天蓬と会ってほどなく、俺は元の少将に戻った。
天蓬の口添えがあったことは、俺の耳にもじき入ってきた。

その頃俺は、確かに天蓬とよくつるんでいた。
天蓬は面白い奴だった。少し斜に構えた視点が、俺の皮肉屋の所とうまが合ったのかもしれない。話は合うし、一緒にいて退屈しないで済んだ。だがそれだけが、俺が天蓬と付き合うようになった理由ではない。
何しろ天蓬は危なっかしくて目が離せなかった。読書に没頭すると、三日や四日のおこもりはあたりまえだし、その間絶食なんて事もしばしばだ。それに何より、天蓬の部屋の汚さが俺の癇に障った。
何度も言うが、俺はこれでけっこう几帳面な性質なのだ。
天蓬の、うずたかく書籍の積まれた埃だらけの部屋を見てからというもの、いつこいつが本雪崩の下敷きになって窒息するんじゃないかと、気の休まる暇もなかった。たまに遊びに行くと、俺は必ず天蓬の部屋を片付けた。だが、俺の片づける速度と天蓬の散らかす速度が、到底折り合わない。一向に天蓬の部屋が整然とする日はなかった。
だから俺は、口汚く文句を言いつつも、天蓬の部屋に足繁く通う羽目になったのだ。

「…そろそろ天蓬の部屋に行く頃か…。」

俺はぼんやりと呟いた。真夏を思わせる陽光がギラギラと輝いている。天界は常春だとは言っても、たまにはこんな炎暑の日もあった。それがここ三日ほど続いている。いくら俺が几帳面でも、こんな暑い日に汗だくで働きたくない。

「だけど…また天蓬の奴をサルベージしてやんないと…、あいつ干からびるまで本にかじりついていやがるからな…。」

寝返りを打とうとして思いとどまった。ここは葉の生い茂った桜の幹の上だ。転げ落ちるのはごめんだ。
ここ数日天蓬と会っていない。無精ひげも言われないと剃らない天蓬は、そろそろ本で満腹しつつも、徹底的な給油不足に喘いでいる頃だ。

白状してしまうとその頃すでに俺は、週に一度や二度、天蓬の顔を見ないと気がすまなくなっていた。
あの間の抜けた笑顔を見ないと、何事にも意欲が湧かないのだ。口数は多いくせに決して本心を明かさない天蓬の、微妙な笑顔の差を推し量るのが、俺はすっかり得意になっていた。微笑み方一つで、天蓬の機嫌から腹具合まですっかりわかる。なんでそんなに奴に執着してしまっているのだろう。
そんな自分を認めたくなくて、俺は通いなれた天蓬の部屋に行くのを渋っていた。その時、ちらりと元帥という一言が俺の耳に入った。俺は思わず耳をそばだてた。

「…だから、あの、変わり者の元帥閣下…。」
「…いつも捲簾とつるんでる…。」

またくだらない中傷か。俺はもう一度目を瞑った。
俺が元帥に取り入って、昇進にいそしんでいるという噂が流れているのは知っていた。この平和なご時世に、確かにそんな狡猾さがなければ出世など望めないに違いない。だが、俺さえ黙殺していればじき消える噂だと思っていた。俺には昇進の意志もきっかけも今の所まったくないのだから。

「…みつからねえ。」
「…いいエサだと思ったのに。」

エサ? 俺はもう一度意識をそちらのほうに傾けた。エサとはその場にそぐわない、聞き捨てならない言葉だった。

「捲簾少将の吠え面が見られると思ったのによ。」
「元帥の前じゃ、奴もてんで意気地がないもんな。鼻の下伸ばしやがってよう。」

どうも話が変な方向に向かっている。俺は身を起こした。

「元帥を楯にすりゃ、捲簾少将の泣きっ面が拝めるたあ、張運も意地が悪ぃぜ。」
「悪ぃのは意地だけじゃないぜ。いっくら綺麗な顔だっていったって元帥は野郎じゃねえか。それをひざまずかせて、またぐらの間で泣かせてやりてえなんてよ。」

下卑た笑い声。耳の奥がキンッと鳴った。
気がつくと俺はその三下の襟首を締め上げていた。足の裏が痛い。あの高い梢から飛び降りたものらしい。こめかみがガンガン脈打って、目の奥がチカチカする。息が泳ぐほど興奮しているのに、なんだかそれが現実味を帯びて感じられず、俺は目の前の男の顔がだんだん赤黒く充血していくのをどこか冷めた目で見ていた。

「や、止めて下さい、死んじまいます!」

肩を揺すぶられて、俺はその男の襟首を放した。まだ鉤状に曲がったままでわなわな震える指をしばらく見下ろし、俺はようやく口をきくことができた。

「…天蓬はどこにいる。」

他人が喋っているのかと思えるような冷たい声だった。真っ赤だった男の顔から見る間に血の気が引いていくのがわかる。他の奴等も同様だろう。俺は剥き身のナイフみたいに尖がって、男たちを見据えていた。

「あいつに何かあったら…ぶっ殺してやる。」

縮み上がった男たちがこくこくと頷く。俺自身の危険さは、俺よりも奴等のほうがよくわかっているようだった。

男たちに導かれて薄暗い倉庫の間を歩いていく間、俺はどうかすると崩れ落ちそうになった。こんな人気のない所にのこのこ誘い出されてきやがる天蓬の気が知れなかった。それとも、自分の足で歩くこともかなわない状態で拉致されたのだろうか。
俺の想像は悪いほうへとどんどん進む。もし、なにか天蓬の状態を確信させる一言でも発していたら、男たちはたちまち粉々に粉砕されていただろう。そんなぴりぴりした雰囲気を感じ取れるのか、ついてくる男たちは次第に脱落していった。こっそり遁走していくのだ。
最後まで残された運の悪い男が、だんだん半べそになっていくのにも俺は気付いていなかった。破裂寸前まで膨れ上がった爆弾のように、俺は張り詰めていた。思うのはただ天蓬の事だけだった。
だから俺は、最後のドアまで案内した男が、転がるように逃げ出しても、後を追いはしなかった。そんな奴、どうでもよかった。ただ天蓬の姿さえ臨めれば。

「天蓬っ!」

ドアを蹴り開け、かすれた声で俺は叫んだ。真っ先に目に入ったのは、放り出されて裏返った便所ゲタ。心臓は限界の速さで打っている。噛み締めた唇に、血の味が滲んだ。
薄暗い倉庫の中に目が慣れなくて、俺は視線をさまよわせる。天蓬の無事だけを按じて。それなのに。

「やあ、来た来た。」

この上ないお気楽な声に、俺は一瞬呆然とした。床の上ばかりを探していた俺は、恐る恐る顔を上げた。
壇上に積み上げた木箱の中ほどに、片手に徳利を下げて、天蓬は笑っている。床の上に直に正座させられた数名の男が、俺の顔を見て、なんとも情けない顔になった。がっかりしたのか安心したのか判別がつかない顔だ。天蓬の足元で小さくなっていた張運がこっちを向くと、その顔がぼこぼこにされているのが、この薄暗がりの中でもはっきりわかった。

「な…に…やってんだよ、おまえ…。」

緊張が解けて、肩が抜けそうになった。安心すると、猛然と怒りが湧いてきた。俺にこんな寿命の縮む思いをさせておいて、酒盛りとは一体どんなつもりだ。
だが俺は、天蓬に向かってあげかけた怒鳴り声を思わず引っ込めていた。よろよろと壇上から降りてきた天蓬は、見たこともないくらい足腰が定まらない。どうやら顔にだけは出さずにしこたま酩酊しているらしい。

「じゃあ、みなさん、ご馳走さまでした。迎えが来たから帰ります。」

振り向いて手さえ振る。張運が、舌打ちをするのが目に入った。

倉庫を出て数歩歩くと、いきなり天蓬は背骨が溶けたみたいにぐずぐずになった。

「おいっ、大丈夫かよ。」

抱き留めると俺の腕の中で、マタタビを食った猫みたいにでろーんと伸びた。

「あはあ、さすがに腰にきましたねえ。捲簾、遅いですよ。」
「どんだけ呑みやがったんだ。このザルやろうが。」
「僕はザルじゃありません。ワクです。」

真面目な顔と、人をおちょくったみたいな笑顔を交互に繰り返す。俺の前に出て安心したのか、いきなり顔がアルコールで真っ赤になった。

「だって、僕が酔いつぶれたらひん剥いちゃおうと思って目をらんらんとさせてる人たちの前で、へべれけになれないでしょう。」
「だからどうして…!」
「まあ、あなたの名前を出されたからって、うかつに呼び出されたのは、僕の失策でした。」

天蓬は俺の首の周りに熱い腕を絡ませてきた。喋ると息が酒臭い。俺の知っている天蓬は天井知らずの大酒のみで、ちょっとやそっとの量ではこんなに酔わないはずだった。

「呼び出されちゃった以上、事を荒立てれば、あなたの責任になるでしょう。」
「だからって、こんなになるまで呑む奴があるか。」
「うーん、なんか盛ってましたからねえ。さすがにきつかったです。」
「盛って…。」

俺は絶句した。こいつ本当に馬鹿じゃないのか? なんでそんな怪しげな酒を、こんなになるまで呑む?

「とっとと逃げだしゃあよかったんだ!」
「僕はねえ、無理強いには慣れてるんです。逃げたり足掻いたりすれば、彼らは余計狂暴になるだけです。」

へらへら笑いながら、実に物騒なことを平気で天蓬は言った。

「ああいう、数を頼みにする奴等は、ほとんどが便乗犯ですから、氏素性を読み上げてやると50パーセントは戦力が落ちます。それほどだいそれた事をするつもりはないし、身元が割れている以上、逃げるのも難しいって知ってますからね。」

こいつの博識が役に立ったわけだ。
俺は殆ど力の抜けかけた天蓬の体を支えて四苦八苦しながら歩いていた。男としては軽すぎる体だが、どこにも力が入ってないとずいぶん支え辛い。

「…後の50パーセントはどうしたんだよ。」
「久しぶりに拳で語り合いました。あーゆーのは頭さえ潰しちゃえばなんとかね。僕も2人や3人にはまだまだ負ける気しませんし。」
「お前が?」

俺は驚いて足を止めた。間近にある天蓬の整った顔をまじまじと見る。眠そうな目をした天蓬は、またへらへらと笑った。

「あはは、あなたも僕が頭でっかちなだけの戦略家だと思ってたんですね。」
「お前は本より重いものは持ったことがないのかと思ってた。」
「本は重いですよう。良いトレーニングになります。」

酔っ払いの元帥は、ピントのずれたことを言った。

「それに、言ってるでしょう、無理強いには慣れてるって。自分の身を守ることぐらい、知ってますよ。」

ふいと顔を逸らす。

「…いろいろあったんですよ。」

俺は言葉を返せないでいた。なんだか天蓬に拒絶されている気がした。

「でもねえ、本当に助かりました。もう、いっぱいいっぱいで、これ以上捲簾が遅くなるようならどうしようかと思っていたんです。あ、いてて。」

俺の首に回っていた天蓬の手がぴくりと震えた。見てみると、拳を握ると一番高くなる骨の部分が全部擦り剥けて血が出ている。
天蓬のいかにも学者らしい白くてカサカサした手には、おおよそ似合わない向こう傷ができてしまっていた。

「ばっ…。手が破けてんじゃねえか! 骨砕けてねえか?」
「だーいじょうぶですよう。」

俺は笑いながら逃げようとする天蓬の手を取った。
強がりばっかり言いやがって、馬鹿やろう。俺は口の中で呟く。手も体もこんなに震えてるじゃないか。どんなにか恐ろしかったことだろう。
そっと唇を寄せて、まだ乾かない血を嘗める。天蓬がひくりと体を震わす。天蓬の血は、甘くて苦くて、まるで天蓬自身のようだった。

「…ったく、無茶しやがってよう。」
「…だって、捲簾、来てくれたじゃありませんか。」

にっこりと綺麗な笑顔を俺に向けてくれる。

「捲簾は絶対来てくれるって、僕、知ってたんです。」

俺は黙って天蓬の傷を嘗めていた。天蓬の、長い睫を少し伏せた目が、笑っているくせに今にも泣き出しそうだ。胸がずきずき痛む。今まで寝てきたどんな女たちも俺をこんな気分にさせられなかった。俺はすっかり観念して、多分これが初恋なんだろうと悟った。



あれからずっと俺は天蓬の後ろを歩いている。手を伸ばせば簡単に抱き込める、だけど天蓬がいやならいつでも簡単に逃げられる位置。俺が守っているものは奴の背後ではなくて、俺の自制心かもしれない。
また風が舞って、天蓬はわずらわしそうに肩を竦めた。こんな猫背の痩せっぽちのどこがこんなに良いのだろう。きっと抱きしめればごつごつしていて、いやになるほど男を感じさせるのだろう。それでも俺は、いつかこいつの一番近くに寄り添いたいと思わずにはいられない。

「あのときねえ。」

不意に天蓬は振り向いた。なにか居心地が悪いのだろうか。しきりによれたネクタイを引っ張っている。

「あの、捲簾が迎えに来てくれたとき、…僕は本当に嬉しかったんですよ。」

天蓬につられて俺も足を止める。風に舞う黒髪を片手で押さえつつ、天蓬は少し頬を染めた。

「ずっと諦めていたものが手に入った…そんな気がしました。」
「…へへ。」

俺は目を眇める。もう一歩踏み込んでこの関係を壊す勇気は、今の俺にはない。

「じゃあさ、…今度1回抱かせろよ。」

軽い調子で俺は言う。天蓬が後腐れなく撥ね付けられるように。俺が笑って冗談だよと言えるように。
今まで何回も試してきた。この、あと3歩の距離を崩さないのが、一番うまい付き合い方だ。

「そうですねえ。…今度竹の花が咲いたらね。」

天蓬の返事に俺はおやと目を見張った。
今までの返事は、月のウサギを捕まえてきたらとか、下界の海を全部干拓したらとか、到底実現不可能な事ばかりだった。だが、竹の花ならいつかは咲く。50年後だろうが100年後だろうが、必ずいつか咲く。
俺はごくりとつばを飲んだ。期待しても良いのだろうか。永遠の命を持つ我々に、100年は待てない時間ではない。だが、今の俺には長すぎる。一度持たされた期待は、俺を押しつぶさんばかりに膨らむ一方だ。

「…なあ、もうちょっと短くなんねえ?」
「…さあ、どうでしょう。」
「せめて、金蝉が禿げたらとかさあ。」

あはははと、天蓬は声を弾ませる。薄桃色の風の中に、ゆっくりと背を向けた。

「だめですよ。うっかりそんなことを約束したら、捲簾、はさみを持って金蝉を急襲しそうじゃありませんか。そうなったら僕が悟空に叱られます。」
「…ちげえねえや。」

桜吹雪の中を、俺の麗人が歩いていく。明るい笑い声がいつもよりはずんでいるのは、俺のことを想ってとうぬぼれて良いのだろうか。
俺は3歩の距離をこっそり2歩に縮めた。



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