薫ちゃんの災難夕方から冷たい雨が降り出して、今日の部活は中止になった。 更衣室に全員が駆け込む。いつもは各自が決められた練習をこなすまで終わらないので、こんなに更衣室が混むことはない。 俺は小声で悪態を吐きながら着替えていた。隣の桃城は煩いし、部長は所構わずデオドラントスプレーをかけまくるし、越前はチビの癖に態度ばかりがでかい。俺は混みあった更衣室は大嫌いだ。狭いから、バンダナを畳む時も手が十分に伸ばせなくて、端と端が合いやしない。 練習量が足りないから、みんな力が有り余っているのだろう。いつもより、おしゃべりの音量も格段に大きい。 「昨日、親父のシェービングフォームぶちまけちゃってさあ…。」 「隣のクラスの村田が、今度ぶちょーに告るとかって…。」 「期末の日本史のテスト範囲、まじ広くねー?」 取り留めの無い話の断片ばかりを聞かされていらいらする。俺は学ランのカラーのホックをきっちり止めた。桃城みたいに着崩すのは、どうにも俺の美意識が許せない。そのとき、なんだか妙に頓狂な声が響いた。 「なんだ、越前、おまえオバQを知らんのか。」 「はあ、なんすか、オバキューって。」 「オバケのQ太郎だ。有名だろうが。」 声の先には珍しく油断しきった顔の手塚部長と、越前がいる。身長差の激しい二人の会話は、なんだか見ていておかしい。 「ほら、手塚。越前は帰国子女だから。」 河村先輩が、慌ててフォローを入れる。だが、実の所、俺にもオバキューの何たるかは分からないのだ。俺は幾分の興味を向けて二人の会話を見守った。 「有名な漫画だ。アニメにもなっている…。だいぶ前だから、知らないか。」 部長は真剣な顔になった。なんでこんなにむきになっているのだろう。もしかして部長は密かにオタクだったりするのだろうか。 「そうだ、少し前に、ハマダなんとか言う女が、歌を歌っていただろう。振りつきで。」 言うと部長は、両手を軽く握り、それを二つ胸の前に並べて肘を張り、その肘を右、左、右、右、と振ってみせた。 「キュッキュキュッ!キュキュキュQ太郎はね〜。」 驚いた事に歌付だ。 俺は思わず着替えの手を止めて部長を凝視していた。部長と越前との会話を聞いていたのは俺だけではなかったらしい。さっきまであんなに人いきれのしていた部室の空気が一瞬にして冷えて、視線が部長に向かって集中した。 「見た事もないっす。そんなの。」 越前の返事はにべもない。 「ぶ、部長…。」 桃城が、声と頬をひくつかせた。大爆笑を必死に堪えているようだ。 みんなの視線を一身に浴びて、部長が固まった。みるみる顔が赤くなる。まだ両腕は肘を張ったポーズのままだ。 「お、大石…。」 ぎくしゃくと振り向いた部長は、縋るような目を大石先輩に向けた。 「お前は知ってるよな、な。」 「い、いや、あいにく、僕もよくは…。」 大石先輩は慌てて両手を振ると、じりじりとあとずさった。その様子は俺に、小学校の頃はやった、えんがちょ≠思い起こさせる。 「あ〜、それ、俺知ってるぅ〜。」 間延びした声で、菊丸先輩が叫ぶ。半ばまで腕を通したシャツの袖を中途半端にぶらぶらさせて、猫めいた瞳をニッと細めた。部長が明らかにほっとした表情になる。 「そ、そうだろう、お前も知ってるだろう、英二。」 「うん、俺の遠縁のおじさんがオタクでさ、そういうの得意にゃんだよね〜。」 「おじ…。」 綻びかけた部長の顔が一転する。不二先輩が止めを刺した。 「手塚って本当はさあ、俺たちとじゃなくてそのおじさんとタメなんじゃないの?」 声がとげとげしい。部長が完全に硬直した。不二先輩は、きっと部長が越前を構い倒しているのが気に入らなかったのだ。その証拠に、返す刀で越前を睨み付ける。だけど越前はどこ吹く風だ。元凶ともいえる菊丸先輩は、やっとシャツに袖を通して、のんきそうにニャハハハと笑った。 「オバQってのはさあ、こんなの。口がでかくて、毛が三本しか生えてないの。」 菊丸先輩は、人差し指で大きく空に絵を書いた。下の開放された楕円形みたいな形で、口はなるほど、その楕円の真中ほどの位置に、楕円を完全に分割するくらい幅広い。 「唇分厚くってさ、ものすごい大食漢なんだよ〜。」 「大食漢って、お化けなんだろう?」 「そうそう、お化けなのに、いつもどんぶりめし30杯とか食べるの!」 大石先輩が乗ってきたので、菊丸先輩はすこぶる嬉しそうだ。本当にあの二人はいつ見ても呼吸がぴったりだ。 「よっぽど死んだとき、おなかが減ってたんじゃないのかにゃ。それにさ、お化けなのに彼女とか、弟とかいるんだよ〜。弟は『バケラッタ』しか言わないし、アメリカお化けとは仲が悪いんだよ〜。あれってきっと、戦時中のおばけなんじゃにゃいのかな〜。」 「じゃ、それ、戦災孤児かなんか? 悲惨なお話じゃない。」 不二先輩が、ほんの少し冷ややかに言う。俺は、この間テレビで見たアニメ映画を思い出した。 オバキューとか言うやつらは、あのアニメと同年代に生きてきたのかもしれない。 親が亡くなってしまって、たった二人で取り残された兄弟。食べ物が無くていつもお腹がすいている。まだ幼くて言葉もろくに喋れない弟は、あのアニメの妹と同じように、飴の変わりにおはじきをしゃぶって飢えをしのいだかもしれない。 電気もつけられない薄暗い部屋で、兄弟は肩を寄せ合って生きてきたのだろう。毎夜低く飛ぶ飛行機の音に怯え、その日一日の食料を手にすることだけを考え、帰らない両親を思い、そうしてきっと必死に生き抜いてきたのだ。あるいは、米兵に追いまわされて、逃げ惑う日々を過ごしてきたのかもしれない。そして、幼い兄弟だけでは、きっと厳しい食糧難を生き抜くことはできなかったのだろう。二人は失意のままに命を削り取られていく。 アニメのように、幼くて体力の少ない弟から儚くなった筈だ。兄は、次に生まれてくるときには、たらふく食べられることだけを念じて、弟の後を追ったに違いない。だからお化けとなってしまっても、どんぶりめしを30杯も食うのかもしれない。 「お、おい、海堂…、なに泣いてんだよ。」 ためらいがちに誰かが俺に声を掛ける。俺ははっと我に帰った。 しまった! ここは我が家じゃなかった! 俺は慌てて学ランの袖で顔を拭った。涙と一緒に鼻水も垂れてしまっている。俺の家では、親父も俺も弟も、テレビのガキものと動物ものにめちゃくちゃ弱い。いつも3人でほろほろ涙をこぼす。そんな俺たちを母さんがうっとり眺めていて、それが異常な光景だと悟ったのはつい最近だった。 やばいやばい! 俺は更に涙を拭う。だけど一旦決壊してしまった涙腺は、簡単に落ち着きやしない。慌てれば慌てるほど、唇が震えて目頭が熱くなる。喉までひくひく言い始めた。こうなったらもう、愛用の枕に顔を埋めて泣きじゃくるまで治まらないのを、誰あろう俺自身が一番よく知っている。俺は慌てて鞄を引っつかんだ。 「お、俺…、お先っす。」 泣きながら逃げていく図だが、その場で泣き崩れるよりはマシだろう。 俺はえぐえぐ言いながら、更衣室を飛び出した。 「ま、まむし…。」 桃城は虚しく手を伸ばした。ケンカ友だちの突然の変容に、どうしていいやら戸惑っているらしい。 「ふっ、可愛い奴。」 乾が、納得したように顎を擦る。懐から閻魔帳を取り出して、なにやら書き付けた。 「あいつ…、学ランは着てたけど…、下はランパンだったよな…。」 「あーあ、風邪ひかなきゃいいけどにゃ〜。」 「いいんじゃないすか。海堂先輩、いつも足丸出しじゃないっすか。」 「面白いから、いいんじゃないかな。」 不二が、さもつまらなそうに言い放つ。薫が注目を集めたことが面白くないらしい。 「ふふふ…。何か泣ける映画はやっていなかったかな。」 一人上機嫌の乾が、その辺に落ちていた映画情報誌をめくった。 「海堂を泣ける映画にでも誘えば…。陥ちる可能性120%…。」 薫の災難は始まったばかりだ。 |