涼しい夏のすごし方




陽射しが強くなると、コートの表面がきらきらする。

子供の頃はそれが不思議で、指で擦ってみたりもした。だが何もついてくる事はなく、それでも依然、コートはきらきらしたままだ。

論理的に考えれば、きっとコートに塗布されているものの成分が光るのだろう。だが、その結論はなんだか俺を納得させられず、俺はコートがきらきらするのは夏のせいだと思うようにした。俺たちの汗と涙の染み込んだコートが、夏の強い陽射しを浴びて、呼応するようにきらきら輝くのだと。

何かのついでに不二にその話をした事がある。不二はいつもの、不機嫌なのか上機嫌なのか分からない笑顔で、「手塚ってば意外とロマンチストなんだ。」と呟いた。

だが俺は、断じてロマンチストなのではない。きらきら輝くコートは、俺たちを嘲笑っているように見える。ほらここは、目玉焼きが作れるぐらい熱いぞ。この上で汗水たらして走り回れ。上からも下からもこんがり炙られてぜいぜい喘げ。蒸れきったシューズの中で豆を潰せ。そうしてまた、汗と涙を染み込ませろ。その分だけ、俺はまたきらきら輝ける。ついでにお前らも輝かせてやるぞ。そう言っている気がする。

とにかく俺は、夏が苦手だ。



建て付けの悪い引き戸を開けると、さあっと涼風が吹き抜けた。全館冷房の行き届いた我が青学の中でも、特にこのクラブハウスの職員用控え室は涼しい。竜崎先生が、なぜかジャージにこだわりを持っていて、真夏でも分厚いジャージを脱ぐ事がないからだ。
それは伝統となり、テニス部員の中にも浸透している。我ながらよく辛抱すると思うが、特にレギュラー陣は、あのジャージを手放したがらない。海堂などは、短パンで腿までむき出しでも構わないのに、なぜか上半身だけはきっちりジャージを着込む。鼻の頭にびっしり汗をかいているから、暑くないはずはないのに。それを見ると、やけに乾が心配して狼狽する。顔には出さないが、やたら眼鏡を押し上げるのですぐ分かる。やはり夏は涼しい所へ避暑に逃げ込む方がいい。

「竜崎先生、今年の夏合宿の件ですが。」
「ん? ああ、そうか。もうそんな時期だねえ。」

竜崎先生は、ポニーテイルをばさばさ揺すって顔を顰めた。

「去年のペンションは…やはりもう難しいでしょうか。」
「うーん、先方もかなり腹を立てていたようだしねえ。まったく…。」

去年まで、我がテニス部の夏合宿といえば、定宿がちゃんとあった。チャーターしたバスで2時間ほどの高原の、瀟洒なペンションがそれだった。
オーナーがテニス好きという事で、規模の割には立派なテニスコートが4面もあるそのペンションを、例年なら借り切って1週間を過ごす。ただ、今年は事情が変わった。去年の合宿の時、調子に乗った2年生の一部が他の部員たちをそそのかして、飲酒の上ロビー中に水を撒くという悪ふざけをしでかしたのだ。噂によると、実際の首謀者は英二と桃らしいのだが。
応接セットはもちろん、壁に掛かっていた高価な絵画などもその被害を免れる事はできなかった。俺はなぜか引率者と間違われ、オーナー直々にこっぴどく怒られる羽目になった。どうせ怒られるなら、一緒に参加するんだったと思ったが、そんな事は間違っても口にはできない。手塚家の長男たるもの、道理に悖る事をなしてはならないのだ。

すっかり難しい顔になってしまった竜崎先生を見て、俺はちょっとがっかりした。だが、成長著しい下級生たちのためにも夏合宿を諦めるわけには行かない。俺はおそるおそる口に出した。

「あのう、…不二が、心当たりがあるそうなんですが。」
「ん?」

先生の目がきらんと輝く。やっぱりまるで当てはなかったらしい。俺は内心でため息をつきつつ、度胸を決めた。

「不二が、テニスができて大所帯が泊まれる宿に心当たりがあるそうなんです。今年はそこを頼ってはどうでしょう。」
「そうかい。それは有り難いねえ。」

先生は、寄りかかっていた椅子から背中を上げた。ギシッと音を立てて伸びた背もたれは、難題から開放された先生の心情を表しているようだ。

不二に頼ると俺にはろくな事はない。俺はため息をついた。



コートに降りていくと、各々がトレーニングをしている。だが、どうにも暑いのだろう。走り方一つをとっても、だらだらとだらしない。

「やあ、手塚。合宿先は決まった?」

不二が素振りを止めて近付いてきた。額には汗を浮かべているものの、この男の顔はいつ見ても涼しげだ。

「ああ。お前の推薦の世話になる。」
「あ、本当に行くんだ。あそこ。」

この一言で、俺は不安になる。

「…テニスができて、涼しくて、部員全員が泊まれる所だ。間違いないんだな。」
「うーん、その条件には外れてないと思うよ。ただ、快適かどうかは別だけど。」

不二の手の中で、ラケットがくるくる回る。なんだか嵌められたような気分になるのはなぜだろう。

「不二…、信頼していいんだな。」
「あれっ、この僕が君の期待を裏切った事ある?」

不二は更に目を細めた。

「僕は君のためにならない事なんか、何一つしないよ。」

それが不安の元なんだ。俺は不機嫌に眉を顰めた。余裕の笑みをかます不二と目が合うと、なぜかどぎまぎして慌てて目を逸らしてしまう。だらだら柔軟をする2年生に、八つ当たりのように校庭20周を言い渡した。



「おー、すっげー。」

桃がこれ見よがしに、目の上に手で庇を作る。大柄な彼がそうすると、本当にすごい物が目の前にある実感が湧く。俺は手にしていたスポーツバッグが地面の上で重い音を立てるのをぼんやりと聞いていた。慌てたり、情けない表情は表れてはいないはずだ。長年の努力が、俺の表情をいつもの冷静なままに保たせているだろう。だが、俺の内心は動揺しまくりだ。

「不二…、ここが、お前のお勧めのコートか…。」
「お勧めじゃなくて、知っているんだってば。大所帯が泊まれて、テニスができて、格安。」

格安。俺の耳にはそれは入っていなかった。確かに格安だろう。俺たちの目の前にあるのは、今時珍しい、平屋建ての木造の、小学校の校舎だ。廃校となって何年も経つという言葉どおり、あちこちの窓ガラスは割れ、カーテンは簾のように千切れ、ここからでも内部の埃が見渡せる。

「ちゃあんとコートだってあるよ。4面も。」

広いだけが取り柄のような荒れた校庭に、薄らとした石灰の跡が、確かにコートの形を作っている。だが、地面はでこぼこ、あまつさえ石ころだらけ。一番端の一面など、斜面に描かれている。いかにも、失敗した町おこしの典型のようだ。よろりと足元がくじけた。仮にも全国区の我が青学が、こんな頼りないコートと宿泊施設で夏合宿とは。

「ご希望どおりでしょ。涼しくって。」

確かに涼しい。ここは標高がかなり高い。竜崎先生がとっとと逃げ込んだ町の民宿には、山を下らないとたどり着けない。ここは山の天辺の学校なのだ。

「しかし、…こんな施設…、部員たちに何と言って…。」
「…cool!」

脇の下辺りから声がした。日本語で表記するなら、「くーる」というよりは「こーう」と書く方がぴったり来るような滑らかな発音。越前が、そのでかい目を見開いて、今にも崩れ落ちそうな校舎に見入っている。俺は一瞬感心した。越前のやつ、コート以外でもこんなキラキラした目をできるんじゃないか。

「気に入ってくれたみたいだね、越前。」
「…うぃっす。」

俺の横合いから顔を突き出した不二に言われて、越前は慌てて帽子のつばを深く傾ける。思わず英語を口走った事を、照れているようだ。

越前は綺麗な日本語を喋る。人生の大半を英語圏で過ごしてきた帰国子女の割には、越前が英語を零すのを聞いた事がない。おそらくは何がしかの信念に基づいて努力しているのだろう。その彼が英語を漏らす。そうとうこのおんぼろ小学校が気に入ったようだ。

見渡すと、なんとも嬉しそうな顔をしているのは越前だけではない。部員全員が、悪戯盛りの仔猫のように、もじもじと待ちきれなげに体を揺らしている。中にはもう内部に踏み入って、探検をやらかしている奴もいるようだ。落ち着いている事では俺に人後を取らない大石でさえも、さも楽しそうに顎に手など当てて、何か呟きつつ微笑んでいる。
これはもうだめだ。俺はそっとため息をついた。こんな設備ではトレーニングも望めない。キャンセルして引き返そうと思っていたが、連中が素直に言う事を聞くとは思えない。どうも自分でも忘れがちではあるが、俺たちは実はわんぱく盛りの中学生のなのだった。こんな猫にかつぶしみたいないたずらし甲斐のある場所を提供されて、素直に引っ込むわけがない。

「大丈夫だよ。筋トレはできるんだし、コートだって使えない事ないし。」

俺の心のうちを見透かしたように、不二が言う。

「それに皆がこんなに喜んじゃってるんだもん。今更引き返せないって。」

…それが分かっているから、こんなに沈んでいるんじゃないか。
俺は満面の笑みの不二を、とりあえず睨み付けてみた。



その日は一日コート整備で終わった。まったくした事のないコート整備だ。石ころを取り、雑草を取り、ラインを引き直す。それでも地面のでこぼこまでは手が回らない。明日からの練習試合は、さぞイレギュラーに悩まされる事だろう。部員たちは半日で浅黒くなった。この校庭は日当たりが良すぎる。

日が落ちると急速に涼しくなった。風呂に入るためには、竜崎先生のいる山の麓まで降りなければならない。道は整備されているから、片道1時間ほど歩けば行けるが、部員たちはみんな面倒くさがって、校舎の裏手の井戸に殺到した。
真水のままで行水をして、ひゃあひゃあ叫んで喜んでいる。俺もしぶしぶそれにしたがった。浴用の盥もないのに行水などしたくもないのだが、俺がここを離れて麓まで降りてしまったら、この野放図の群れを誰が管理するというのだ。
いくら無人の旧校舎とはいっても、抑制役がいなくては、ここは酷い事になる。それにしても、連中は菓子類だけで良く空腹を癒せる物だ。俺は白米がないと食事をした気になれないぞ。

「これで…どこに寝るんだ。」

俺は仏頂面で聞いた。ここはかろうじて電気が通っているものの、他には何の設備もない。日が落ちてしまえば、あとは寝るしか能がない。

「お勧めは、体育倉庫のマットかな。校長室のソファーは大きな穴が開いてたし、でも君がいいんなら、家庭科室の裁断用の大きな机なんかも、味があっていいかも。」

不二はあくまで楽しそうだ。寝るだけなのに味があっていいとはどんな意味だか。それにしてもこいつらは、埃のうずたかく積もった体育マットの上で雑魚寝をするつもりなのだろうか。

そう思っている側から、1年坊主3人組が、丸めたマットを抱えてよろよろしながら入ってきた。後ろに付いて、1年坊主にはっぱを掛けている桃は、あきれる事に大きなマットを楽々一人で小脇に抱えている。俺が制止も号令も掛けるまでもなく、教室二つにマットが敷き詰められた。部屋割りは、暗黙の了解とでも言うべきか、レギュラー陣と1年坊主3人組で一部屋。その他大勢でもう一部屋だ。

「ムーンサルト!」

突然英二が叫んで、宙返りをする。ばふんっと、いきおいよくマットに着地した。もうもうと埃が舞いあがる。あちこちで悲鳴が上がり、慌てて窓が開かれた。むせ返る咳の合間にも、どこかたがが外れたような笑い声は途切れない。俺は静かに眼鏡を外した。埃でレンズが真っ白になり、視界が遮られてしまったのだ。

「…耐えられん。」

俺はこめかみをひくひく震わせつつ、レンズを神経質に拭いた。粉雪みたいに埃の舞いあがった室内では、レンズは拭いても拭いてもなんとなく白い。

「大車輪―!!」
「ひゃああっっ!」

ひときわ大音響が飛んだ。桃の奴が、1年坊主3人組と越前まで一緒くたにからげて、マットの上にダイブしたのだ。埃が飛び、地響きがし、窓ガラスまでびりびり鳴った。

「…いいかげんにしろっ、お前たちっ!」

思わず叫んでしまう。いかに手塚家の次期当主と言えども、こんな乱痴気騒ぎには平静でいられない。

「今から麓まで下りるぞ! こんなところで1週間も泊まり込みなんでまっぴらだっ! こんな…、畳も米のご飯もない所…。」
「あーあ、桃、部長泣かせちゃだめだよ。」

不二が面白そうに言う。泣いてなんかいないぞ! 目に埃が入っただけだ!

「まあまあ、手塚、今日はもう遅いし、今から下山は反って危険だよ。」

大石がやんわりと言う。桃や1年坊主たちは、マットの上に固まって、反省するどころかブーイングの嵐だ。

「もう今日は仕方ない。ここで1泊しよう。下山は明日明るくなってからでいいじゃないか。みんなも…楽しんでいる事だし。」

それが嫌なんだ。喉元まで出掛かった言葉を何とか飲み込む。手塚家の一員としてもテニス部の部長としても、もうこれ以上醜態を晒すわけにはいかない。

隣の部屋でも、まさしく同じ事が繰り広げられているようだ。大声と共に壁がぼこぼこ鳴っている。俺がきりきり眉を吊り上げたのを見て、大石が慌てて隣を牽制しにいく。不二が軽く肩を竦めた。

「楽しいキャンプになると思ったのに。だめだよ、初日から手塚の細やかな神経を逆なでしちゃ。」

お前の神経が図太すぎるんだ。

「しょうがないなあ、じゃあ、最終日まで取っとこうと思ったけど、今晩行くしかないか。」
「へ? 行くって、どこへですかあ、不二先輩。」

堀尾が頓狂な声を上げる。不二はにっこり微笑んだ。

「夏のキャンプと言ったら決まってるでしょ。お・た・の・し・み♪」

なぜか背中に冷たい物が走った。



「うわー、すごい、雰囲気あるにゃあ〜。」
「…こんなの、珍しくもないっすよ。」

不二に案内されて俺たちが連れてこられたのは、校舎の裏手にある墓地だった。すっかり寂れ果てたその墓地は、昼間ならきっとたいした規模ではないのだろう。だが、傘をかぶった月明かりの中では、いやに禍禍しく広大に見える。
半ば引きずられるようにやってきた俺は、せいぜい威厳を保って辺りを見回した。忘れられてずいぶん経つ墓場のようだ。あちこちの卒塔婆や灯篭が倒れて苔むしている。そんな中にぽつんと菊が生けてあったりすると、反ってその鮮やかな黄色が不気味だ。
1年生を始め、なんとなく全員腰が引けている。平気な顔をしているのは不二と越前だけ。越前は自分の家が寺だったな。俺はぼんやり思い出した。別な事を考えていないと顔が引き攣る。今は必死に平常心を保っているが、何かあったらその仮面が外れてしまいそうだ。俺は実はこういう雰囲気もすこぶる苦手だ。

「で…、ここで何をするんだ。」

返事の予想はついたものの、俺は最後の望みをかけて聞いてみた。不二はいつもの笑顔を更に嬉しそうに和ませる。

「決まってるじゃない。夏、キャンプ、夜の墓地といったら、これはもう肝試しっきゃないでしょ。」

…だからなんでそんなに嬉しそうなんだ。

「ええ〜…、こんなところで肝試しですかあ〜…。」

カチローが情けない声を上げる。1年の中でも一番小さくて童顔のカチローは、夜の墓地のうら悲しい雰囲気だけで今にも泣き出しそうだ。俺は平静を装いながら、そうだそうだと心の中でカチローに賛同した。だが不二は、無慈悲にもにっこり頷いただけだった。

「昼間のうちに、僕がちゃんと、この墓地を通り抜けた先のお堂にボールを置いてきたからね。二人一組で取りに行ってきて。あ、それから、ボールにはちゃんと僕のサインが入ってるから、それ以外のものを持ってきても無効だよ。」

不二はポケットからテニスボールを取り出した。眼鏡を掛けた男の顔が書いてある。…もしかしてアレは俺の顔か? 嫌に丸顔な気がするが。

「じゃあ、俺は越前とっ!」

へっぴり腰の桃が、それでもどこか嬉しそうに、やる気のなさそうな越前の肩をがっしり捕まえる。ごく自然にペアが出来上がる。乾が不気味な笑顔を見せながら海堂に近づき、英二は何のためらいもなく大石にぶら下がっている。不二は当然のように俺の隣に張り付いた。出遅れた河村があたふたとあたりを見回している。

「じゃ、じゃあ俺はカツオと…。」
「1年生は3人でワンセット。タカさんは一人で行ってよ。」

不二の決め付けるような声に、河村は太い眉毛をハの字に下げ、悲鳴に近い声を上げた。

「大丈夫、その代わりに君には特別に、これを貸してあげるから。」

不二が取り出したのは、非常用の太い懐中電灯。明かりが漏れるのを最低限に抑えるためにか、光源の周りに黒い紙で庇が作ってある。次に地図を渡されて、河村は思い切り不安な顔になった。

「肝試しには、お化け役もいなくっちゃ。さ、行った行った。」

不二はまったく涼しい顔だ。ドンッと河村の背中を突き飛ばす。河村はつんのめり、恨めしげに背後を振り返った後、とぼとぼと墓地へと消えていった。

「さあ、じゃ、みんなにはこれね。」

どこまでも用意のいい奴。不二はどこからともなく百匁ローソクを出すと、一本ずつ配った。ちらりと腕時計を見る。不二の細い腕には似合わない、ライトも点くごつい時計だ。

「そろそろいいかな。じゃ、まずは1年生から。」
「ええ〜っ!」

三人三様の情けない声を無視し、不二は墓地への道を指し示す。前方に、河村の懐中電灯から漏れた光か、か細い光球がちらついているのが見える。

「あれを目印に行けばすぐだよ。」

楽しそうな不二に逆らえるはずもなく、3人組はおずおずと固まって墓地に足を踏み入れた。巨大なムカデみたいに繋がって、よちよちと草を分けていく。

「後はみんな、分かってるよね。」

なぜか不二の声の調子が変わった。微かにウインクをしたように見えたのは俺の気のせいか?

「野暮天とお邪魔虫はちゃんと処置したんだから。」

…どういう意味だ?

「ふふん、なるほどね。」

乾が、感心したように顎をさする。こっそり乾の側を離れようとしていた海堂の襟首を捕らえて、ぐいっと引き寄せた。

「しかし、これでは間もなく4人とも戻ってきてしまうのではないのかい?」
「大丈夫。準備おさおさ怠りないって。」

不二の奴は妙に古めかしい言い方をした。その言葉の終わりきらないうちに、にわかに墓地の方がざわめいた。

「バーニンッ!!!」
「ぎゃーっ!」

頓狂な悲鳴。あれは堀尾だろうか。俺は呆然と声の方を見やった。

小さな光が忙しく瞬いている。河村に持たせた懐中電灯の光だ。ここからでも上下左右に激しく移動して、持ち主がなにか異常に暴れまわっている姿が伺える。

「タカさんに持たせた地図には、ラケットの置き場所を書いておいたんだ。」

不二がくすくす笑いながら言う。

「タカさんはまじめだから、きっと一晩中でも、1年生たちを指導してくれるよ。」

梢の向こうから声が聞こえてくる。オラオラカモーンだの、燃えるぜバーニンッ!だの言うのは、間違いなく河村の声だ。きゃあきゃあか細い声で逃げ回っている様子なのは、カチローとカツオだろうか。俺はなんだか心配になった。

「お、おい…。」
「なるほど。これで心置きなく、個人レッスンに励めるわけだ。」

なぜかにわかにじたばたしだした海堂を抱きかかえるように押さえつけながら、乾は眼鏡を光らせている。

「個人レッスンじゃないよ。肝試しだもんね〜、大石。」

英二が喉を鳴らすような声で言う。乾と英二は意味ありげに見交わすと、小さく忍び笑いを漏らした。

「じゃっ!」

示し合わせたように片手を上げると、乾は海堂を、英二は大石を引っ張って、それぞれ別の暗がりへ消えていく。見回すと、桃と越前もいつのまにか姿がない。墓地から聞こえてくる喧燥も、蛇行しながら遠ざかっている。

「だ、大丈夫なのか、あれは…。」
「大丈夫大丈夫。タカさんは後輩思いだから。さあ、僕たちも行こう。肝試し。」

不二にぐっと腕を引かれて、ようやく俺は自分の周りを見回す余裕ができた。明日は雨かもしれない。相変わらず輪郭のはっきり見えない月しか出ていない空は、光と言うより闇を投げかけている。不二の手にした百匁ローソクだけが、頼りない足元を照らす光だ。
風が吹いて上空の梢を揺らす。黒々とした影が大きく伸びて、俺の足を掴もうとするかのように纏いつく。俺は思わず不二の肩に擦り寄った。

「…怖いの?」

軽く笑いを含んだ声。かっと頬に血が上る。握り締めていた不二の腕を振り放し、俺は虚勢を張ろうとした。だが、その途端、夜は鳴かないはずの鴉が断末魔のような鳴き声をあげる。続いて大きな羽音。俺はびくっとすくみ上がった。はばたきで顔を叩かれた気がする。
夜は俺たちの周りを濃密に取り巻いて、嘲りながら触手を伸ばしてくる。耳をすますと、暗闇にはたくさんの物音が潜んでいた。人気のない木々の間から枝を踏みしめる足音。意志を持っているかのような葉擦れ。耳元に呼気を吹きかけるような風の音。

俺は降参した。虚勢を張っても始まらない。苦手な物は苦手なのだ。幸い、俺のへっぴり腰を見ているのは不二だけ。部員たちに威厳を示す必要もない。

「…ふ、不二、実は、俺は…。」
「知ってる。苦手なんでしょ。こういうの。だからここを推薦したんだよ。」

不二はさも嬉しそうににっこり笑った。唖然とする俺を尻目に、ぐいぐいと腕を引っ張ってどこかへ導いていく。

「だって手塚、みんなで映画を観に行くって言っても、それがリバイバルの13日の金曜日だって言ったら絶対こなかったし、英二のうちで見たエクソシストだって、見てる間中英単語の暗記なんかしちゃってさ、画面なんか一つも見てなかったじゃない。なんだか脂汗浮かべちゃって。こういうのキライなんだって、すぐ分かったよ。」
「じゃあなんで…。」

大きな声が出てしまった。人に弱点を知られるとは、この手塚国光、一生の不覚。それがこの捕らえどころのない不二と来た日には、最悪中の最悪だ。

「だって、可愛いんだもん。手塚のうろたえる姿。」

くすりと笑う不二に、こんな場面なのにどぎまぎしてしまう。

さあ着いたと、腕を放された。黒々とした校舎が、俺たちの前に立ちふさがっている。結局俺たちは外をぐるりと1周してきたのだ。
不二は迷わず校舎に入り込んだ。今度は俺に見向きもしないでどんどん進む。音がしそうな静寂。こんな人気のない所に取り残されるのはまっぴらだ。俺は慌てて後を追う。二人分の足音が、どんよりと昼間の熱気を残した廊下に響き渡る。何人かに追いかけられているようで、俺は半泣きになる。

不二は行き着いた先で、にっこりと俺を待っていた。俺が部屋に入ると後ろ手に扉を閉める。追い込まれた気がしないでもない。暗がりに目が慣れると、俺は悲鳴を上げそうになった。中空に何人もの陰が浮かんで、俺たちを睨み付けている。俺は一歩も動けなくなった。

「歴代校長の肖像画だよ。」

どうやらここは、校長室らしい。不二が固まりきっている俺の手を取って引っ張る。あっと思ったときにはもう足を払われていた。背中の下に埃臭いソファー。だが、最前不二が言っていたように、大きな穴などどこにもあいてない。

「予防線引いといたから、誰もこなくて良かったね。」

ゆっくりと不二がのしかかってくる。だが俺は彼を払いのける気はしない。この部屋で、校長たちの薄気味悪い肖像画を目にしないでいる事ができるのはただ一つ、このソファーの上だけなのだ。不二の奴、ここまで計算して俺を誘い込んだに違いない。

「さあ、これからが本当の肝試しだよ。」

どんな肝試しだ。だが俺はそれを口に出せない。不二の柔らかい唇が俺のそれを塞いでいるからだ。

不二は十分俺を味わうと、嬉しそうに顔を上げた。濡れた唇が闇の中でも赤く光る。微かに光る銀糸は不二と俺の唾液か? きっと俺の唇にも繋がっているんだろうな。

暗がりにおどおどと怯えていた俺は、少しずついつもの安心感を取り戻していく。目の前にあるのは不二のつかみ所のない笑顔だけで、見慣れたそれが、俺の安定と別の種類の動悸を呼び起こしていく。

「お前って…夏のコートみたいな奴だな。」
「うん?」

不二はさも嬉しそうに小首を傾げた。癪なことに、ちょっと可愛いと思えてしまう。

俺はなんだか急に諦めが付いた。なぜか不二が苦手なわけも不意に分かった。不二の奴は夏のコートと同じだ。俺が困れば困るほど、苦労すれば苦労するほど、きらきら嬉しそうに輝きやがる。そうしてわけの分からない輝きで俺を誘っては、また俺を困らせていく。追っかけても追っかけてもつかみ所のない輝きに、俺はどんどん追い込まれていく。

だけどこれは仕方ない。コートがコートであるように、不二が不二らしくある以上、俺はどこまでも翻弄されていよう。夏でも、冬でも、春でも秋でも、結局俺はそれが大好きで、自ら望んで躍らされているんだもんな。

「僕がコートなら、僕が君の上に乗っているのは不自然じゃない?」
「…そのようだな。」

挑むような目をした不二をぎゅっと抱えて、俺は体を返した。腕の下に組み敷くと、不二はさも満足したように笑った。俺は半分躊躇いながらも、ゆっくりと不二の上に身を伏せる。不二はこんな風にしたかな。そうっと、柔らかい唇に、俺のそれを押し付けてみた。

「…で…。」
「うん?」
「…この先、俺はどうすればいいんだ?」

俺の戸惑いまで計算し尽くしたような顔で、不二はにっこり笑った。



部屋の中が明るくなってくると、そこは思ったより小ぢんまりした部屋だった。夕べ俺をあんなに脅かした肖像画たちも、なんだか間の抜けたおっさんの群れに過ぎない。あのおっさんたちに一晩中見られてたんだな。俺はちょっと狼狽し、慌てて脱ぎ捨てた服を着た。不二がしなやかな背中を反らして伸びをする。俺はその綺麗な肩甲骨にちょっと見とれた後、冷静を装って髪を梳き上げた。

「何とか天気ももちそうだ。今日はみっちり練習だからな。」
「僕今日はパース。腰が痛くて動けないよ。手塚乱暴なんだもん。」

からかうように言って、婉然と不二は笑う。俺は慌てて咳払いをする。

「どうせみんなも同じだよ。だから今日は骨休み。」

ここに来いと言わんばかりに、不二は自分の脇のソファーをぽんぽん叩く。俺は小さくため息を付き、そちらに行きかけてぎょっと足を止めた。窓の外を桃と越前が通っていく。幸い二人ともこちらには気付いていない。だが、会話は筒抜けだ、

「…ったく、あんなとこでするから、やぶ蚊に刺されてぼこぼこっすよ。」
「え〜、そう? 俺そんなに食われなかったけど。やっぱりやらかくてつるつるの方が食いがいがあるんだよ。」
「…ケツなんか並んで二つも食われちゃって。痒くてしょうがないんすからね。」
「俺が掻いてやるから。他の奴には掻かせんなよ。」
「…冗談じゃないっすよ。」

頬を赤らめた越前が、少し俯いて窓の外を通り過ぎていく。俺はやれやれと息を付いた。最年少の越前であれでは、他の奴はどんな事になっているやら。

「しょうがないよ。青春だもんね。」

不二はまだ服も着ずにへらへら笑っている。俺は我が青学のフルネームを思い出してげんなりした。うちは共学なのに、なんでわざわざそんな青春なんだ。

遠くから、竜崎先生の号令が聞こえてくる。

だが、それに答える声は酷く小さい。

どうも今年の夏合宿は、我々のテニスの上達は望めないらしい。 



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