悟空が、こんな雨のどこで遊ぶと言うのでしょう。
いよいよ日も落ちて、そろそろ夕餉と言う刻限になり、三蔵様の前の灰皿がうずたかく積み上げられてしまいました。私はそっと傘を用意すると、静かに裏口に回りました。
三蔵様には悟空に手をかけすぎるなと常日頃から申し付かっておりますから、私が過保護に悟空を迎えに出たとお知りになれば、面白いお顔はなさいますまい。
かといって、三蔵様がご自分のご自由にならないお立場にじれていらっしゃるのも手に取るように分かるのです。
それならやはり私の役目は、たといあとでお小言を頂戴するにしても、無言の三蔵様の代わりにやんちゃな悟空を連れ戻すことなのでしょう。


「悟空、…悟空や。」

私はそっと呼ばわります。静かな雨は物音を吸収してしまうようで、私の声ばかりが頼りなく響くようでした。
三蔵様の居室の庵を一巡りし、いよいよこれは裏山に足を向けなければならないかと思い始めた頃、突然目の前の紫陽花の草叢が揺れました。驚いて足を止めると、飛び出してきたのは探しあぐねていた悟空の茶色い頭でした。

「悟空…! そのようにずぶ濡れになって!」

どうやら悟空は、紫陽花の根元に蹲っていたようでした。濡れそぼった頭を子犬のようにぶるぶると振るうと、悟空は元気に私の前に両手を突き出しました。

「ほら! 見て!」

そっと小さな籠に汲まれた指の間から覗くのは、鮮やかな黄緑。悟空は愛しそうに小さなアマガエルを抱きしめているのでした。

「本当にいろんな色があったよ! こいつの色のクレヨンもあったよね!」
「あ…、色、ですか。」

私は思わずあっけに取られてしまいます。私がその場しのぎに口にしたことを、悟空は忠実に探していたようでした。
私は悟空を見下ろし、そして思わず微笑んでしまいました。悟空の濡れてなお輝く茶色の髪も、興奮にきらめく黄金の瞳も、真っ赤に上気したまろやかな頬も、悟空は一人で全ての色を持っているというのに、自分ではそれに気付いていないのでした。

「悟空、紫陽花に頼んで、一株頂いていきましょう。」
「え…、いいの?」
「今の時期の紫陽花は強いですから。今からだったら、上手に育てれば、七色に変化するさまを見せてくれますよ。」

私は、悟空にもっと沢山の色を教えたくなって、そっと囁きました。
悟空はさも嬉しそうに笑うと、慈しむような仕草で紫陽花を一枝、手に入れたのでした。


そんなことがあって、次に三蔵様が町に降りなさった時、悟空に買って来たのはアマガエル色のレインコートと、紫陽花色の傘でした。
悟空にとてもよく似合うそれらは、三蔵様の親心かもしれませんし、もしかしてしばらく悟空の友達だったアマガエルへと紫陽花への、小さな競争心なのかもしれません。

「また猿がずぶ濡れになって、風邪でも引かれたらたまらねえ。余計な手が掛かる。」

そんなことをおっしゃる三蔵様です。でも、室内だと言うのにレインコートを着込んでくるくる跳ね回る悟空をごらんになる目がとてもお優しいのに、ご自分では気付いておられますまい。
今年の梅雨には、紫陽花の傘を差した大きなアマガエルが、裏庭で遊ぶのでしょう。
それを眺めて一人ごちられる三蔵様を拝見することが出来るかと、私は人が悪くも、こっそり楽しみにお待ちしているのでした。












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