英二のおねだり




「ねえねえねえ、大石ぃ〜。」

英二が大石の腕にぶら下がるようにして絡んでいる。テニス部員には見慣れた姿でも、まだ制服を着たままの教室の廊下ではその姿は酷く目立った。

「1回でいいからやってよぉ〜。」
「無理だって。次の授業に遅れるから…。」

大石はあたりの視線を気にして、英二をぞんざいに押しやった。そのこともさらに英二をいらだたせる。

「にゃんでだよぉ〜。手塚はできたじゃないかあ〜。」
「あれは、相手も違うし、緊急事態だったからだろう。とにかく俺にはできないってば。」
「んむう〜。」

大石が英二を遠ざける手つきは、どこか遠慮がちだ。決して本心から英二の接近を嫌がっているわけではないことがわかる。だが英二には不満だ。こうして俺が擦り寄っているのだから、二人っきりのときのように、力強く抱き返してくれてもいいじゃないか。ギャラリーの目がなんだというのだ。俺と大石は好きあっている。英二にはそのことだけが重要だ。

だから、いつか目にしたアレを、大石にもぜひやって欲しいのだ。

ヨーロッパでは、花婿は、新居に入るときには花嫁を抱き上げて入るという。そのロマンチックを、自身で味わってみたい。
そう、英二が大石にねだっているのは、「お姫様抱っこ」だ。



話は半年ほど前に遡る。

そのころはまだテニス部のメンバー誰一人欠けることなく、元気に過ごしていた。まだ各大会にも間があって、比較的のんびりすごしていたように思う。だから当時は、今のような毎朝連続の朝練などはなかったのだ。

英二は朝に弱い。

毎朝、母親と姉とが繰り返し起こしに来る。母親の柔らかい声と、姉の少しきつめの声を聞きながらの2度寝、3度寝は、英二の至福の時間だ。
だがその日は事情が違った。前日新発売のゲームをやり込んだ英二は、就寝が日の目を見てからになってしまったのだ。
数時間の睡眠の後に訪れた声は、睡眠の足りない英二にはとてもうるさく聞こえた。

「ほら、英二、起きないと遅刻するわよ!」

姉が響く声で言う。英二はふにゃあ〜っとうめきながら寝返りを打った。

「勘弁してよぉ〜。もうちょっと寝かせてよ〜。」
「何言ってるの! 朝連があるんでしょう!」
「今朝は朝連お休みだから、まだいいんだってば〜。」

ベッドに引き込んだ熊の大五郎に顔を埋めるようにすると、姉は呆れてため息をついた気配だ。そのまま部屋を出て行く。英二は習慣のように大五郎に頬ずりをした。毎晩抱いて寝ているから、顔の辺りがよだれでこべこべになってしまっている。たまには洗濯してやらないと可哀想かも。そんなことを思いながら、きゅっと抱きしめた。大五郎の胴体は、両足を巻きつけるに程よい太さだ。まるで抱っこちゃん人形のように大五郎に絡み付いて、英二はもう一度夢の住人になった。

遠くから姉と母の声が聞こえてくる。

「じゃあお母さん、あたしもうそろそろ行くから。」
「はいはい、お弁当忘れないで。それにしても英二はまだいいのかしらねえ。」
「なに? まだ寝てるの? あいつ!」
「だって朝連がなくていいんだって言うから…。近頃の中学校はのんびりしているのねえ。」
「いいわけないじゃない! あたしはてっきりお母さんが起こしたと…!」

足音が駆け上がってくる。英二はぼんやりと手を伸ばして、枕もとの目覚し時計を手に取った。時刻は8時20分を指している。…8時20分!?

「英二────っ!!」
「うにゃあーっ! なんでもっと早く起こしてくれないんだようっ!」

英二は大五郎を蹴り飛ばすと飛び上がった。8時半には全校朝礼が始まってしまう。<



「うあーっ、やばいやばいやばいっ! もう絶対間に合わないようっ!」

ダッシュしながら叫ぶ。袖を通しただけのワイシャツは、ボタンも全部はまってないし、学ランも腕に引っ掛けただけだ。それでもスポーツバッグだけは忘れない。英二は走りながら、姉と母に渡されたトーストをかじり、牛乳のパックをすすった。

「遅刻すると、部活止められちゃうっ!」

それだけは勘弁だ。大好きなテニスが出来なくなるのはもちろん、大石とくっついていられるチャンスが大きく削られる。そんなの、英二には耐えられない。

飛び起きて洋服を引っ掛けて家を出るまで5分。後5分で、通常20分かけて通っている学校へたどり着かなくてはならない。しかし、そんな朝に限って踏み切りや交差点の赤信号につかまってしまうのだった。

英二は胸が破れそうになるほど走った。途中でパンや牛乳をかっこむから、胸のどきどきするのは尚更だ。そんなにして必死に走ったのに、校庭が見渡せる角を曲がった途端、英二の目に入ったのは、整然と並ぶ生徒たちの列と朝礼台付近に居並ぶ、厳格な顔つきの教師たちだ。

「あちゃ〜…。」

もう校長が朝礼台の上で話をしている。自分の話の酔っているかのように、大きく首が動く。ああなった校長は手がつけられない。何十分でも長い話をぶちかます校長は、生徒たちには酷く不評だった。

「待てよ…。」

英二は校門前に陣取って遅刻者をチェックしようと待ち構えている教師の目を逃れるために、体育館側へこっそり向かった。そこには、英二の跳躍力なら軽く乗り越えられる高さの塀しかない。そこでなんとか遅刻チェックをやり過ごし、朝礼が終わるドサクサにまぎれて教室へ入ってしまえば、遅刻はカウントされないのではないだろうか。いつも出席は朝礼の後にしか取らない。校長がああなってしまったら、朝礼時間が延びるのは必至だから、先生たちも焦ってそんなに厳しく取り締まらないはずだ。

「よしよし、そうしよ〜っと。俺様、あったまいい〜♪」

英二は嬉しそうにくすくす笑いながら上を見上げた。体育館の脇の塀は、彼の頭上30センチの高さしかない。ひょいと飛び上がって両手を掛けると、瞬く間に塀の内側に舞い下りる事ができた。

後はうまく朝礼が終わって校舎に入る生徒たちの列に紛れ込めればいいのである。英二は校門の前に陣取る教師の隙を窺った。いかつい体育教師が立っている。だが、彼はなんの刺激もない立ち番にすっかり飽きた様子だ。ふらふらと落ち着きなく足を踏みかえて、大きくあくびを漏らす。そんな様子を英二が見逃すはずはなかった。小さく背中を丸めると、一息に駆け抜ける。無事、体育教師の隙を突く事ができた。

「さて…と。」

英二は長身を折りたたんで植え込みの影に潜り込んだ。校舎の脇に校庭へと抜ける通路がある。朝礼の後、生徒たちは生徒用の出入り口へ向かうべく、そこを通る。後はこっそりその生徒の波に紛れ込むだけだ。

すっかり安心してしまうと、英二は急に退屈になった。ぎりぎりやっと身体が隠れる程度の小さな茂みだから、動いては目立つと思いつつ、どうしても視線がさまようのを止められない。その位置からは朝礼の様子が一望できた。

校長の話はいよいよ浪曲のように淀みなく、途切れる気配もない。生徒たちは全員が半眼で、退屈を紛わすのに必死なようだ。生徒ばかりではなく、教師たちまでがそわそわしている。話の内容に耳を傾けると、何だか聞いた事もないような故事来歴がとうとうと述べられている。英二はすぐさま耳にふたをした。

目を転じると、教師たちに混じって生徒会役員たちが立っている。もちろん生徒会長である手塚の姿も見える。彼は気真面目につんと顎を上げ、緩く後ろに腕を組んで微動だにしない。きっとこの校庭中で、一番真剣に校長の長ったらしい話を聞いているのは、手塚に違いない。

「まっじめだよにゃあ、ウチの部長は…。およ?」

不意に手塚が姿勢を崩した。何かを険しい顔付きで見つめている。英二はその視線の先を追った。

そこは1年生の列だった。まだ入学して間もない1年生は、英二にはほんの子供に見える。制服より、ランドセルが似合いそうな子ばかりいるように見えるのだ。しかも列の並びは身長順だ。英二から良く見える最前列の1年生たちは、クラスでも選り抜きの小柄な子ばかりで、ますます華奢な印象が強い。

そのうちの少女が一人、真っ青な顔で立っていた。気分でも悪いのだろうか。しきりに額に手をやって、汗を拭う仕草をするし、呼吸も何だか荒い。放っておくと倒れてしまいそうだ。

「うわ、あの子やばっ。だけど今出てくわけにいかにゃいし…、う〜っ、どうしよう…。」

英二は焦ってあたりを見回した。誰か気付いてやらないかと思ったのだ。だが、教師たちも校長の長い話に半催眠状態になってしまっているのか、誰も少女の方に行く気配がない。英二はいよいよ腹を据えて出て行こうとした。この際遅刻をカウントされる事よりも、あの子を何とかする方が先決だ。あのままでは、あのやせ我慢の少女は直行でコンクリートに激突だろう。

だが、その時、英二は世にも珍しい物を見た。
手塚がダッシュしているのだ。

「ひゃ〜、珍しいっ。」

得意のテニスの試合中にでさえ、彼は「手塚ゾーン」なる不精な物を作り上げて、極力動こうとしない。その手塚が全力疾走している。

英二は何だか感動してしまった。感激屋の彼の事だから、いつも割合たやすく感動するのだけれども、今日の感動は本物だ。長い髪をたなびかせて走る手塚の姿は、そのまま野生の猫科の動物を思わせるしなやかさで、英二の目を奪った。

「あ……っと、あの子はっ!」

ぼんやりと手塚に見とれていた英二は、我に返って1年生の方を見た。

件の女の子は額に手を当ててやっと立っていた。落ち着きなくしきりに揺れていた身体がぴたりと止まった。額に押し当てられていた手が、だらんと力なく落ちる。

「ああ…っ!」

上体がぐらりと揺れた。膝が砕けたように折れて、少女は今まさに倒れるところだった。

「危ない…っ!」

英二はスポーツバッグを抱きしめてぎゅっと目をつぶった。コンクリートに激突する額の痛みを思ったのだ。だが、少女が倒れる音も、それに付随する悲鳴も聞こえない。

英二は恐る恐る目を開けた。そこには手塚がいた。
彼は教師側から立って、今にも貧血をおこさんとしている少女をいち早く見つけたのだ。そして珍しく全力疾走し、危うく少女が意識を失う直前に間に合ったらしい。

手塚は腕に、倒れ掛かる少女を抱えていた。何かしきりに話し掛けている様子だが、すっかり昏倒してしまった少女は返事を返さない。英二の位置からも、その少女の蒼白な顔は見て取れた。当分は目を覚まさないのではないか。

手塚はほんの少し身を屈めた。少女の細い足がふわりと地面を離れる。

「ぅわあお〜!」

英二は隠れている事も忘れて身を乗り出した。
振り返った手塚の腕の中に、あの少女が治まっている。
軽々と少女を抱き上げた手塚は、長い前髪を払うように顔を振り上げた。フレームレスの眼鏡がきらりんと光る。

「かっっっっっこいい〜〜〜!!!」

英二の頭上で祝福のラッパが高らかに鳴る。
か弱い少女を抱えて颯爽と立つ手塚は、さながら来臨した王子様に見えた。



「とにかくかぁっこよかったんだあ〜。髪をなびかせて走ってきて、ひょい、だよ、ひょい。もうホント、王子様〜って感じ〜。」

英二のおねだりはその日の部活まで持ち越されていた。しつこく絡んでくる英二の小猫の瞳に、大石は困ったように苦笑する。

「だから何度も言ってるだろう。あの子は1年生の中でも特に小さい子だったから、手塚も抱き上げるなんて真似ができたんだよ。俺にはおまえを抱き上げるだけの腕力も胆力もないよ。」
「そこは気力でなんとかさあ。俺を救うためにさーっと走ってきて、ひょいは無理でもよいしょって抱き上げてよ。王子様みたいにさぁ〜。」
「無理だって。」

そっけない大石の返事に、英二はほっぺたを思い切り膨らませる。

「ちぇーっ、大石のケーチ! そうだよにゃ〜、大体、大石なんか走ってきたって、前髪しかなびかないもんにゃ〜。」
「………悪かったな。」

あんまりな英二の言いように、さすがに温厚な大石も機嫌を損ねたようだ。

コートでは越前と桃城が模擬試合をしている。あぶれた部員たちは、見学と言う形でコートの周りにたむろしているのだった。英二と大石の会話に興味を引かれたように不二が寄ってくる。

「またわがままを言っているのかな、英二は。」
「わがままじゃないよう。大石がさぁ〜。」

英二は味方を得たとばかりに不二にも自分の目撃談をした。不二と手塚の仲がいいのは良く知っているから、手塚のかっこよさに付いては特に念入りに。だが、話の途中から不二の顔色がおかしくなってきた。

「ふーん…、そんな事があったの…。」

英二は思わずあとずさった。笑いながら切れ長の目を開く不二は、何だか迫力がある。

「不二…、なんかこわいにゃ。」
「あ、ああ。」

見ると大石まであとずさっている。不二はゆっくりと微笑んだ。

「そう言えばその頃、手塚は腰が痛いからって言ってたけど…、そんな事に余計な体力を使ってたんだ。僕を差し置いて…。…ふーん。」
「あ、あのう、…不二?」
「………手塚にメールしよう。」

不二は喉元でクックックック…と笑いを漏らすと、すたすたとその場を去っていく。

「ど、どんなメールを送るんだ…。」
大石は疲れたようにため息を吐くと、英二の傍から離れた。1年生たちがコート整備と準備運動を終えて手持ち無沙汰そうに遊んでいた。部長代理の大石はそこへ指導をしに行ったのだ。

「ちぇ〜っ…。」

英二はつまらなくなって唇を尖らせた。そうでなくても生真面目な大石は、部長代理をするようになってからますます忙しくなった。以前みたいにじっくり英二の傍にいてくれる事も少ない。

「俺のささやかなお願い、どうしてきいてくれないかにゃ〜…。」
「そんなにいいものなのかい、それは。」

いきなり脇から乾がにゅっと顔を出した。不意を付かれて、英二は思わず大きく跳びすさる。

「お姫様だっこが所望とか。」
「そ、そうだよ。だってあの時の手塚、とってもかっこよかったんだもん! それに、腕の中の女の子が、何だかとってもかわいく見えて…。」

英二は頬を赤らめた。あれを大石と自分に置き換えると、いつでも頬が火照ってしまう。あんなふうに全身全霊を傾けて守られてみたいのだ。

「きっと好きな人になら、誰だってあんなふうに構ってもらいたいと思うよ!」
「そうなのか? ふうむ…。」

乾はいつも抱えているノートを開いた。

「それをすれば、誰でも喜ぶんだな。?」
「う、うん、多分…。」

英二はちょっと自信がなくなって呟くように言った。現に大石はこんな一瞬ですむ事をちっともかなえてくれようとしない。もしかして、こんな事をして欲しいのは自分だけかもしれない。

だが、乾はもう英二の言う事を聞いている様子はなかった。何か一心に呟き出したのだ。

「当時の手塚の握力…背筋力…傷めていた肩への負荷…、それにその女子の推定体重…、ふむ、俺の背筋力…握力…瞬発力…、海堂の推定体重…ふむふむ。ならば、その場合の上昇角度…ベクトル…反発力………。」

乾の胡散臭い四角い眼鏡の奥で、数え切れないほどの数字が瞬いているように思える。英二には想像も付かない企みごとをしているように思えてこっそりと逃げ出そうとしたとき、乾が手にしていたノートをぱたりと閉じた。

「行ける。」

ふふふふふと喉の奥を震わす。それから何とも無機質な感じにぐるりと英二の方を振り返った。

「喜べ、菊丸。おまえの望みを叶えてやれそうだぞ!」
「ほぇ?」
「だから俺に一枚噛むのだ。」

乾の四角い眼鏡がぎらりと光る。英二は思わず身震いした。
おんなじ眼鏡を光らすのでも、どうしてこう乾と手塚とでは違うのだろう。
だが、断る隙も暇も与えてもらえず、英二は乾に引っ張られてその場を後にせざるを得なかった。



英二が乾に引っ張ってこられたのは、テニス部員たちが壁打ちに愛用している塀だった。
引っ張ってこられたのは英二だけではない。乾はここへ移動する途中に言葉巧みに大石と海堂を連れてきていた。大石は無類のお人好しだから、乾が誘えば簡単に付いてくるのは分かるが、分からないのは海堂だ。

彼はコートの片隅で一人黙々と素振りをしていた。何やら数を数えていたから、自分なりのノルマがあったのだろう。それに、海堂はいつも乾に嫌がらせに近いような構い方をされて、かなり彼を警戒しているはずだ。それなのに、乾に声を掛けられると、二つ返事とは行かないまでも、何だか嫌そうな顔をしつつも抗うことなく付いてくる。英二には海堂が乾をどう思っているのかさっぱり分からない。

「ダブルスの特訓をしようと思う。」

乾は仁王立ちになって言った。世にも楽しそうな笑顔で、何かしら下心のある事は良く分かる。だが、大石も海堂も素直に従うつもりらしい。

「あいにくコートがふさがっているから、スカッシュを取り入れよう。ただ、それでは我々にはレベルが低すぎる。そこでだ。」

乾はまたも不敵に眼鏡を光らせた。

「ボールは複数使おう。様子を見て、俺が適宜ボールを増やす。反射神経を養うのにこれは最適だと思う。まずは二つからだ。」

乾は、いっぱいに広げた指の間に挟んだ二つのボールを示した。大柄な彼の手の中のボールはなんだかこじんまりしていて、いつも使っているボールじゃないみたいだ。
英二には最後の乾の言葉はどうにも付け足しに聞こえてしょうがない。スカッシュでダブルスをするなど聞いた事がない。だが、大石は感心しきりの様子だ。

「素晴らしいぞ、乾。なるほど、コートが使えないからと言って対戦方式をあきらめることはないんだな!」

本当にお人好しなんだから。英二はこっそりため息を吐く。だが、落胆しているのは英二ばかりで、海堂さえシューシュー息を吐いて喜んでいる。とにかく彼らはボールさえ追っかけられればなんでも嬉しいのだ。そう悟るのに時間は掛からなかった。

乾が英二に近づいてくる。さりげなく身体を屈めたのを見て、英二はちょっと緊張した。

「おまえと海堂は内側だ。」

ひそひそと呟く。

「ここまでおぜん立てしてやったんだからな。うまくやれよ。」

何をうまくやれと言うのだろう。英二は躊躇いつつラケットを構えた。
乾が高い位置からサーブを打つ。同時に、大石もきれいなフォームでラケットを振った。
両方向から放たれたサーブは、きれいに壁に向かって直進すると、おたがいの陣地へと跳ね返った。大石の手によるサーブはセオリーどおり後衛の乾の位置まで飛んでいくが、乾のサーブは浅く跳ねて英二の守備範囲に来る。

(………もしかして…)

英二は確実に捕球しながら思った。

(内側って、こーゆー意味?)

息を付く暇もなく、次のボールが迫っている。英二は横っ飛びにキャッチした。乾の放つボールは二組の間隙をねらって飛んでくる。いつのまにかボールはすでに四つに増やされている。もうどのボールがどっちの守備範囲にあるのかさっぱり分からない。英二は初めて乾の企みを理解した。

(ええい…、ままよ!)

いつも冷静な大石も、ボールを追っかけるのに夢中で、不自然に中央に寄るボールに気付かないらしい。それは海堂も同様だった。いつもどおりの大きいスイングでボールを追っていた彼は、中央部分に跳ね返ってきたボールに襲い掛かるように駆け寄った。英二は思わずぎゅっと目をつぶった。自分もそのボールを追ってジャンプしたところだったからだ。

ガツンッと硬い音がして、目の前に火花が散った。

「ぎゃ!」
「うおっ!」

握り締めていたラケットが吹っ飛んだ。海堂の背後から彼に突っ込んだ英二は、そのまま勢い余って地べたへダイブした。だが、思ったほどには痛くない。よく見ると英二は、海堂をなぎ倒してそのまま下敷きにしてしまっていた。

「だっ、大丈夫かっ!」

大石が慌てて飛んでくる。同様に飛んでくる乾は、なんとも満足げなしたり顔だ。

「うにゃ…、あいたたたた…。」
「き、菊丸…先輩。早く降り…。」
「あ、ごめんごめん。」
「動くんじゃない!」

突然、乾の大声が響いた。英二は驚いて海堂の上に座り込んだまま彼を見上げた。その乾の満足そうな顔を見た瞬間、英二は自分たちがまんまとだしにされた事が分かった。

「頭でも打っていたらどうする。なるべく動かさないようにして保健室へ運ぶんだ!」
「だ…大丈夫っすよ、このくらい…。」
「いかん!」

乾は英二を乱暴に海堂の上から蹴り落とすと、簡単に海堂をひっくり返した。大石は慌てて英二の傍に駆け寄ってきたが、ぽかんとした顔で乾と海堂を見比べるばかりだ。

「ほら見ろ! 膝から血が! これは安静に慎重に運ばないといかん! 大石、おまえもだ。菊丸の事はおまえが責任を持って運んでやれ!」
「え…、運ぶって、一体…。」
「無論!」

乾はさも得意げに眼鏡を押し上げた。

「お姫様抱っこでだ!」
「はああ?」

大石の当惑の声もすっかり無視して、乾は地面に膝を突いた。ぼーっとしている海堂の脇と膝の下に腕を入れる。にやけていた顔が引き締まると、二の腕がめきめきと筋肉を盛り上がらせた。

「ぬおおおおおお───っ!!」

気合一発、海堂の身体がふわりと浮いた。乾の顔は真っ赤になっている。やはり細身とは言え、同年代の男子を抱き上げるには無理があるのだ。だが、乾はそんな顔でも嬉しそうににたりと笑った。いったん膝だめにして、海堂の身体を抱え直す。ここから重量上げの要領で、一気に胸元まで抱え上げるつもりだろう。

だが、乾の予想外の事が起こった。

「な…、じょ、冗談じゃねえっ!」

呆然としてされるままになっていた海堂が突然我に返ったのだ。彼は乾の腕の中で思い切り身体を捩った。ちょうど乾が海堂の身体を投げ上げるように引き上げようとしていたところだった。乾のバランスがぐらりと崩れる。

「こっ、こらっ、海堂…っ!」
「おわーっ!」

ビッタンと、何かが潰れるような音がした。大石と英二は目を丸くして、口をぱくぱく喘がせた。

海堂が暴れたのは、乾の力が一番発散されていた、高い位置でのことだった。海堂の暴れるエネルギーは、乾の頭上へと向かって放たれてしまったのだ。それによって乾はちょうど頭上越しに海堂を投げ落としそうになった。慌てて変に力を入れたので、結局乾は海堂を抱えたまま後方へ転倒してしまったのである。海堂の抵抗は続いていたため、乾の努力にも関わらず、結局海堂は乾の腕を零れ出て、自分から地面に顔面激突してしまったのだった。

「にゃ…、お、おーばーへっどどろっぷ…。」
「だから無理だって……………! だ、大丈夫か、海堂!」

2メートル近い高さから投げ落とされた海堂は、ぴくぴく手足を震わせて返事もできない。

仰向けに倒れたままの乾がずれた眼鏡を押し上げて腕を組んだ。

「う〜む、海堂の体重が俺の理想より多かったのと、暴れる事があるのを失念していたのが敗因だったな…。」

英二はごっくんとつばを飲み込んだ。地面にべったり張り付いたまま、白目を剥いている海堂にほんの少し同情する。そして、自分の想い人が大石で良かったと、つくづく胸をなで下ろすのだった。  



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