母の思惑




母親の目がきらりと輝いたのを見たとき、薫はしまったと思った。

海堂家の居間では、毎日午後3時にお茶を楽しむ。料理好きの母が、毎日手作りおやつを用意してくれるのだ。弁当も重箱で持たせる母親は、もちろんおやつにも手を抜かない。

今日のおやつは薫の大好物の杏仁豆腐だった。今時のはやりらしい、緩めに固めた白い豆腐を、薫は慎重に掬って口に運ぶ。香ばしいアーモンドの香りがふわりと口の中に広がる。

「今日は早いのねえ。」
「ああ、今夜は花火大会があるから、招集が掛かって…。」
「へえ、兄さんのところのテニス部って、そんな事もするんですね。」
「先輩から呼び出されりゃ、嫌とは言えねえ。」
「花火と言えば、浴衣ね!」

母の突飛な声に、薫は一瞬ぎくりとする。母は身を乗り出して満面の微笑みを浮かべていた。

「ああよかった! 今年もきっと着る機会があると思って、糊を効かせておいたのよ!」

母親は、自分の食べかけの杏仁豆腐も放り出して、和室へ駆け込んでいく。
呆然とそれを見送っていた薫だが、弟の「あーあ」と言う呟きにはっと我に返る。

「兄さん、浴衣といえば、やっぱあれでしょう。去年の。」
「………やべぇ。」

薫は猛然と杏仁豆腐を掻き込んだ。手を伸ばして、母の食べかけた分もちゃっかり頂戴する。そうして慌てて食べた割には何とも律義に両手を合わせて「ごちそうさまでした」と呟くと、薫は急いで席を立った。

「葉末、俺はもう出かけるからな。母さんにはうまく言っといてくれよ。」

言い捨てると、部屋を飛び出す。スプーンを咥えた葉末が、
「…もう遅いと思うけど。」
と、のんびり呟いた。



薫は2階へ駆け上がると自分の部屋へ飛び込んだ。簡単な身繕いをして、また部屋を飛び出す。その間僅か1分。だが、階段を駆け下りた薫の行く手を阻む者が現れた。待ち構えたように浴衣を広げた母だ。

「ほら、薫ちゃん。お母さんが着付けてあげるから、こっちへいらっしゃい。」

ふふふふと、何だか苦手の乾先輩のような笑い方をして、母は迫る。

「い、いやだ。俺は今年は洋服で行くんだ。」

薫は必死であとずさった。薫が右へ動けば母も右へ。左へにじり寄れば母も左へと、二人の距離は少しも変わらない。

「何を言っているの。花火大会に浴衣を着ていくのは、国民の義務なのよ。」
「う、嘘だ! そんな法律、聞いた事ねえぞ!」
「嘘だと思うなら、お父さんの書斎の六法全書を見てみなさい。民法第三七八条第五項の2に、ちゃあんと書いてあるわよ。花火大会等、夏季ニ催サレル行事ノ参加ハ、浴衣ヲモッテ正装トナスって。」

母の口から出た難しげな言葉に、一瞬目の眩みかけた薫だが、すぐにはっと気を取り直す。

「ううう、嘘だっ! そんな事ぜってー書いてねえっ!」

そう、そんな事でひょいひょいたばかられるのは、小学生で卒業したのだ。まあ、去年は不覚にも、何度かやられてしまったが。

母は僅かに横を向くと、ちっと舌打ちをした。
薫は目を疑った。優しくて優雅な母がそんなお下品な仕草をするのは、薫には耐えられない。
はったりが利かないと見て、母は作戦を変えた。

「だってほら、薫ちゃんがこの浴衣大好きだからと思って、お母さんいっしょうけんめい丈も裄も直したのよ。大変だったんだから。せっかくお母さんが苦労して手作りしたの、薫ちゃんは無視できるの?」

泣き落としである。わざとらしく、袖で目を拭う振りさえした。
薫はまたもやぐらつく。だが、すぐにまた我に返った。

「違え! それ作ったのも直したのも、田舎のばあちゃんじゃねえか! 宅急便で届いたの、俺ちゃんと知ってるんだからな! 先月来た奴に、野菜・浴衣って書いてあったじゃねえか!」

ちっ。再び母は、行儀悪く舌打ちする。さすが中学生ともなると、そう簡単には騙されてくれない。愛息子はシューシューと呼気を荒くして、何とか逃げ道を捜している。仕方ない。母は正攻法で訴える事にした。

「だって薫ちゃん、お母さんが楽しみなのよ、息子に可愛い浴衣を着せるのが。薫ちゃんも葉末ちゃんもとっても可愛いから、きっと誰より浴衣が似合うわ。」
「だからその、可愛い浴衣が嫌なんだっ!」

薫は母が闘牛士の赤い布のように振りかざしている浴衣を指差し、その指を思い切り振った。去年仲間に爆笑された浴衣だ。

「俺には金魚柄の浴衣なんか似合わねえっ!」



去年の夏にも、クラスメートに誘われて薫は夏祭に出かけた。
母も父も家に揃っていて、しきりに着せ掛けた浴衣を誉めてくれた。
だから薫は自信満々でみんなの前に行ったのだ。きっとみんなも母や父のように、素敵と誉めてくれる事を信じて。

待ち合わせの場所に行くと、みんなの顔が奇妙に歪んだ。薫は期待と違うみんなの反応に戸惑った。気が付かないのかなと思い、さりげなく大きな金魚がひらひらと泳ぎまわっている浴衣をみんなにアピールする。
一人の女子が、実に無邪気な顔で叫んだ。

『海堂君の浴衣、顔に似合わず可愛いーっ♪』と。

次の瞬間、全員が吹き出した。夏祭の興奮も手伝って、笑い声はいつもより大きく、いつまでも止まなかった。
薫の小さな心は深く傷ついたのだった。



母はきょとんとした顔で、手にした浴衣を見下ろしている。白地に大きな赤やら青やらの金魚が泳ぎまわる図柄の浴衣は、女の子になら似合うだろうが、中学生男子に選ぶ柄ではない。ごていねいに、絞りの帯に赤い鼻緒の下駄が付くのだ。薫が嫌がるのも無理はない。

「どうして? とっても可愛くて素敵じゃない。」
「浴衣がどうこうじゃねえ。俺には似合わねえって言ってんだ!」
「そんな事ないわよ。すごく素敵よ。薫ちゃんも葉末ちゃんも華奢だから、こういう柄の方が良く似合うの。お母さんのセンスを信じなさい。」
「………華奢じゃねえ。」

薫はまたフシューと息を荒くした。少しでもたくましい男になりたくて、毎日それこそ血の滲むようなテニスの練習を重ねているのに、何で華奢なんだ。

「だって本当に良く似合うのに…。薫ちゃんの親不孝者…。」

うっ。薫は思わずあとずさった。さっきのは明らかに泣きまねだったが、今度は本当に、母は辛そうに顔を歪めている。

「薫ちゃんが着てくれると思って楽しみにしてたのに…、お母さんに年に1度くらい、浴衣の姿を見せてくれないの…?」

ううっ。薫は更に後退した。薫にとって親とは、いつも優雅に微笑んでいる印象がある。けんかもめったにしない両親は、子供のしつけにも声を荒げる事も無い。それが薫のこんな一言で泣かせてしまうなんて。

「わ…わかった…よ。」

薫はしぶしぶ呟いた。

「浴衣…着りゃいいんだろ。」
「本当?」

母の顔がぱあっと輝いた。泣き顔の片鱗も見られない。やられた。薫は低くうめいた。

「さあさあ、そうとなったら気の変わらないうちに…。」
「だ…っ、だけど…っ!」

薫は母の引っ張る力に負けないように足を踏ん張った。

「あの浴衣は嫌だっ! 他の奴しか着ねえぞっ!」
「え〜、でも…。」
「親父の奴でいいっ! それじゃなければ洋服で行くっ!」

母は明らかに落胆した顔をした。よほど薫にこの浴衣を着せたいらしい。
だが。母はためいきを付いた。仕方ないか。この素直な子もそろそろ反抗期だ。浴衣を着てくれると言うだけでも、譲歩しなくては。

「分かったわ。じゃあお父さんの青いのを出すから、ちょっと待っててね。」

踵を返す母に、薫は何とか折り合いが付いたと深いためいきを付いた。



「さあ、後ろ向いて。」
「………。」

薫は着付けが始まるととたんに無口になってしまった。母とは言え、女性の手に着物を着せ掛けられる事に照れているらしい。薫の身長が自分を越したのはいつだったか。その頃にはまだ無邪気な顔で、擦り寄って甘えてきたのに。

母は愛息子の背中を見上げた。背丈だけは伸びたが、成長途中の少年は、どことなく頼りなげな儚さを持っている。抱きしめたら怒るのだろうな。母はなんとなく不満だ。まだまだ可愛いと思っている息子が、どんどん男臭くなっていく。うつむいた背中に夫の影を見たように思えてちょっとどきどきする。きっと後数年すれば、可愛かった薫も、出会った頃の夫のようなりりしい男になるのだろう。

だけど、うなじの細さなどは、まだまだ子供のそれだ。白いうなじは、さらさらの髪と相俟って、少女の華奢さも備えている。

もったいない。この、男でもない、もちろん女でもない不思議な危うさを楽しめるのは今だけなのに。夫の薄青い浴衣は、薫にはまだ少し大きいが、引きずるほどでもない。これを着て、薫には少し長い、この黒い兵児帯をきっちり締めれば、薫も一人前の男に見えてしまうのかもしれない。母はほんの少し逡巡した。

「はい。できたわよ。」

軽く背中を叩く。薫は姿見に映った自分の姿を目を細めて見ている。やがて少し表情を和らげた。

「ありがとう。じゃあ、行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。あんまり遅くならないでね。」

母は、薫の可愛い後ろ姿に手を振った。



「あ〜、だけど意外だったにゃ〜。不二はともかく、海堂が浴衣とはね〜。」
「そうだな。やっぱり日本人だから、夏の浴衣は気分が改まっていいね。」
「別に…、おふくろが着ろ着ろってうるさいから、仕方なくっすよ。」

薫は素っ気ない風を装って言う。本当は注目が集まるのは嬉しい。だけどそれを看過されるのは何とも気恥ずかしい。

対して、英二はなんとなく不機嫌だ。大石が海堂を誉めたのが気に入らないのだ。

「ちぇ〜。」

つまらなくなってあたりを見回す。大石はぴったり自分の隣を歩いているが本当にそれだけで何の刺激も無いし、不二はどこと無くぼんやりしながらしきりに扇子を使っている。タカさんはそんな不二の様子が気になるのかしきりに話し掛けているようだが、あまり成果は得られないらしい。桃城はさっきから越前にまとわりついて手酷い肘鉄を食らっているが、めげる様子も無い。

「あれぇ〜?」

メンツが足りない。英二は大きく首を巡らせて、海堂の後方2メートルにぴたりと付いている乾を見つけた。
いつもうるさいほど海堂を構い倒す乾がそんな位置で満足しているのはなんだか珍しい。海堂の上機嫌はこんな所にも理由があったわけだ。英二は乾を振り返った。

「乾ぃ、どうしたんだよう。おまえが海堂を構わないなんて珍しいにゃあ。」
「ふふふ。今日の海堂はこの位置が一番可愛いのだ。」

片側だけ頬を緩めて笑う乾は、ちょいちょいと手首を折って英二を招いた。

「ふぁ?」

退屈し切っていた英二は、呼ばれるままに足を止め、乾の隣に立った。乾が団扇に隠すようにして指差す、海堂の背中を見て、思わず吹き出しそうになる。

「ホ、ホント、この位置が一番可愛いっ。」
「やっぱり一人占めするにはもったいない。」

乾は次に振り向いた川村をそっと手招いている。英二は見れば見るほど可愛らしい背中を眺めて、吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。

海堂の背中の帯は、母の苦心の作なのだろう、可愛らしくリボンの形に結ばれて、足取りに合わせてふわふわと揺れていた。 



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