お傍日記 −9月−




磨きこまれた廊下に、愛らしい金色の花が振りまかれていました。
野歩きを日課としている悟空が、金木犀の潅木を見つけたものとみえます。小さな花は思いがけない強い芳香を放ち、暗くなりがちな寺院の中を、黄金色に染め上げてくれるようです。
やかまし屋の従事長でさえ、この香りにはほだされるものか、苦笑いしつつ見逃してくださいます。そういえば、悟空の胡桃色の髪にも、きれいな髪飾りのように、黄金の花が散っていて、まるで金木犀の精が寺院をさまよっているようなのでした。
朝夕、悟空の髪を梳くのを楽しみにしていらっしゃる三蔵様は、面映そうに目を細められます。どこをどう歩き回ってくるのか、悟空の髪を梳く櫛にも三蔵様のお手にも、金色の細かな花がちらほらと舞うのでした。

「少しは涼しくなったとはいえ、まったく、一日中どこをほっつき歩いているんだか。」
「いい匂い、するだろ?」

悟空は褒められているかのように、にっこりと振り向きます。

「今度三蔵も連れて行ってあげる。ちょっと遠いけど、すごくいい匂いで気持ちいいし、途中にはざくろやアケビや、栗の木もあるんだぜ!」

どうやら食欲旺盛な悟空の真の目的は、そちらの食べられる実にあるようです。
三蔵様はわずかに微笑まれると、悟空の髪を寝巻きの端切れでゆるく結われました。悟空の健やかな眠りを妨げないために、三蔵様は細心の注意を払われるのでした。

「栗か…。そんなら、金木犀もいいが、今度は栗を拾って来い。まもなく月見だろう。」
「そうですね。お月見でもいたしますか。」
「月見って、お団子の?」

悟空はぴょんと振り向きます。悟空にとっては月見の風流よりも、夜に食べるお団子の方が印象的だったようです。
三蔵様は向こうを向いてしまった悟空のお下げを掴んで、もう一度背中を向かせなさりました。

「いいか、去年も教えたがな、青い栗なんか取ってくるんじゃねえぞ。ちゃんと熟した奴を取って来い。食えねえぞ。」
「だって茶色い奴は痛いんだよ。掴めないじゃんか。」
「だからお前は猿だって言うんだ。ちゃんと軍手と籠と、それからかなばさみも持ってけ。素手で掴むんじゃねーよ。…。」

三蔵様と悟空の楽しい会話は続きます。
夜も更けると、こうしてたわいない会話を悟空と交わすのが、三蔵様のお楽しみの一つでありました。



即席で、妙な栗の歌を歌ってご機嫌だった悟空もやっと寝付きました。
私は悟空を仰いでやっていたうちわをそのままに、三蔵様の元へ戻りました。三蔵様は、煙に目を瞬かせながら煙草をくゆらせておいででした。

「猿は寝たか。」
「はい。明日辺り、どっさり栗を拾って来てくれそうですよ。」
「ふん。明日は雨だろう、この蒸し暑さじゃ。」

三蔵様はご自分で水を向けられたのに、悟空に月見の支度をさせるのが賛成ではないようでした。

「いずれ十五夜には間に合いますよ。今年はきちんと十三夜のお月見もいたしましょう。」
「月見なんぞ1回やりゃあ十分だ。」
「でも、片見月などと申しますよ。それに悟空が喜びますから。」
「………ふん。」

三蔵様は鼻を鳴らされると、もう1本煙草に火をおつけになりました。

「娯楽が少ねえからな。一通りの行事はさせてやろうと思うが、月見だけは片見月で十分だ。」

深く吸い込んだ煙を吐き出されると、三蔵様は開け放した窓を見上げられました。あいにく今日は分厚い雲が空を覆っていて、月も星も望めないのでした。

「…去年、あいつに月見をさせてやったら、月に呼ばれてるって言いやがった。」

私はハッと息を呑みました。確かに悟空は、時折酷く遠い目をするのでした。
狂ったように咲き乱れる桜や、眩しいほどの月夜や、梢を震わす嵐にも、悟空の心は千千にかき乱されるようでした。また悟空の出自の不思議が、いつか悟空をあっさり連れ去ってしまいそうな不安を、常に私たちにもたらしているのでした。

「片見月にしておけば、もう片見が惜しくて、きっと帰れないだろう?」

三蔵様は私をご覧にならないまま、消え入るような声で呟かれました。私は海の向こうの国の、満月に帰ってしまう姫君のお話を思い出しました。そうして、不遜にも、取り残された人々の嘆きを、お美しい三蔵様に重ねてしまうのでした。

「まあ…ヤツが帰るってごねたところで、俺が許しはしないけどな。」

そう言って口の端をゆがめられる三蔵様が、悟空の心からの願いなら、決してお聞き捨てに出来ないことも、私は存じ上げているのでした。
雲が割れて、柔らかな月夜の光が一筋流れ込んできました。遠くで梟が鳴いています。

「…それでは私も、悟空が来年また食べたいと言ってくれるような、美味しいお団子を作りましょう。」

私はやっとそう言いました。三蔵様には、悟空はもはや、欠けてはならないものだと改めて思い知りました。
小さく頷かれる三蔵様の黄金の御髪が、月の光に柔らかく輝いておりました。







戻る