夜に桜




緩やかな下り坂に差し掛かると、悟空の足取りが軽くなった。
わずかに触れていた指先が、ほころびるように解かれてしまう。追いすがるように伸ばしかけた指先をごまかして、三蔵は懐の煙草を探った。
風に乗るように駆け下りていった悟空が、伸び上がって自分を手招いている。三蔵は思わずジッポを探る手を止めた。山間を埋め尽くすようなほの白い桜の枝が、目の前いっぱいに広がっていた。

「…ほう。」
「な、凄いだろ! えーと、一見の価値、あるよな!」

どこで聞きかじったものか、悟空はなじまない言葉を口にする。三蔵はそれに苦笑いで返すと、改めて桜を見上げた。
なるほど、山の斜面になるここは、昼間であれば日当たりもよいのだろう。めったに人の立ち行かないこんな狭隘な土地に、このような見事な桜が咲いているなど、悟空に教えてもらわなければ、到底知るはずもなかったことだ。

「猿の無駄歩きも、たまには当たることがあるもんだ。」
「無駄じゃねえし! 猿じゃねえもん!」

頬を膨らませる悟空を笑いながら一瞥し、三蔵は見上げた目を細める。
見事な桜より、それを喜ぶ悟空の姿が、こんなにも嬉しい。
わずかな風にも降りしきる花びらは、季節外れの雪のようだ。



夕方頃、一時雨が降ったので、地面が湿っている。その上に積もった花びらがふわりと柔らかいのは、まるで桜が自分たちの訪いを待っていたかのようだと、三蔵は思う。
いや、桜が待っていたのはただ悟空だけなのかもしれない。風に漂う花びらさえ、悟空の後を着いて回っているように見える。当の悟空は、幼い眉間には似合わない皺を寄せて、桜の周りを回っている。さっきから、どこから見る桜が一番見事か、検討に余念がないのだ。

「だって、三蔵に一番綺麗な所、見せてあげたいし。」

悟空はそんな警戒心のない言葉で、三蔵を篭絡する。

「桜だって、きっと、一番きれいなところをみて欲しいと思ってるよ!」
「そんなもの、探すまでもねえだろう。」

夜の闇に冴え渡る白い花弁は、自らの美しさに酔いしれているように見える。
ましてやその懐に、悟空を抱いているのであれば。
三蔵はほのかな苦みを感じる。煙草の苦さだけでないそれは、大地の子である悟空を誇らしげに誇示する桜への、醜い嫉妬なのだろうか。



「……桜の下には死体が埋まっているというが。」

唐突に三蔵が言うと、悟空は驚いたように振り向いた。

「あながち、嘘じゃないかもしれねえな。この切り付けるような白さには、一種、妖しさを感じる。どす黒い血を吸い込んでいるからこそ、桜はこんなにも凄烈に白く咲き誇るのかもしれねえ。」
「…そんなもの、埋まってないと思う。……でも、きっと。」

突然一陣の風が吹き荒れた。
悟空の長い髪が舞い、花霞が押し寄せるように三蔵の視界を奪う。何千、何万という白い花びらが、あるいは梢から、あるいは柔らかい地面から、巻き上がって三蔵を取り囲む。
その中にあって悟空の黄金の瞳が、朔の月のように細くきらめくのを、三蔵は見たと思った。

「三蔵の死体なら、きっとこの世で一番きれいな桜が咲くね。」

頭の中にだけ響く声は、どこから発せられたものだろう。
三蔵は、時折垣間見られる、この美しい魔性の甘やかな残忍さに慄然とさせられる。きっとそう遠くない将来、自分は彼に屈服させられることだろう。
そうして三蔵は、彼を喜ばせるためだけに、運命を甘受するつもりでいる己に愕然とするのだ。

また新たな風が吹いた。
いつの間にか傍に擦り寄ってきていた幼い子供が、幸せそうに微笑んで、三蔵の手をしっかり握る。三蔵はその手を強く握り返し、もう一度夜の桜を見上げた。





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