優しく癒して金蝉は、ペンを休めて肩を回した。太陽が僅かに傾いている。日暮れまでにはまだ間があるが、真昼間とは言いがたい時間だ。 「…そろそろだな。」 デスクの上に散乱した書類を形ばかり整え、金蝉はことさらに忙しいふりをする。 書類仕事に飽いて気だるい眠りに誘われるこの時間になると、決まって悟空が駆け込んでくる。侍従が運んでくるちょっとした茶菓子が目的なのかもしれない。だが金蝉は、嬉しそうに悟空が抱えてくる胸一杯の花束だったり、両手に一匹ずつの大きな甲虫だったりを、楽しみに待てるようになっていた。 何よりも悟空の無邪気な笑顔が待ち遠しい。いつのまにか自分の一部になっている小猿に、金蝉は苦笑を禁じ得ない。 「こんぜーん!」 金蝉が密かな支度を終えるのを待っていたかのように、扉が乱暴に開け放たれる。思ったとおりの悟空の登場に、金蝉は思わずにんまりとしそうになり、慌てて顔を引き締めた。 今日の悟空は、胸に少しばかりの可憐な花を抱えている。だが花の事よりも金蝉の気を引いたのは、悟空の丸い頬に貼られた傷テープだった。 「悟空、こっちへ来い。」 思わず声が尖る。悟空は、そんな金蝉の不機嫌さには微塵も気付かない無邪気さで金蝉の側に来ると、抱えた花を大事そうにビンに挿した。 「これ、キレイだろ? 金蝉。」 「それより…これはどうしたんだよ。」 とっ捕まえて引き寄せると、金蝉は悟空の頬を検分した。腫れている様子もない。たいした傷ではないようだ。 「これ? へへ、崖で転んで擦り剥いちった。」 「何で崖なんだ。」 「だってこの花が崖の真中に咲いててさ、…他はどこも咲いてないの。あそこだけだったんだ。すごくキレイでなんか金蝉に似てて、ぜってー金蝉に見せたかったんだ。だからよじ登ったら途中で転んじゃって…。天ちゃんにこれ、貼ってもらったんだぜ。」 さも得意げに笑う悟空に、金蝉は仏頂面になる。 「…天蓬にそんな話したのか。」 「うん。天ちゃん、『悟空は元気ですねえ。』って誉めてくれたよ。」 悟空の満面の笑顔が何か気に食わない。それが天蓬の手当てのせいなのだろうと金蝉は分かっている。 自分の狭量さを認めるのが嫌で、だがどうにも腹の虫も納まらず、金蝉は悟空を乱暴に引き寄せた。 「こっちへ来い、悟空。」 「えー、なに?」 掴みきれる腕に似合わない重みは手足の枷のせいだが、それを無視して金蝉は悟空を自分の膝の上に座らせた。 疑うことを知らない真ん丸い目が、きょとんと金蝉を見上げている。金蝉はほんの少し凶暴な気分で、いきなりその傷テープを毟り取った。 「いってえええ! なにすんだようっ!」 悟空は大げさに喚いて手足をじたばたさせる。構わずに傷をとっくりと見る。思ったとおりたいした傷ではない。手当ての必要もないような些細な擦り剥けだ。やはりこのテープは天蓬のあてつけ、もしくはからかいに違いない。 「んむう〜、せっかく天ちゃんが貼ってくれたのに〜!」 「こんなもん、わざわざ貼らんでいい。この程度、舐めときゃ治る。」 「だって、自分で自分のほっぺた舐められないじゃないかぁ!」 「…もっともだな。」 金蝉は悟空の顎を支えた。モチモチした子供の頬は、つるつるでその上吸い付くようにしっとりしている。傷の上にそうっと舌を這わすと悟空がくすぐったそうに身動ぎするのが分かった。 「うひゃ、金蝉、くすぐったいよ。」 「黙っとけ。俺が治してやる。…天蓬なんかに触らせんな。」 この言葉がどんなに嫉妬にまみれているか、この小猿は気付いているだろうか。それどころか、これが愛撫だということにも気付いていないだろう。 金蝉は意外なほどの自分の貪欲さに呆れながらも、もじもじと膝の上で身動ぎする温かみを楽しんでいた。時折角度を変え、瞼の上まで舐めまわしてやってもこの小猿は金蝉の下心など疑いもしない。愛しすぎて傷つけられない。金蝉はこれ以上行為をエスカレートさせないことにのみ、心を砕いていた。 「やっ、もう、くすぐったいってば、金蝉。」 何度か舌先で睫を弄ぶと、小猿は堪り兼ねたようにぐっと金蝉の顎を押し上げた。思いがけない強い抵抗に、金蝉は仕方なく顔を放す。すると小猿が膝の上でぴたりと動きを止めた。 「なあなあ、これなに、金蝉?」 いきなりのどの真中をぎゅっと押されて、金蝉はひとしきり咳き込む。 「ゲホッ…。なんだ、いきなり。」 「これ。」 どうやら悟空の指しているのは喉仏らしい。金蝉が喋るたびに上下するそれを、悟空は食い入るような目で見つめている。 「…男なら誰だってあんだろうが、そんなもん。」 そう言いながら、ちらりと観世音にはあったかなと思う。どうも奴には二つ三つついていそうな気がする。 「えー! 俺男だけどないもん、そんなの!」 悟空は自分のすべすべの喉を何度もなでおろして口を尖らせた。 声変わりもまだ遠い小猿に、喉仏のことなど懇切丁寧に説明してやっても混乱するばかりだろう。金蝉は面倒くさくなった。 「俺も欲しい! それっ!」 「人を指差すんじゃねえ!」 自分の膝に跨って大真面目に指を突きつける小猿を一喝する。悟空は更に口を尖らせた。 「だって俺、下界ではいつも指差されてたもん。あれが不吉の子だよって…。」 金蝉は言葉に詰まった。 悟空には自分の瞳が黄金だからと嫌われるのは、なんとも納得のいかないことだったろう。金蝉にだって分かりはしないのだ。こんなに愛らしく輝く黄金の瞳が、どうして不吉の象徴などであるのか。 「これは…腫れてんだ。」 言葉尻が甘くなる。悟空が真ん丸く目を見開いた。その無邪気な表情に、ふと悪戯心が湧く。 「風邪引いて、喉が痛えんだ。だから腫れてんだよ。お前が余計な苦労や心配ばっかかけっから、風邪なんか引いたんだな。」 喉を押さえてわざとらしく咳き込んで見せる。幸い、さっき悟空にどつかれた喉は結構ひりひりしているから、無理なく咳の真似事ができる。 「だからお前がな…。」 「痛いの? 金蝉…。」 もうちっとおとなしくしろと言いかけた言葉を、金蝉はウッと飲み込んだ。 間近に迫った真摯な瞳が、心配そうに金蝉を見つめている。滅多に見せない涙まで湛えているのを見て、どうやら脅しが過ぎたようだと悟る。 チャランと耳元で鎖が鳴った。悟空の腕が金蝉の首にしがみつくように回されたのだ。 「俺が痛くしちゃったの?」 「いや、あのな…。」 「…俺が治してやる!」 柔らかいくせっ毛がふわりと被さってきた。思わずのけぞる喉元に、温かい湿り気がぞろりと這う。ピチャ、と、小さく舌を鳴らす音がした。 「お、おい…。」 「痛いの、舐めると治るんだろ。」 首の周りに回された細い腕に、きゅっと力が込められた。 「俺が治してやるよ。俺、金蝉、大好きだから。」 熱い視線に見つめられて、金蝉はくらりと眩暈を感じる。これが愛の告白などではないことは、金蝉には痛いほど分かっている。 だが、今一心に金蝉を癒してくれている、この小猿のつかの間の言葉を、自分なりに解釈してもいいではないか。せめてこの膝の上の重みが自分の行為に飽きるまで。 「ん、ん、…ちょっとしょっぱいよ、金蝉。」 小さく文句を言いながら、小猿は温かい舌を這わせつづける。まるで腹をすかせた子猫がミルクを貪っているようで、金蝉は薄く笑った。 「しかし…まいったな。」 喉仏をいくら癒してもらったところで引っ込む当てもない。この疑うことを知らない小猿に、一体いつ本当の事を言ったものかと、金蝉はほんの少し途方にくれた。 「ん…っ、そういえば…。」 ふと小猿が動きを止めた。舌をはみ出させたまま、顔を上げる。 「天ちゃんが後で来るって言ってた。」 「なに…っ!」 金蝉ははっと顔を上げた。そのときになってようやく人の気配に気付く。 恐る恐るドアの方を伺うと、案の定そこに天蓬がにこやかに立っている。 「………そういうことはもっと早く言えっ!」 「ん〜、今言ったからいいじゃん。」 「いやあ、一応声は掛けたんですけど、お二人の仲がよくって気が付かれなかったようですねえ。」 天蓬の笑い顔が、いつにも増して人が悪く見える。 声を掛けたといったところで、本当かどうかなど分かりはしない。ドアからもれ聞こえる会話を聞いて、これ幸いと息を殺すことなどしかねない男だ。 金蝉は秘密を覗かれたばつの悪さに顔を赤らめて旧友を睨んだ。 「あーっ! 天ちゃんも風邪?」 悟空が膝の上でぴょんと背中を伸ばす。密着していた柔らかい体が離れてしまって、金蝉は歯噛みした。 「ん? ああ、これね。」 天蓬は喉を擦り、にっこりと微笑んだ。痩せ型の天蓬の喉にも、くっきりと喉仏が浮いている。 「そうですねえ、どうでしょうねえ。」 天蓬は悟空より金蝉の顔を面白そうに見た。当然金蝉は苦虫を噛み潰したような顔になる。 「金蝉が治ったら、俺が治してあげるから、ちょっと待ってて。」 「や、嬉しいですねえ。」 「…せんでいいっ!」 突然の金蝉の罵声に、悟空はきょとんと目を見張る。 「まあまあ、金蝉。」 「おまえ一体何の用だ。」 気恥ずかしさも手伝ってか、今日の金蝉の不機嫌さは通常の3割増しだ。 悟空の頬に傷テープを張った天蓬は、その後の展開を冷やかし半分に見に来たに違いない。多分に邪推の混じった想像だが、天蓬の身軽な様子を見るとあながち外れているわけでもないようだ。 「なあに、助け舟を出しに来たんですよ。その後どうするつもりでいたんです、それ。」 天蓬はにっこりと笑った。ひょいと金蝉にしがみついている悟空を指差して首を竦める。 「おっと、人を指差してはいけないんでしたっけ。」 (いつから覗いてやがった…こいつ) 金蝉は額に青筋を立てた。 「代役を立てればいいんですよ。喉じゃねえ、いくら悟空が愛情たっぷりに舐めてくれても、引っこみゃしませんもんねえ。」 「代役だあ?」 「悟空、金蝉はね、もっと腫れている所があるんですって。」 「え、ほんと?」 悟空はびっくりした声を上げる。本当に素直な反応で可愛い…と言いたいところだが、今回ばかりは腹立たしい。 「そうそう、あなたの下になってるところ。」 天蓬は、悟空を指した指を下に向けた。まっすぐ金蝉の股間を指している。 「金蝉の大事なところがね、あなたが座っていると腫れちゃうんですって。そこならね、あなたが舐めてあげるとあっという間に小さく引っ込みますよ。」 「天蓬…っ!」 「本当、金蝉? そんなとこ腫れてんのか?」 天蓬のとんでもない言葉に,金蝉は赤くなったり青くなったり忙しい。そんな金蝉を,悟空は不思議そうに見つめるばかりだ。 「あ、それとも…。」 天蓬は更に笑みを大きくした。もうこれは完全に金蝉をからかっている顔に他ならない。 「悟空に舐められたら、もっと大きくなっちゃうかな〜。」 「…………下品っ!!」 しゅっと音がして、分厚い辞典が飛んだ。 直線でとんだそれは、天蓬の額にクリーンヒットした。 |