お傍日記 −7月ー




日が長くなって、悟空の行動半径も広くなってきたようです。
寺では一年中変わらない夕餉の時間に遅れることが多くなってきて、その日も悟空は三蔵様にこってりお叱りを受けたところでした。

「でもぅ…すっげーキレーな所を見つけたんだよ」

ハリセンで3発もどやされた悟空は、頭を抱えて上目遣いに三蔵様を見上げていました。

「葉っぱが緑色の絨毯を敷いたみたいに一面で、ピンクと白の花があっちこっちに咲いてるんだ。
俺、近くで見ようと思って突っ込んだら水の中でさー。靴を干してたら遅くなっちゃったんだもん。」
「それは蓮の池ですね。」

私は苦笑してしまいます。
冬の間は枯れ果てて、悟空が寄り付きもしなかった池は、花の頃を迎えて悟空にとっても一番輝かしい季節になったようでした。

「蓮は秋になったら収穫しますから、そのときには悟空も手伝わせてもらえるようにしましょうか。」
「収穫って何? あの池で何か採れるの?」
「ハスネも知らねえのか。お前も正月にはさんざ食ったろうが。蓮根だよ。」

先ほどから黙って私たちの話を聞いておられた三蔵様が、妙に嬉しそうに言われました。

「蓮根…?」
「白くて穴が開いてるヤツだ。酢蓮にして食ったろうが。」
「お煮しめも頂きましたよね。」
「……、ああ、あの、さくさくしてるやつ!」

そう答えながらも、悟空の表情は今ひとつ晴れません。
お盆を間近に控えてますます忙しい小坊主達と、いつも楽しげに遊んでいる悟空との間に軋みが生じていることを、私も聞かないわけではありませんでした。
しかしながら、尊い三蔵様にまでそんな些事はいきわたるはずもなく、三蔵様は悟空の浮かない顔に無関心のご様子でした。

「時にな、悟空。」

悟空はきょとんとした顔で三蔵様を見上げました。

「蓮の花は、朝早く開く時、ポン!と音を立てるそうだぞ。それを聞くと、極楽浄土に行けるんだそうだ。」
「え…っ! 本当に?」
「ああ。ただし、聞きたいならうんと早起きしないとダメだぞ。蓮は日の出前に咲くんだからな。」
「…三蔵様。」

私は軽く三蔵様をお睨みいたしました。三蔵様のおっしゃられていることは民間伝承ではありますが、事実無根のことでした。
でも、素直な悟空がそんなことを聞いたら、どんな反応を見せるか分かりそうなものです。

「そっか…、俺でも極楽浄土に行けるんだ…。」

急に思いつめた様子の悟空の、小さな呟きが気になりました。



毎朝、三蔵様をお起こしし、ついでに悟空も起こすのが私の日課となっております。
三蔵様は大変に目ざとくていらして、大概私がお呼びする頃にはお着替えも済ませていらっしゃいましたが、悟空はそれとはまったく対照的でした。
私が何度呼んでも目が覚めず、終いには三蔵様にハリセンで叩かれてしまうのでした。豪快な寝ぼけ方も、可愛らしい寝起きの仕草も、私の密かな楽しみの一つとなっておりましたが、その朝は勝手が違いました。
揺り起こされた悟空はその場で跳ね起きて、窓から外に飛び出していってしまったのです。
しばらくして戻ってきた悟空は、悄然としていました。寝巻きの裾が湿っていて、どこか水場を歩いてきたようでした。

「もう全部咲いちゃってた。昨日は蕾が3つあったのに…。」

その言葉で、私は悟空の行き先を知ることが出来ました。悟空は蓮の池に行ってきたようでした。
その悟空の、しょんぼりした様子がかわいそうで、私はつい口を滑らせました。

「蓮の花なら8月ごろまで咲きますよ。」
「ホント? それなら、明日もまた咲く?」

今にして思えば、私の申し出はうまくないものだったかもしれません。
でも私は、ただ悟空を喜ばせたくて、深く頷いてしまったのでした。



翌朝、悟空を起こしに行った私を待っていたのは、もぬけの殻のベッドでした。
私は愕然としました。取り残された寝具にはぬくもりの一つも残っておらず、それどころか使われた形跡もないのでした。
私が慌てふためく様子が漏れ聞こえてしまったのでしょうか。三蔵様がお顔を覗かされました。

「なんだ。なにを騒いでいる。……悟空は?」
「それが、これ、この通り…。」

私は両手を広げて、悟空の冷たいベッドを示すしかありませんでした。
聡明でいらっしゃる三蔵様には、一瞬にしてなにが起こっているのか分かられたようでした。
一つ舌打ちを漏らされますと、苦いお顔をされて、勢いよく振り向かれました。お目覚めのばかりでまだ梳いてない御髪が、それでも朝日に鈍く輝かれました。

「馬鹿が…猿の考えることなんかお見通しなんだよ。」

わずかに呟かれるのが聞こえました。



荒々しく足早に歩いていかれる三蔵様の後を小走りに追うと、蓮の池に出ました。私は息を飲みました。池の中ほどに、腰まで水に浸かった悟空が立ちすくんでいるのでした。
朝露が降りたのでしょうか。悟空の全身はしとどに濡れ、腰にまで届く大地色の髪さえ、全身に纏いついています。立ちつくす悟空の目の前には、開いたばかりと見られる蓮の花が、まるで差し向かいのように咲いているのでした。
その姿があまりにも自然で、私には悟空が蓮の花を通して遠い過去を覗いているように思えてしまいました。

「…悟空。」

池の畔で足を止めた三蔵様は、唸るような声を上げられました。ややあって振り向いた悟空は、一体いつからそうしているのでしょうか、可愛そうに真っ青な唇を小さく震わせているのでした。

「…聞こえないんだよ。」

悟空は、うつろな目をこちらに向けました。

「蓮の咲く音が…ポンって、言わないんだよ。」
「悟空、それは民間伝承…言い伝えですから…、いいから早くお上がりなさい。」

私は焦っていました。いくらもはや初夏だといっても、真水にずっと浸かっていたのでは体が冷えてしまいます。元気な悟空でも、体力には限界もあるはずでした。

「だって…みんなが、俺は妖怪だから、間違っても極楽へは行けないって言うんだ。」

悟空は、弱々しく目をそらしました。

「極楽に行ける蓮の音…、俺も、三蔵の行く極楽浄土に行きたいのに…。」

三蔵様が、大きく舌打ちをされました。驚いて振り返る私の目に映る三蔵様の表情には、ご自身の発言の軽率を悔やむ思いが溢れていられました。

「馬鹿猿…こっちに来い。」

私が止めるまもなく、三蔵様は池に踏み込んでおいででした。
袈裟こそつけていないながら、最高僧の純白の衣が、池の泥にまみれています。それは本来、あってはならないお姿でした。
三蔵様は躊躇なく悟空の傍まで歩み寄ると、拳を固められました。パカンと景気のいい音が響いても、悟空の反応は今ひとつ鈍いものでした。

「他の誰かに惑わされるんじゃねえ。俺はお前を手放さないって言ったろうが。いいか。」

三蔵様は忌々しそうに唇を震わせると、にわかに悟空を抱きしめました。

「お前が俺のところに来られないと言うんなら、俺がお前のところまで堕ちて行ってやる。そこが俺たちの極楽だ。誰にも文句は言わせねえ。…いいな。」

強い口調とは裏腹に、三蔵様のお手はこの上なく優しく、悟空の背中を撫でておいででした。
動きを止めた悟空がやがてすすり泣いていくのを、私は池の畔に立ち尽くして、じっと、見守っているばかりでした。






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