乾の画策




脇の下に挟んだ体温計が乾いた音を立てた。乾はぼんやりと天井を見上げながら、そう言えば海堂のケータイもこんな無機質な音を立てるっけなと思った。

「ううう〜む…。」

熱くて腫れぼったく感じる腕の下から体温計を抜き出して見ると、そこには思ったより大きい数字が並んでいる。乾は無意識に電子体温計を振った。30分おきに計っているというのに、一向に下がらない。

「平均1.5度の体温の上昇。全身の倦怠感。間断なく続く咳と鼻水、加えて顕著な喉の痛み。
以上のことから鑑みるに、流行性感冒の可能性87パーセン…。」
「なに小難しい事言ってるの! 明らかに風邪よ風邪! とっととお布団に戻りなさい!」

乾母は、息子を見下ろして怒鳴った。立ち上がってしまえば首が痛くなるほど上向けなければ顔も見えない息子も、こうして座っていればなんとか自分の視界内に収める事が出来る。夫も自分も決して小柄ではないといえ15になるやならずの息子が、こんなに雲を突くような大男に育つとは思ってもいなかった。
制服はもちろん、学校指定のジャージでさえ、身長190センチにもなる息子に誂えるのは一苦労だ。まだまだ伸びそうな勢いの息子の身長に、母は胸を痛めつつあった。

「まったく、そんな図体して水遊びして風邪ひいたなんて…。」
「水遊びではなくて、テニスの特訓…。」
「どっちだって一緒です!」

母はため息をつく。ジャージをびしょびしょに濡らして帰ってきた息子は、なにがあったか上機嫌で珍しく口数も多かったが、夜半からくしゃみを連発し、今朝は熱っぽい腫れた顔をしている。図体ばかり大きくても、する事はやはり子供じみていると母は嘆息する。

可愛くて賢かった彼女の自慢の一人息子は、中学に入ると同時にテニスを始め、たいして悪くもない目に胡散臭い眼鏡をかけるようになった。そうして顔の表情が半分以上隠れてしまうようになると、やたら小うるさい屁理屈を口にするようになった。身長があれよあれよと伸びていったのもこの頃だ。
小学校の林間教室で、初めて親元を離れるのが恐くて泣きべそをかいたあの可愛い子はどこへ行ってしまったのだろう。ご近所にはしっかりもので頼もしい息子さんといわれ、それはそれでまんざらでもないのだが、やはり自分の腕の中に納まっていられた小さい頃の貞治が、彼女には一番愛しかった。
当の愛息子はというと、母の切ない胸の内など歯牙にもかけない様子で、目をしょぼしょぼさせながら昆布茶など啜っている。

「…こんな時こそいつも作っているあの奇天烈なジュースを飲めばいいじゃないの。」
「いや! あれは効率的な蛋白質とカルシウムの摂取によって疲労回復を促進し、適度なカプチン等の刺激によって筋力を増進させる目的を持って摂る物であって、体調不良の際の回復剤にはならないのだ。」

貞治は胡散臭い眼鏡を光らせてふふふと笑う。母はもう一つため息をついた。

「学校にはちゃんとお休みの連絡したのね。」
「いや、まだ。」

清々しくきっぱり言い切る息子に、彼女は柳眉を逆立てる。

「どうして! 自分で連絡するって言い張ったんじゃないの!」
「休みの原因を特定するためにはまだデータの収集が足りな…。」
「ああもう! お休みするって事実は変わらないじゃないの!」

母が金切り声を上げると、貞治はふむと顎を擦った。

「…なるほど。」
「なるほどじゃないわよ、全く…。」

母は脱力する。我が息子ながら、なにを考えているのか全く分からない。この子は果たして中学校でちゃんと学生らしい言動をしているのだろうか。母の不安は募るばかりだ。

そういえば。母はまったく唐突に思い出した。何だか妙に親父臭い息子が、唯一子供らしく嬉しそうに報告するテニス部の後輩─薫と聞いたから、きっと女子部の後輩だろう─その子に向かってなら、きっと貞治も少年らしい姿を見せているのではないのだろうか。
そう思うと母の好奇心がむくむくと頭を擡げる。ぜひその子に会ってみたい! その子がどんな子なのかもさる事ながら、その子を前にした息子が、どんな反応を見せるのか、それがぜひ見てみたい。母はわくわくと弾む声を押し殺し、電話をかけようと立ち上がった息子に声をかけた。

「貞治、お友達はお見舞いにこないの?」
「見舞い? 高々1日くらいの休みで…。」
「あの、薫ちゃんって言う子はどうなの?」
「………薫ちゃん?」

貞治がのっそり振り向く。母はしめしめと舌なめずりをしながら頷いた。

「そうよ、いつだったか話していたでしょう。もう中3にもなったんだから、彼女の一人くらいできたんじゃないの?」

近頃の中学生は何かと早熟だから。と母は続けた。
若くして結婚して子供を設けた友人から、可愛らしい嫁は可愛くない息子よりよっぽどいいと聞いている。寛大な所を見せて、可愛らしい嫁候補をさりげなく指図できたらというのが、母の隠された野望だった。

「彼女? 薫ちゃんは…。」

なにか言いかけて、息子は考え込む。しばしあってにやりと笑った。

「うん、それはいい事を聞いた。手塚に頼んでみよう。」

足早に去る息子の後ろ姿を見ながら、母はほくそえんでいた顔をふと引き締めた。
手塚というのは、確か同級生のテニス部部長だ。男子部の部長が、女子部の部員の事まで干渉できるのだろうか。少し変な気がしたが、全国区のテニス部の部長ともなると、そんなものかもしれない。

「どんな子が来るのかしら♪」

母は楽しそうに呟いた。



手塚は不機嫌な顔を隠そうともせずに受話器を受け取った。引き継いでくれた先生が、なんだか不思議なものを見るような目で手塚を頭から足の先まで見ていったが、そんな些細なことはまったく彼の動揺を誘わない。

「何の用だ、乾。こっちはまだ授業中だぞ。」
「ちょっと頼みがある。…しかし今は休み時間のはずだが。」

授業の間の休み時間を狙って電話をかけた乾は首を傾げる。

「今日は授業の変更で、3〜4時間目は家庭科だ。今、調理実習の真っ最中なんだ。」
「調理実習…。そういえばうちのクラスもじきあるな。…そうか。君のエプロン姿を拝めなくて残念だよ。」

乾は笑いをかみ殺した。途端に苦りきったような手塚の声が返ってくる。

「俺がエプロン姿など晒すわけはないだろう。そんな用事ならもう切るぞ。」
「ああ、待ってくれ。からかって悪かった。冗談だよ。」
「当たり前だ。我が家にはエプロンなどない。今日は母の割烹着を借りているのだ。」
「あ…、そう。」

なんだか胸を張ったような手塚の答えに、一瞬乾は詰まる。こいつも今一つ掴めん奴だと一人ごち、手塚の不満そうな様子に慌てて言葉を繋いだ。

「今日は風邪で休みでね。海堂をうちによこして欲しいんだ。」
「なぜだ。明日じゃまずいのか? 今日の部活には対戦方式を取り入れようと思っている。お前のほかに海堂まで抜けるとなると、かなりやりにくいのだが。」
「そこをなんとかならないか。」
「…だいたいそんな事、直接海堂のケータイにメールでもなんでもすればいいだろう。」
「どうしても今日伝えたい練習法があるんだ。」

直接連絡などした所で、海堂はまず素直にやって来はしまい。昨日の特訓だけでだいぶ警戒されてしまったのだ。だから部長である手塚を引っ張り出したというのに。乾は必死に食い下がった。普段無愛想な海堂をうちに呼ぶ、千載一遇のチャンスだ。これを逃す手はあるまい。

「何か持たせるものは無いのか? …そうだ、君、今授業で何を作っている?」
「…カップケーキだが…。」
「それでいい。それを一つ海堂に持たせてくれ。見舞いの代わりだ。立派な理由になるだろう。」
「断る。」
「いくつも作るんだろう? いいじゃないか、一つくらい。友だちがいの無い奴だな。」

乾はむきになった。自分でも虫のいい頼みだとは思うが、こうまできっぱり断られるとは思っていなかったからだ。

「勘違いするな。お前にやるのが嫌なわけじゃない。不二がなんだか張り切っていてな。俺の作った分は全部引き取るのだそうだ。俺は自分で食う分も残っちゃいないんだ。」
「…あそう。」

心底がっくり来ているような手塚の言葉に、再び乾は詰る。頭の中のキーボードがカタカタ鳴って、『手塚、不二の尻に敷かれる』と書き込まれた。

「…とにかく何でもいい。なにか持たせて俺のうちまで来させてくれ。今日の伝達は急を要するのだ。」
「なにかと言った所で…。」
「本当になんでもいい。頼んだぞ。」

これ以上手塚になにか言われないうちに、乾は急いで電話を切った。律義な手塚の事だ。こうして無理矢理にでも用件を押し付けておけば、まず100%の確立で海堂をよこしてくれるに違いない。

その頃、手塚は一方的に切られた電話を片手に憮然としていた。

「何で俺が…。」

ぶつぶつ言ってみるものの、やはり乾が読んだように、手塚は乾の頼みをむげに断りきれない。彼にしては乱暴に受話器を戻すと、踵を返した。

切り替えの早い彼は、もう海堂に持たせる乾への見舞いの事で頭がいっぱいになっている。
そう言えば小学生の頃には、クラスメートが学校を休むと、クラス委員だった自分はよくプリントを届けさせられたものだった。その時に、確か給食の食パンをビニールにつめた物も持たされた覚えがある。そう、風邪で休んだ生徒には、給食のパンのお土産がつきものだ。

「ふむ…。」

手塚は思案げに腕を組む。我が青学には給食はない。だが、何でもいいと言っていたのだから、それらしいものでも持たせればいいのだろう。

手塚は時計を睨むと、購買部に向かって足早に歩き出した。今のうちならまだ海堂に言伝をできる。真っ白な割烹着とひらひらする姉さん被りが人目を引くのか、何人もの生徒が振り返っては彼を見ていた。



海堂は、いつにもまして憮然とした顔をして、教えられた道を歩いていた。手には手塚から託された紙袋が提げられている。どうして2年生の俺が、よりにもよって乾先輩のうちに見舞いに行かなくてはならないのだろう。
だが、自分の特訓に付き合ってくれた乾が風邪で欠席と聞かされれば、内心穏やかではない。どうも乾先輩は、腹の奥が見えない感じで不気味なのだが、えこひいき気味なくらい熱心に指導してくれるのも確かである。根はお人よしの海堂は、強く断りきれない自分に苛立っていた。

「いらっしゃ!…い…。」

教えられた乾のうちでは、勢いよく扉を開いて歓迎してくれた乾先輩の母親らしき女性が、海堂の顔を見るなり固まった。

「…………ちっス。」

海堂は頭を下げる。海堂の家庭は結構厳格な躾をするので、頭の角度はきっちり45度だ。だが、不満気に呼気が漏れてしまうのを抑えることはできない。

「やあやあ海堂、よく来てくれたな! さ、上がってくれ。」

女性の後ろから、大げさなくらい手を振って、乾が顔を覗かせた。見知った顔が現れたので、海堂は少しほっとする。

「貞治…、こちらは?」
「テニス部の後輩の海堂。」

なんだかおどおどと問いかけた女性に対し、乾は満面の笑みで答える。海堂がそちらを見ると、女性は震え上がった。

「母さん、お茶を頼むね。…なにびくびくしてるんだよ。大丈夫、海堂はちょっと目付きが悪いだけだから。」

海堂は軽くため息を付く。別に今に始まったことではないが、海堂の第一印象は大抵の場合すこぶる悪い。それはこの大きすぎる三白眼と口下手のせいだと分かってはいるが、なかなか改まるものでもない。
この目付きでビビられる、あるいはケンカを売っていると思われなかったのは、乾の他には、あの得体の知れない不二先輩くらいのものかもしれない。あの、テニス以外には何に対しても反応の鈍い手塚部長でさえ、一瞬腰が引けているのを海堂は目撃してしまったくらいだ。

「さあ、こっちだ。君に見せたいものがある。」

海堂は仕方なく上がりこんだ。いつもの習慣で、脱いだ靴をきっちりそろえて並べると、件の女性がちょっと驚いたようなそぶりをした。
そう、俺は誤解されやすいんだ。海堂はもう一度軽く頭を下げるとしぶしぶ乾の後をついていった。

「…今日は乾先輩、なんかイメージちがうっすね…。」

独り言のように呟くと、乾はにったりと笑いながら振り向く。

「そうかい? 私服だからかもしれないな。いやあ、誉めてもらって嬉しいよ。」

別に誉めてない、と海堂は頭の中で呟く。うきうきと階段を上る後姿をじっくり眺めると、違和感の原因に思い当たった。今日はいつも針金みたいに突っ立っている乾の髪の毛が寝ているのだ。さすがに風邪で欠席している今日は、ヘアスタイルにまで気が回らなかったと見える。

「で、用ってなんすか?」

早く帰りたい海堂は、せっかちに問う。乾は自分の部屋に海堂を招きいれると、ビデオを手渡した。

「これに君の弱点をカバーするヒントが盛り込まれている。」
「はあ…。」

海堂は仕方なくそれを受け取った。どこにでもある家庭用のビデオテープで、白い箱には何の表書きもされていない。海堂はそそくさとそれを自分の鞄の中に詰め込もうとした。

「待て待て待て待て。」

乾は慌てて押しとどめる。ここでそれを一緒に見なくては、何の意味もない。

「なんすか。これを見てくればいいんでしょう。」
「それだけでは不十分だ。ここで一緒に見よう。俺がちゃんとレクチャーしてあげるから。」

乾の透けない眼鏡が怪しく光っている。両手がわきわき動いているのを見て、本当に海堂は帰りたくなった。

「…乾先輩、風邪だったんじゃないんすか。早く寝た方がいいっすよ。」
「それはそうなのだ。だが俺は、どうしても今日中に、このビデオを、お前と、一緒に、見て、検討しなくてはいかんのだ。」

一言一言が強調されるようにぶつぶつと途切れる。地獄の底から忍び寄るような低い笑い声と一緒になって、不気味な事この上ない。海堂は思わずあとずさる。

「先輩…、熱あるんじゃないすか。何か…変っすよ。」
「うむ。熱は平熱よりおよそ1度ほど高いな。君の顔を見たら少し下がった。」
「はあ…。」
「だが、データの精製は、早いほどいいのだ。だからすぐにこれを見るのだ。」

ちょうどそこに、乾の母が、お茶を持ってやってきた。きっちり正座した海堂に詰め寄っている我が息子を見ると、彼女はなんとも言えない複雑な表情をした。

「貞治…ねえ。」
「なんだい? これから我々はビデオを見るのだ。」
「…………薫ちゃんが来るんじゃなかったの?」

押し殺した声だが、狭い室内では海堂の耳にも十分に届く。彼はぴくりと眉を上げ、乾の母親のほうを見た。彼にはチラリのつもりでも、傍目には十分にギロリとした目つきだ。彼女は明らかにすくみ上がった。

「い、い、いえ、邪魔するつもりはないのよ。じゃあ、ご、ごゆっくり…。」

彼女はあたふたとお茶を置き、そそくさと出ていった。いつのまに調達したのか、可愛らしいショートケーキも一緒だ。彼女の薫ちゃんに向ける期待の大きさが知れる。

「先輩…、薫ちゃんって…。」
「いやなに、単なる世間話さ。さ、お茶でも飲んで。」

目の前に華奢なティーセットを置かれると、海堂は席を蹴って帰れなくなった。それに、乾がこんなにしつこく見ろというビデオの中身も気になる。ようやくあきらめた様子の海堂に、乾はほくそえんだ。

「で…、それ、何のビデオなんすか。」
「ズバリ、君の弱点だ。」

ハナワくんみたいになっちゃったなふふふ、と呟く乾を、海堂は呆れた目で見る。やはり乾は風邪で今日は少しおかしいらしい。

ガションと音を立ててデッキにビデオテープが飲み込まれていく。海堂は、目つきをますます鋭くさせ、画面に見入った。

「で…、これのどこが俺の弱点なんすか?」

スピーカーから、嘆くような重低音が流れてくる。紅茶のお代わりに気を取られていた乾は、なんとなく自分のイメージと違う雰囲気に首をかしげた。

「…これ。」

海堂が不思議そうに自分を見詰めている。乾は画面を見て、あごが外れそうになった。

映画のタイトルは、「死霊の盆踊り」だった。

(な…なぜこんなものが…、俺は確かに「チャンプ」をセットしたはずなのに…。)

乾家では数少ない泣けるビデオだ。乾の把握している海堂の最大の欠点は、その繊細すぎる神経だ。海堂は繊細すぎるからあたりを威嚇して回るのだし、孤立するのだ。もっとも、それが海堂のかわいいところなのだから、乾はそれを正してやるつもりは毛頭ない。
だが今日はそれを盾にとってやろうと考えていた。ほんの数分の回想で涙する心やさしい海堂は、きっと悲しい映画を見せたらたまらずに、自分に縋ってくるに違いないと思っていたのだ。それがなぜ、「死霊の盆踊り」なのだろう。

乾の逡巡にも無情に、画面はどんどん進んでいく。薄暗い画面から、解け落ちたゾンビどもがぞろぞろと列を作って歩いている。

「と…統計によると、このゾンビの手の振りがだな…。」
「はあ…。」

焦りまくっている内心とは裏腹に、空虚な言葉が口を付いて出る。さっき一瞬狼狽した表情を見せてしまったが、何とかこの場を取り繕わなくては。今回は失敗だったが、次に繋げるために。

「ん?」

乾はぽんと握りこぶしを手のひらに打ち付けた。意外と大きな音が響いて、隣の海堂がびくっとするのがわかった。

(繋げるで思い出した。親父がスカパーを繋げるって言っていたな。それで何かビデオに撮るとか…。あのクソ親父、俺の秘蔵のビデオに上書きしたんだな…。)

「あの、何か…。」
「いやいや、謎が一つ氷解したのだよ。」
「はあ…。」

(しかし、よりにもよってこんなホラー…、参ったな。)

乾は横目で海堂を窺う。いいかげんに述べた講釈のためか、彼は大きな目を見開いて画面を食い入るように見つめている。その姿に動揺は感じられない。

(どうやら海堂は、涙ものは弱くても、ホラーには強いようだ。)

それは十二分に予想できたことだった。あんなに向うっ気の強い海堂だ。ちょっとやそっとのホラーには動じないだろう。だが、それに引き換え乾自身は…。

(別に恐くはないのだ。仕掛けも分かるし、ストーリーも大抵読める。だが、音がな…。)

手塚ほどではないが、乾も結構ビビリだ。それも恐いのではない。大きな音を突然出されると、体が過敏なまでに反応してしまうのだ。迂闊にホラーの映画館になど入ろうものなら、いちいち飛び上がるほどにびくついてしまう。
ちなみに、手塚のビビリは本物だ。彼は必死に隠しているようだが、あの必要以上に取り澄ました態度からもみえみえだ。ばれていないと思っているのは本人だけではないのだろうか。

「うううう〜む…。」

乾は低く唸った。隣には真剣な顔で画面を見詰める海堂が座っている。当初の目論見は外れたが、これはこれで捨て難いポジションだ。このままこうしていてもいい気がしてきた。後は自分があんまりカッコ悪いところを見せさえしなければいいのだ。乾はこの状況を甘んじて楽しむことにした。



(……………わからねえ。)

海堂は眉間に皺を寄せた。薦められて腰を落ち着けたものの、このビデオのどこに自分の弱点があるのかさっぱり分からない。もう始まって小一時間が過ぎたが、相変らずおどろおどろしい画面の連続で、気味悪くはあってもちっとも怖くはないし、このゾンビの手の振りが、テニスにどう影響するのかもさっぱり分からない。

このビデオが面白くないのにはもう一つ理由がある。隣に座っている乾がうるさいのだ。
話し掛けてきたりするわけではないが、ゲホゲホ咳をしてみたり、ずるずる鼻を啜ってみたり、ひっきりなしに音を立てている。それで今ひとつ、海堂はビデオに集中できないでいた。
レクチャーするといっていたのに何の説明もしてくれない。海堂は乾に説明を催促しようと振り向き、思わず身を引いた。

乾は画面に集中しきっていた。鼻水を半分たらして、口が大きく開いている。握り締めた拳がぷるぷる震えている様子からも、彼がどんなに集中しているかが分かる。口が開いているのは鼻が詰まっているからだろうか。
見ていると、垂れていた鼻水がどんどん伸びていく。乾は海堂がじっと見ているのにも気付かずに、ふがふが鼻を鳴らすと、一気にその鼻水を吸い上げた。

(こ、これは…。)

静まり返っていた画面が、突然大きな音を立てる。きっと映像は、不意にゾンビが飛び出してきたりしたのだろう。海堂の目の前で乾の大きな胡座がぴょんと飛び上がる。同時に、ぺたんと寝ていた乾の髪が一房、ぴんっと跳ね上がった。

(これか! 俺に足りないのは!)

海堂はにわかに悟った。きっと乾が一緒にビデオを見ようと主張したのは、今の自分の集中ぶりをみせるためだったのだ。
考えてみると今までの海堂は、つまらない野次などで簡単に集中を乱し、十分取れるゲームを落としたりしていた。乾は集中することの重要さを、身をもって教えてくれているのに違いない。

(………それにしても…。)

また大音響が響き、もう一房、髪が跳ね上がった。

(お、おもしれえ……。)

乾は画面に集中するあまり、海堂の視線に気付かずに百面相をしている。大きく開いた口が、右へ歪み左へ歪み、挙句噛み締めて歯軋りをする。髪もずいぶんまばらに立ち上がってきた。眼鏡の下の目は見えないが、さぞ眇めたり剥き出したり、忙しいことだろう。

乾がキラキラ輝く目でじっと自分を見つめる海堂に気付いて大いに照れるのは、ビデオが終わりに差し掛かった頃だった。



「それじゃ、俺はこれで…。先輩、風邪お大事に。」
「ああ、わざわざ悪かったな。」

乾は満足の面持ちで海堂を見送っている。海堂はといえば、ビデオの途中からずっと、乾を熱い視線で見つめているのだ。これは大いに収穫だった。何がよかったのかわからないが、海堂は自分を気に入ってくれたに違いない。

「あの…、先輩…。」

珍しく物怖じするような態度で海堂が聞く。乾は機嫌よく答えた。

「先輩、…ヘアスタイルは、毎朝何を使ってるんっすか?」
「ん? 俺か? 特に何も使ってないが…。」

予想もしなかった質問が飛び出したのを聞いて、乾は首を傾げる。だが、海堂の関心が高まるのは実にいいことだ。
海堂は口を引き結ぶと、更に目を煌かせた。なんだか知らないが、更に彼を喜ばすことができたようだ。

海堂はじっと乾の髪を見ていた。半分ほどがいつものように立ち上がっている。毎朝、あのヘアスタイルを作り上げるような何が乾の身の回りに繰り広げられるのだろう。いつか探り出してやろうと、彼はらんらんと目を輝かせるのだった。

そんな二人の様子を、乾母は遠巻きに眺めている。あの海堂という子は、素行はいいようだが、息子をあんなに脅すような目で睨みつけている。今にも二人の間で大喧嘩が始まりそうに思えて、母の心労はますばかりだ。

「次こそ薫ちゃんに会いたいものだわ…。」

母の懊悩は尽きない。



乾は海堂が帰った後の自室で、鼻歌を歌いながら片付けをしていた。海堂の側にずっといられたせいか、すっかり気分がよくなっている。明日には学校に行けそうだ。

机の上に放置されていた紙袋に気付く。海堂が手塚の言伝で持ってきてくれたものだ。どうでもいいので忘れていたが、一体手塚はお土産に何を持たせてくれたのだろう。

乾はちょっとワクワクしながら紙包みを持った。妙に軽い。袋はよく見ると購買部の判がおしてある。学校で購入したものらしい。

「何を寄越してくれたのかな…。ん?」

がさがさと紙包みを開けると、甘い香が鼻をつく。さては、やはりカップケーキを持たせてくれたのかもしれない。内心期待しながら袋を大きく開ける。中を見て、乾は言葉を失った。

 緩い円錐形のものがころころと転がり出て来る。

「なぜ甘食…? それも二つ…?」

乾は両手に甘食を一つずつ持ち、呆然とした。女性の胸を髣髴とさせるその食べ物を二つだけ持たせる手塚の感性が、どうしても乾には理解できない。

「………あいつだけはどうしても読めん…。」

 やはり手塚恐るべし。乾の頭の中のメモに、手塚のチェックが加わった。



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