部長の誤算




雨の日の更衣室は、なんだか懐かしいような匂いがする。

決して芳香とは言い難いそれを吹き飛ばすかのように、手塚はスプレーを振り撒いた。少し離れたところで、海堂が威嚇するような目でシューシュー言っているのが目に入ったが、あえて無視する。
手塚がスプレーを使いすぎると、部員たちからさりげなく避けられているのも知っている。だが、この名門青学テニス部の古い更衣室の中では、代々蓄積された汗臭い男臭が髪の先まで染み付きそうで、手塚としては気になって仕方ない。
手にしたスプレーを軽く振ってみる。カラカラと軽い音がする。また使い切ってしまった。今度はどのスプレーにしようか。手塚は小さくため息を吐く。この間のフローラルの奴は全く不評だった。

「ぶちょー、ちょっといいすか。」
「ん、ああ。」

越前が、その小柄な体を更に屈め、手塚の脇の下を掻い潜るようにして荷物を探る。2段になったロッカーの、手塚の下が越前なのだ。
普段は着替えが重ならないから気がつかないが、部員の数の多さの割に、この部屋は狭すぎる。暖房も入っていないのに、部員たちの呼気で、窓ガラスが真っ白に曇っているくらいだ。
手塚はずっと前から気になっていた自分のロッカーの隣を見た。扉に「触っちゃイヤ!」と書いてある。いまどき珍しい丸文字が不気味だ。

もともとこの部屋は狭かった。それなのに、このロッカーは使われたことがない。いくら壁際で使い辛いからといっても、こんな風に人と人とが重なってしまうくらいの狭さのここでは、一つのロッカーは貴重な広さだろうに。
確か前には前部長の大和がこれを管理していたはずだ。そういえば、彼は部長の引継ぎのときに、不思議なことを言っていた。

「あの開かずのロッカーね、右端の。あれも代々部長が管理することになっていますから。」
「はあ、開かずのロッカー…ですか。」

手塚は、腑に落ちない顔で呟いた。そんなロッカーがあることなど知らなかった。

「今度学年が上がって、君が上段のロッカーを使うようになったら、それの隣を使うといいですよ。…てゆうか、君が隣に陣取って、しっかり管理して下さいね。」
「………はあ。」
「うーん、君は素質があるかもしれませんね。」

大和はなんだか楽しそうに笑った。ロッカーの管理に素質なんか必要なものかと、手塚はかすかに鼻白んだ。

「いいですか。あれはね、誰にも相談できない悩みができたときに開くロッカーなんですよ。むやみに開けちゃいけません。中には、代々の先輩方の涙の結晶が眠っているんですから。」

あのときの、大和部長の人を食ったような笑顔が気になる。人に言えない悩みって一体なんだ? 手塚はほんの少し躊躇した。だが、この部室の狭さはどうだ。やはりここは思い切って、この開かずのロッカーとやらを開放したほうがいいだろう。

手塚はそっと開かずのロッカーの取っ手に手を掛けた。勢いよく開く。思いがけない抵抗感があった。そして、

バン!

「ん?」

越前がびっくりしたように顔を上げる。手塚もきゃっと叫びたいのを必死に押し殺した。内側からロッカーの扉が引っ張り戻されたのだ。
軽い金属製の扉は、びっくりするほど大きな音を立てて閉まった。気の迷いとは思うが、ロッカーの中に大和部長の、あの魚介類を思わせる笑顔が覗いていたような気もする。手塚はドキドキ言う胸を押さえて、その場に立ち尽くした。

「…なにしてるんすか?」
「いや、このロッカーがな…。」
「ん〜…?」

越前が手塚の手元を覗き込んだ。手塚は少し乱れた呼吸を正し、もう一度果敢にチャレンジした。ただ、今ビビらされたので、今度は慎重だ。そっと取っ手を引いてみる。また抵抗感を感じる。手を放すと、パタンと扉が閉まる。

どうしてこのロッカーだけ自動的に閉まるのだ。隣の自分のロッカーと同じ仕様のはずなのに。大和部長が念を押していたのは、このことだったのか? 手塚は改めて自分のロッカーを開けてみる。扉の内側に心棒が1本かましてあるだけの、きわめてシンプルなつくりだ。ばねも仕掛けもない。

「…なんか今内側に、白いゴムみたいなの見えましたけど…。」

越前がぼそりと言う。手塚と越前とでは、視点が違うのだ。手塚ははっと気を取り直した。

「そ、そうか、内側に何か仕掛けがしてあったのか。考えてみればそうだな。」

大和部長の顔なんか思い浮かべたから、不気味な想像をしてしまったのだ。手塚は今度は細めにロッカーを開いた。なるほど、扉の内側に、ゴム紐のような物が結んである。

「こ、これか。よし。」

結び目が見える。両手を突っ込んで解こうとするが、意外と短いもののようでやりづらいことこの上ない。扉が閉まってしまって、結び目が見えなくなるのだ。

越前がああ、と気抜けしたような声を出した。扉を押さえてくれる。やっと結び目が見えるようになって、手塚は強張った肩を解いた。

「すまんな。」
「…切っちゃえばいいじゃないすか、そんなの。」
「いや、結んであるものを切るのは、なんだか許せないのだ。誰かが結んだのだから、絶対に解けるはずだ。」
「はー、そんなもんすかねえ。」

越前はなんだかニヤニヤ楽しそうに笑っている。だが奮闘中の手塚はそんなことには気付かない。やっと結び目が取れた。

「やれやれ、やっと取れたぞ。」
「で、なんすか、それ?」

越前が聞く。手塚は手の中のものを検めた。

「む! これは…!」

ぎゅっと結んであったものを、しつこく伸ばしたり解いたりしたものだから、サイズがだいぶ大きくなってしまっている。しかし、惑うことなくこれは…。

「やっぱゴムっすか?」

ゴムはゴムでもゴム違いだ。手塚は思わず赤面し、ぎゅっとそれを握りつぶした。越前の前から遠ざけたかったのだ。だが、握り締めた瞬間、そのリアルな手触りにぎょっとなってまたぱっと手を開いてしまう。

それは、伸びきった避妊具(男性用)だった。

「ねえ、ぶちょー。」

越前が手塚の顔を見上げる。手塚は狼狽した。
確かに手塚の年になれば、こんなものに興味も出てくる。女子もたくさんいる教室の中で、わざわざ膨らましたそれを使ってバレーボールをする輩もいるくらいだ。だが、越前はどうだろう。まだ彼は中学1年生なのだ。ついこの間までランドセルを背負っていたのだ。まだこれを教えるには早いのではないか。

「こ、これは、これは…だな。」

言葉がしどろもどろになる。越前が妙にニコニコしている。端から見ればからかっている顔に他ならないその笑顔も、焦りまくった手塚には幼げな無邪気さに見える。

手塚は慌ててロッカーの中を検める。用が済んだら、さっさとこのロッカーを明渡そうと思ったのだ。だが、ロッカーの中に詰まれていた本を取り出して、更に彼はぎょっとする。
それは豊満な胸を惜しげもなくさらして微笑む白人女性の写真集だった。これも、これも、これも…。どういうわけか、半数は素っ裸の男の写真の本だ。それがどんな意味を表すのか、知らないわけではないが…深く知りたくは断じてない。まずい。更に越前の目の前にさらすわけにいかないものばかりだ。

「ねえねえ、ぶちょーってば。」

越前は更に笑みを深くして寄って来る。手塚の手からはみ出しているそのゴムをぐいぐい引っ張った。

「こっ、これは…っ、オモチャだっ!」

苦し紛れに出てきた言葉がそれだった。越前はきょとんとし、それからニヤリと笑う。

「オモチャ…、へえ、オモチャにもいろいろあるけど…。」

そう言われて、『大人のオモチャ』という言葉が手塚の脳裏に閃く。何てことだ! 更にまずいことを言ってしまったぞ! とにかく越前の興味をこちらから逸らさなくては…。

「こっ、これはほらっ、オバQの形をしているだろう!」
「はあ? なんすか、それ?」

そうして手塚は部員たちの前で歌を披露することになった。



「あ〜、今日は部活が途中で終わっちゃってつまんないと思ったけど、結構面白かったにゃ〜。」

部員たちが連れ立って帰るのも久しぶりだ。人数分ない傘で、引っ付きあって帰るから、なんだか足取りまで浮かれている。

「オチビ、あれ、わざと手塚をからかってたでしょ。」
「あれ、見てたんすか、菊丸先輩。」
「当然! あんな面白いこと、この英二様が見逃すわけないじゃん!」
「部長、マジで焦りまくってましたよね。」

桃がくくくと忍び笑いをする。越前と一つの傘に入った彼は、傘が頭にめり込んで、いびつな形になっている。

「人が悪いなあ、越前も。」
「そういう河村だって、助け舟を出してやらなかったじゃないか。」
「だって…なあ。」

乾に突っ込まれて、川村は照れくさそうに笑う。彼もそれなりに楽しんだのだろう。

「あの開かずのロッカーだって、いまどき遵守してるのなんか手塚くらいだしね。」
「そうそう、みんなの楽しい秘密図書館になってるのにね〜。」

不二の一言に、菊丸は嬉しそうに同意する。

「おいおい、手塚に知れたら、ランニング300週モンだぞ。」

大石が唇の前に指を立てる。部員たちはそれぞれ、声を押し殺して笑った。



「これが全部…部の財産…? 代々受け継がれてきた…?」

手塚は全員が帰ってしまった部室で呆然と目の前に積み上げられた本を見た。
いわゆるエロ本、それもネットで買ったと思われる際どいものばかりがおよそ50冊。それぞれが薄っぺらい冊子ではあるものの、重量にしてみれば相当ある。こんなもの、と思いつつ、代々の部長の…という一言が頭にこびりついていて、思わず正座をしてしまう自分が悔しい。

「しかも、なぜ、…半分がアブノーマル用なんだ。」

こんなもの、部員の誰にも見せるわけには行かない。大和部長が言っていた管理に対する素質というのは、もしかしてこれの事だったのかもしれない。

「やっぱり…封印しておくか。」

次の部長は誰になるのだろう。少々卑怯な手かもしれないが、その誰かにこれの始末を委ねてしまってもいいだろうか。手塚はそっと1冊を手にした。ちょっと胸がドキドキする。

「1冊だけ…借りて行ってもいいかな…。」

僅かに頬を赤らめて、手塚は呟く。彼とて健全な男子なのだ。

手塚が手にしたそれが、僅か数日前に発売されたばかりだと気付くのはまだ先の話だ。



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