寂しい人魚




三蔵が穏やかな寝息を立て始めると、悟空は注意深く体を起こした。獣除けでもある焚き火に薪を足し、白い三蔵の肩に毛布を掛けてやった。
山の中腹に嘘のように現れた湖の畔だった。明るいうちは信じられないぐらい青い水を湛えたその湖は、今は光の全てを吸い落とすかのように黒く沈んでいる。見かけの美しさに反して死に絶えたような静けさを伴った湖だった。

悟空は静かに立ち上がると、裸身を水際に進めた。水際の尖った小石が踏みしめると痛い。
そのまま水に体を漬けると、全身がぴりぴりと沁みた。

「うぇ…、しょっぱいや。」

顔を拭って、悟空は目を瞬く。そういえば海沿いのような匂いもする。
この湖は、対岸の崖が全部白い岩でできていて、きっとそれが岩塩の層であるのだろうと、八戒は渋い顔をした。飲料水を求めて水際を探したのに、塩湖では飲み水にはならないのだった。
その八戒と悟浄の姿は見当たらない。ジープを伴って森の方へと消えたから、きっと今頃は暖かい車の中で睦みあっているのかもしれない。
悟空は薪に照らされて眠る三蔵を振り返った。今日の三蔵はことのほか乱暴だった。



八戒と悟浄の姿が闇に消えると、不機嫌な顔をした三蔵が、無言で自分の膝を叩いた。ここに来いと言う合図だ。
しばらく難所の山越えで、本当なら今日はふもとの村にたどり着いているはずだったのに、敵の奇襲でそれがかなわずにいる。全員に疲れと苛立ちが濃く漂っていた。悟空は少しびくつきながら三蔵の傍に行った。疲れていると不機嫌で乱暴になるのが三蔵の常だった。

「早く脱げよ。」
「…こんなとこですんの? 下、石だよ。」

わずかに抗議してみたが、三蔵はますます獰猛に、眉間に皺を寄せるばかりだ。
それでも形ばかり布を敷いてくれたことに感謝しなくてはならないのかもしれない。このままごねれば三蔵の機嫌はますます悪くなって、手が付けられなくなるだろう。

悟空は硬い布の上に座った。三蔵が無遠慮に、冷たい手を肌着の内側に沿わせてくる。いきなり左わき腹を強く押されて、悟空は思わず小さい声を上げていた。

「いっ…た、痛ぇよ、三蔵。」
「…馬鹿が。油断してるから、こんなところに棍棒なんか食らうんだ。」
「しょうがねえじゃん、挟まれちゃったんだし。」

俺が身を引いたら、三蔵が食らっていただろうしとは言えない。

「また…傷を増やしやがって。」
「すぐ治るよ、このぐらい。」
「………許さねえ。」

押し上げられた衣服に目をふさがれている間に、鋭い痛みが肌を這う。三蔵が爪を立て、噛み付いているのだ。
ぶつんと皮膚が破れる音がした。

「痛い…! マジ痛えって、三蔵!」
「…いいか、よく覚えとけ、この猿。」

三蔵が険しい顔で悟空を睨みあげる。

「この肌に一つでも、俺の知らない傷をつけるのは許さない。いいか、よく覚えとけよ。
お前はこの俺のものなんだ。」
「なんだよ…分かってるよ、三…、んっ…。」

性急に唇を塞がれた。まるで悟空の意思など一つも聞くつもりがないようだ。
そのまま押さえ付けられ、全裸に剥かれた。薄い布一枚隔てた下には、尖った石がいくつも転がっていて、悟空の裸の肩や背に容赦なく食い込んだ。
悟空は一生懸命三蔵を抱きとめていた。三蔵の白い肌は、布を一枚敷いただけの岩場には、酷く不釣合いに思えた。
それに、痛い思いをするのは自分だけでたくさんだった。



「ちぇ…思い切り噛み付きやがって。」

悟空は腕を上げてわき腹を検めた。大きな痣の上に、綺麗に歯型がついている。ほかにも見渡せば、爪の跡が縦横についているのだった。

「痛えって言ってんのに、…わざとすんだから。」

一度など首筋に大きな噛み跡を残し、八戒にこってり絞られて懲りたはずなのに、三蔵はまだ悟空の肌を傷つけるのをやめようとはしなかった。戦闘時の負傷と、三蔵が戯れにつける傷を比べたら、三蔵の方がまだ多いようだった。

肌にピリピリと沁みる水を掬い上げて、丁寧に体を拭う。塩分を含んだ水はべたついたが、それでも洗わずにいられなかった。特に三蔵がしつこく責めさいなんだ小さなすぼまりは、水に浸しただけで切なく痛んだ。
自分の傷だらけの体を、ふと八戒の滑らかな肌と思い比べてしまう。八戒の肌には、時折所有の印の充血を見かけることはあっても、このように乱暴な印を見かけたことはない。
遊び人を気取っている悟浄がその実、八戒を愛しんで、丁寧に大切に扱っているのは、見ないでも知れた。
自分となんと言う差だろうと、ひそかに悟空は嘆息する。三蔵は態度も乱暴なら、優しい言葉すら悟空に掛けてくれることはないのだった。

悟空は裸の胸を抱きしめて震えた。もう、夜半に水浴びをするには寒すぎる。いかな妖怪と言っても、晩秋の湖は応えた。
この、生きたものの気配を感じない、蕩けた闇のような水に浸かっていると、骨の芯から心の奥底まで冷えていくような気がする。どうして三蔵は自分にはこんなに乱暴なんだろう。もしかして、自分が傍にいることそのものが、三蔵にとっては面白くないことなのだろうか。

遠くで水音がした。悟空はハッと顔をあげた。生き物のいないはずの湖の奥で、波紋がゆれ、小さな顔が水底に潜っていった。



「どうしたんですか、悟空。」

立ち尽くしていると、柔らかい声が掛けられた。振り返ると八戒が少し呆れたような笑顔で立っている。悟空は急に自分の裸身を思い、慌てて水際に掛け戻った。
砂利を踏むと、三蔵がさも不機嫌そうに頭を上げた。一体いつ目覚めたものか、ちゃんと衣服を纏い、煙草までくわえているのだった。

「今、水の中になにか…、女の子、みたいな物が、見えた気がして…。」

自分の考えがいかにも馬鹿らしく思え、悟空は口ごもりながら答えた。慌てて衣服を取る傍らで、八戒は目を眇めて湖水を眺めていた。やがて、ああ、と得心したような声を上げる。

「めずらしい、どうやらエコーですよ。」
「エコー…、何?」
「水辺にいるならローレライでしょうか。バンシーなんていう地域もありますかね。我々のお仲間…もっとも、動物に近いような妖怪ですが。」

八戒の指差す先に目を凝らすと白い裸身が音もなく水の中に潜んでいくところだった。長い髪の小さな頭に続いて滑らかな背中が水に隠れると、その先は魚の尾になっているようだった。

「エコーというのは、幻聴を聞かせて旅人を誘い込む魔物の総称ですよ。それにしても本当に珍しい。…ローレライにしろ、淡水に棲む生き物ですけどねえ。」
「この辺には極楽鳥しかいないと思ったんだがな…。お猿ちゃんも、ぼやぼやしてると引き込まれっぞ。」

遅れてやってきた悟浄が、赤い髪を揺らして笑う。悟空は急に気恥ずかしくなって顔を背けた。
悟浄の満足げな、それでいて気怠そうな顔に、森に引っ込んだ二人がなにをしてきたのか、ひいては自分たちがしていたことも見透かされているような、そんな気になったのだ。

「水辺のローレライなら…本来は透けるような青白い肌をしているはずなんですけどねえ…。」

八戒はいつまでもいぶかしそうに、湖面を眺めていた。



遠くから細く高い声が聞こえてくる。それにかぶさるようにして、鳥の羽音を聞いた気がして、悟空は目を覚ました。どんよりと曇った空には黎明の光は見えず、ただ灰色の雲が連なっているだけだ。
悟空はゆっくり起き上がって辺りを見回した。悟浄はともかく、目ざとい三蔵と八戒が死んだように眠っているのが不思議だった。

雉のような声がして、悟空は空を見上げた。
極彩色の大きな鳥が、群れを成して湖を渡っていく。よく見ると、その鳥は顔が人間のそれだった。どうやらあれが極楽鳥と言うものらしい。
グロテスクな身なりは、七色に輝く鬣や長い尾羽が打ち消してくれるものか、彼らはとても雄雄しく見えた。だが声は野卑だ。
極楽鳥どもは猿人めいた声を上げ、水辺に居留する悟空たちを威嚇するように見えた。そのまま向きを変えた彼らは、不意に高度を下げた。

「あ…っ。」

悟空は思わず小さな声を上げていた。敵意をむき出しにする極楽鳥たちが狙う先には、あのエコーがいた。



エコーは細い腕を上げ、極楽鳥の蹴爪から我が身を庇った。悟空は強く目を瞬いた。
先ほど見たエコーは全身が赤らんで見えたのに、今の彼女は水に透けそうな青白い肌をしているのだった。
悟空は思わず水際に足を進めた。くるぶしを波が洗っている。足は水に浸っているはずなのに、ちっとも冷たくない。それで悟空はぼんやりといぶかしく思った。

「なに…幻…?」

エコーは、幻聴を聞かせて旅人を惑わす妖怪だとは、八戒が言っていた言葉だ。そう思えば、今もなんとなくぼんやりと霞むこの視界にも、納得がいくのだった。



例え幻でも、一方的に極楽鳥から攻撃を受けて、傷ついていくエコーを見捨てるには忍びない。悟空は歩を進めた。水は膝丈になっても、やはりひたりとも濡れた感じを伝えてこなかった。
一際猛々しい鳴き声がして、極彩色の羽根が散った。一羽の極楽鳥が、群れに立ち向かっているのだ。
極楽鳥は、旋回するとエコーを庇うように背後に置いた。大きな爪のついた足を、仲間だったであろう群れに向け、蹴りかかる。飛び散る羽毛は、彼のもののほうが断然多い。
エコーが両手を差し伸べた。細い声で歌を歌う。彼女にはそれしか武器がないのだ。
やがて、荒れ狂っていた群れは次第に興味を無くした様子で湖を去っていった。エコーの歌に怒りの矛先をそらされた極楽鳥たちは、負かされたと言うよりは、彼らを見捨てていったようだった。



群れに立ち向かっていた彼は、水際に長く伸びていた枝にフラフラと舞い降りた。胸の飾り毛は無残に散り、片方の翼はうまく畳めないほど傷ついているらしい。その下にエコーが漂っていく。
エコーは片手で枝を掴んで体を支えると、もう一方の腕を伸ばした。極楽鳥の翼に回された腕が、彼を慰めるようにゆっくりと撫でさする。小さな頭をもたげて、乱れた胸の飾り毛にそっと寄り添った。
極楽鳥は、虹色に輝く大きな翼を広げると、そっとエコーを抱きかかえるように包んだ。唇からは先ほどの猛々しい声とは比べるべくもない優しい歌声が漏れている。
エコーの水かきのついた小さな手と、極楽鳥の翼は、何度もお互いを確かめるように、お互いを撫で合った。
いつしか極楽鳥の歌とエコーの歌が重なり合っている。繰り広げられる光景に目を奪われていた悟空は、強く目を瞬いた。

極楽鳥とエコーは、お互いを想いあっているのだろう。繰り返される優しい仕草も、睦言にも似た歌声も、それを物語っている。
ならば自分と三蔵との関係は一体なんなのだろう。悟空はいつも冷たい三蔵を想った。



三蔵は自分をあんなふうに優しく扱ってくれたことがあるだろうか。なんにつけ、少しでも弱音を吐けばたちどころに強い否定が返って来て、悟空はいつも胸の塞ぐ思いをしているのではなかったろうか。
あの極楽鳥のように、あるいは八戒を見る悟浄のように、優しい仕草と言葉で悟空を慰めてくれたなら、こんなにも不安になることはないのに。
もしかして。恐ろしい思いが突然湧き上がって、悟空は思わず自分自身を抱きしめた。先ほど三蔵が傷つけたわき腹が痛む。

三蔵は、自分が傍にいることを快く思っていないのではないのだろうか。
でもなければ、こんなに乱暴なことをしないのに違いない。

不意に、静かに寄り添っていた極楽鳥とエコーが顔をあげた。不安そうな顔で辺りを見回している。
静かな湖に風もないのに小波が立ち、梢が揺れていた。エコーが不安そうにピイと鳴く。
耳を聾するような音がして、湖面が荒れ狂った。大きな波に攫われそうになって、エコーは必死で極楽鳥にしがみ付いた。
鏡を張ったようだった湖面が濁り、泡立つ。悟空は何事かと目を凝らし、すぐに異変の原因を見つけた。
湖岸が大きくえぐれて、白い岩塩の層がむき出しになっている。
地震による、崩落が起こったのだ。



湖はしばしの間荒れ狂っていた。波に揉まれて湖岸に打ち付けられそうになるエコーを、極楽鳥が必死に庇っている。
やがて、波だけは収まった湖を、エコーは恐ろしそうに振り返った。わずかの間に湖岸が変形し、緑が消失したせいで、先ほどまでの楽園のような光景は一転していた。

エコーは慌てた仕草で泳ぎ出した。濁った水が嫌なのか、水の一掻きごとに顔をしかめている。
上空で頼りなく飛ぶ極楽鳥を振り返り、エコーは岩の重なった湖岸を叩いた。岩を伝い、右へ左へと何かを探し回り、また叩く。

幻に囚われている悟空には、なぜかその岩の向こうが見渡せる気がした。ここは本来、湖でなく大きな堀で、その岩の向こうには、細いながら川へと続く水路が開いていたはずだった。
突然の崩落は、群れを離れたエコーを、本来の居場所でないところに閉じ込めたのだ。

エコーは救いを求めるように上空の極楽鳥を見上げ、空しく岩を叩き、すすり泣くような声を上げた。
白い岩塩の層を叩くたびに、エコーの手は赤く荒れて、指の間の皮膜が千切れる。この幻の中では青みがかって見えるエコーが、実際は赤く爛れたようになっているのは、塩水に当てられたもののようだった。



上空をゆるく旋回していた極楽鳥は、エコーの傍に舞い降りると、岩に爪を立てた。先ほどの争いでまだ血の滲む足に精一杯の力を込める。傷ついた翼を頼りなくばたつかせても、崩れた岩はびくともしなかった。
やがて舞い上がった極楽鳥は、喉の奥を震わせるような声を出すと、再びエコーの上空を旋回し始めた。虹色にきらめく翼が光を孕むたび、エコーはまぶしそうに目を眇める。
そうして不意に高度を上げた彼は、そのまますうっとエコーの視界から消えた。
エコーは訝しげな声を上げた。長く尾を引く声で極楽鳥を呼ぶ。
しかし、彼は2度と帰ってこなかった。



高い声に揺すられるようにして、悟空は目を覚ました。さっきまで、確かに湖の中ほどに立ってエコーたちを眺めていたはずなのに、気がつけばいつもどおりの野宿の朝だった。
三蔵はすでに起き上がって、不機嫌そうに煙草を吸い、八戒は荷物の中から食事の用意をしている。悟浄がいまだ居汚く眠っているのもいつものとおりだ。
悟空は湖を振り返った。幻で見せられた光景よりなお、荒れている印象を受ける。地震はあの時だけではなかったのかもしれない。

細い声と水音がして、湖の縁を赤いエコーがスイと動いた。

「さっきから呼びかけているようですよ。」

いつの間にか悟空の背後に来ていた八戒が、エコーの方を眺めながら言う。

「こんなに歌っているのに、幻の一つも現れないところを見ると、可愛そうですが彼女はずいぶん衰弱しているのかもしれませんね。」

どうやら八戒の目にはあの殺伐とした光景は映らなかったらしい。悟空は一つ大きく息をつくと、そっと聞いてみた。

「エコーは、どうして幻で誰かを誘い込もうとするんだろう?」

悟空の真摯な目にたじろいだように、八戒はわずかに言いよどんだ。

「そりゃあ…妖怪であるからには、人を襲うのは業のようなものでしょうが…エコーやローレライに食い荒らされたと言う話は聞いたことがありませんから…。」

初めて思いついたと言わんばかりに、頬を指先で叩いた。

「…寂しいから、かもしれませんね。」

まるで上等の冗談を思いついたとでも言うように、八戒は朗らかに笑う。

「……寂しい…。」

悟空は思わず空を見上げる。薄曇の空には、夢で見た極楽鳥の姿は見えない。
エコーの幻が悟空にしか見えないのだとしたら、エコーの寂しさは自分の寂しさと共鳴しているのかもしれなかった。
物言わぬエコーに呼び止められた気がして、悟空は彼女を探した。強い塩水は、彼女の髪を荒らし、薄いひれや鱗の個々まで剥いでいたけれども、潤んだ瞳の透明さは変わらなかった。



簡素な食事を終えると、白竜が羽ばたいた。小さな翼が風を孕んだかに見えると、次の瞬間にはいかつい鉄の塊─ジープがそこにいた。いつもなら見とれてしまうこの変化も、今の悟空にはなにか空々しかった。
八戒が悟浄を急かして荷物を詰め込んでいる。焚き火のあとの燃え殻を丁寧に踏み消して、出発の準備も整ったようだ。

「さあ、出発しますよ。…悟空?」

八戒は湖を見つめたまま立ち尽くしている悟空を振り返った。ジープはすでにエンジンをふかしている。後は悟空が乗り込みさえすれば出発なのだった。

「俺…。」

悟空はゆっくり振り向くと、3人の顔を窺った。にこやかな八戒、悟浄は少しばかり訝しそうで、三蔵は眉間に深い皺を刻んで悟空を睨みつけている。まったくいつもどおりで、たとえ悟空が欠けたとしても、3人の、特に三蔵の表情が変わることはないのだろう。

「俺…、ここに残ろうかな…。」
「は…? な、なにを言っているんですか、悟空?」

ハンドルを取っていた八戒が、ギョッとしたように身を起こす。悟空はもう一度エコーを探した。白い塩の岸に縋ってこちらを窺っているエコーは、そのまま蕩けてなくなるのを待っているように見えた。
帰らない恋人を待ち続けるエコーの寂しさは、幸せな恋をしている八戒たちには分からないのだろう。

「エコーだって一人は…寂しいんだよ。」

寂しさを共有する自分が傍にいるのならば、おそらくそう長くないエコーの生涯にも、少しは安らぎを分けて上げられるのではないのだろうか。
少なくとも三蔵は、悟空がいなくなることを惜しんだりしないだろう。

悟空は唇を噛むと、湖の中に足を踏み入れた。冷たい水がたちまちズボンにも靴にも染み渡って体を冷やす。このまま水没してしまえば、物言わぬエコーと会話ができるようにも思えた。
湖の奥でエコーが泳ぐ。両手を伸ばしたその仕草は、悟空を招いているようにも拒んでいるようにも見えた。



不意に強い力で肩を引き戻された。驚いて振り向くと、そこには三蔵が、鬼のような形相で立っていた。
いつも取り澄ました三蔵が、衣の裾を乱し、美しい金髪まで濡らして追いかけてきたのが意外で、悟空はポカンと口を開けた。

「………勝手なまねをするんじゃねえ。」

三蔵は、空気を震わせるように唸った。

「おまえは俺のもんだって…何度言ったら分かる。」
「でも…三蔵は……。」

言葉が続かなかったのは、手を振り払おうとした悟空に向ける三蔵の顔が、あまりにも真剣だったからだ。
三蔵のこんな顔、見たことがない…そう思った途端、なぜか悟空は確信した。三蔵にこんな顔をさせることができるのは、きっと世界中どこを探しても、悟空のほかにはいないのだ。

「……行くぞ。馬鹿ザル。」

乱暴な言葉とともに手首を取られ、ジープの方に引っ張られた。
振りほどこうと思えばできたのを、そうしなかったのは、背中を向けた三蔵から、無言の言葉が溢れるように伝わってきたからだ。
湖の奥でエコーが跳ねる音が聞こえた。



あっさり戻ってきた悟空を、悟浄は散々からかったが、悟空にはそれが返ってありがたかった。珍しく後部座席に乗り込んできた三蔵と隣り合わせの席では、沈黙が苦痛だったからだ。
湖を大きく迂回して山を越えるとき、三蔵が突然悟空の耳元に口を寄せてきた。三蔵が示す先には、白い崖が聳え立っていた。

「ちょうど湖の裏あたりだ。あれを見ろ。」

指差す先に、何か光るものが見える。目を凝らすと、そこには虹色の羽が無数に散っているのだった。

「極楽鳥の羽だ。土砂崩れの裏側から崩そうとして、巻き込まれたんだろう。
エコーは見捨てられたわけじゃない。それをちゃんと分かっているのさ。」

悟空は驚いて三蔵を見上げた。あの幻は、自分だけに見えていたわけではなかったらしい。
と言うことは三蔵も、自分の気持ちを素直に伝えることができなくて、寂しい思いをしていたのだろうか。

悟空は離れていこうとする三蔵の手をしっかり握った。そうすると、いつも自分を傷つけるこの手が、なにを語ろうとしているのか分かる気がした。
近い将来、エコーは再び極楽鳥と会えるのだろう。それも分かっていて、彼女は悟空と三蔵に、同じ幻を見せてくれたのかもしれない。

「一人で早合点して…寂しがってんじゃねーよ。馬鹿ザル。」
「なんだよ…三蔵だって。」

悟空は三蔵の胸に擦り寄る。途端に手痛く引き剥がされてしまうが、もう胸は痛まない。
青い湖が、赤いエコーを孕んだまま、徐々に視界から遠ざかって行った。





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