バレンタインデーきっす♪




「手塚センパイ!」

甲高い声に呼び止められて、国光は足を止めた。振り向くと見たことのない女子生徒が二人。あのリボンの色は2年生だろうか。頬を染め、猫の子がじゃれあうようにお互いの体を摺り寄せてくすくすと笑っている。

「…なにか。」
「あっ、あのっ。」

不意におかっぱ方が真顔になった。僅かに頬を引きつらせ、目をぎゅっと瞑る。

「これっ、受け取ってくださいっ!」

目の前にビュッと何かが差し出される。長年テニスをやっている影響だろうか。不意に目の前に何かを出されると、反射的に手が出てしまう。国光は自分の手の中にわたった小さな箱を呆然と見た。赤いリボンの花がつけられた綺麗な小箱。これは…。

「キャーーーーッッッ!!」

女子生徒が張り裂けんばかりの声を上げる。国光は思わず箱を取り落としそうになった。瞬時にいくつもの思考が頭の中を駆け巡る。

―一体何事だ。どうして悲鳴をあげる?―
―これはやっぱりアレなのか? なぜ俺に渡すんだ?―
―だいたいこいつら、どこの生徒だ? 俺は名前も知らんぞ。―

だが、混乱している頭の中とは裏腹に、表情は見事に動かない。手塚家の男子たるもの、いついかなるときもうろたえたりするものではないとの家訓が身に染み透っているからだ。

「受け取ってくださったわっ!!!」
「きゃああっ、いやあっ、はずかしいぃぃ〜。」

嬌声を上げ、二人は転がるように走り去っていく。あとには手塚がぽつねんと取り残された。何がはずかしいだ。それはこっちのセリフだ。国光は頭の中でそう呟き、ほんの少し肩を落とした。

今日はバレンタインデーだ。いくら国光が世事に疎いとはいえ、さすがにそれくらいは知っている。テレビでも街中でも、話題はバレンタインデー一色でかまびすしいほどだ。
ほんの数年前まで、国光にとってバレンタインデーは縁遠いイベントだった。小学生の頃から飛びぬけて背も高く、老け顔の彼は、同級生のオツキアイの対象としては人気が薄かった。何しろ同年代に見られないのだ。
遠足に行けば引率者と間違われ、子供対象のイベントに出かければ門前払いを食わされる始末。中でも青学の入学式のとき、きっちり制服を着ているにもかかわらず、父兄席へ案内されたときはショックだった。あれはまったく痛かった。
だが去年あたりから、いわゆるコクる女子生徒が急激に増えて来た。大人びてクールだというのが、“手塚センパイ”のもてる理由だ。国光はなんとも割り切れない思いでいた。自分でも、「手塚国光15歳。青春真っ只中!」とか言うセリフが似合わないのはわかっている。だけど、オトナの男のヒトみたいでステキ♪というのはもはや、誉め言葉ではないと思うのだ。

「………。」

国光はもう一度手の中の箱を見下ろし、今度ははっきりとため息を付いた。国光が口が重いのは寡黙だからではない。これもテニスの影響だろうか。一つのことに対して二手三手先まで考える癖がついている。結果、返事をするタイミングがずれるのだ。やっと返事をする準備ができたとき、すでに会話は次の時点に移ってしまっていて、国光は割り込む隙を失っている。
要するに、思考のほうが早すぎて口がついていけないのだ。皆が額を寄せ集めて考え事をしているようなときには、国光のペースで話ができるので、友人たちからは手塚は何をふっても動揺しないクールな男と認識されているようだ。本当のところ、ボケているといった表現の方がより的確だと言うことは、ごく親しい仲間しか知らない。
そんなことで、また断るタイミングを逸してしまった。今日だけですでに十三個目になる。断るどころか御礼の言葉も、相手の名前も聞いていない。手塚家の男子たるもの、常に紳士であらねばならないのに、なんと言う体たらくか。

「どうしたんだい、手塚。そんなところに突っ立って。」

背中をぽんと叩かれる。振り向くと、不二がにっこり笑って立っている。いや、この男はだいたいがにっこりした顔なのだ。だが、今日の微笑みはなんだか少し怒っているように見える。

「ああ…。」
「あっ、チョコレートだ。うわ、ゴディバだ。きっちり本命チョコだね。」

不二は無遠慮に手塚の手元を覗き込み、僅かに口を尖らせた。



「…という事で、もらってしまったんだ。」

人気のない体育館の裏である。国光は不二に話し掛けながら、神経質に眼鏡を押し上げた。この縁なしフレームの眼鏡も老け顔を増徴させる元になっている。だが、これが一番似合うのだ。
国光とてこっそり最新流行の眼鏡を試さなかったでもない。だが、顔立ちが端整すぎるためか、みんなが掛けているようなチャライ眼鏡はそこだけ浮き上がったようになってしまい、どうしてもしっくりこなかった。

「いいんじゃない。もらっとけば。」

不二は楽しそうに言う。そのわりにはラケットを持つ手がいらいらと小刻みに揺れている。

「女の子たちは、あげるだけで満足なんだから。中にはお返しを期待している子もいるだろうけど、そんなのはごく少数派じゃないの。」
「…そんなわけには行かない。借りは作らないのが俺の信条だ。…今月は節約しないと。」
「何で?」
「…決まってる。収入は限られているからだ。」

こう見えても国光はまだ中学生。月々の小遣いは5千円と決められている。手塚家では子供のしつけにも厳しく、学生には無用に多額の小遣いは与えられない。もちろんしっかり者の彼のことだから、銀行にはそれなりの預金もある。だが、お年玉やらお駄賃やらを細々と貯めたそれをそんなことで崩すのは、どうにも気が引ける。

「それにしても、問題はそんなことではない。」
「何が問題なのさ。」
「…大半の子が、俺の知らない子だと言うことだ。お返しをしようにも、どこの誰だかわからない。」
「だから、いいんじゃないの、そんなのは。…あ、でも、これはカードがついてるよ。」

不二は、国光の断る隙も与えずに、件のゴディバの箱についていた小さなカードを抜き取った。戸惑い顔を見せる国光をちらりと横目で見て、悠々とカードを開く。

「なになに。…2年3組、大石ひとみ、よろしく。…まるで暴走族だね。」

不二はいつもの微笑みにほんの少し意地悪そうな表情を加え、人差し指と中指の間にはさんだカードをひらひらと振った。

「この子はお返しが欲しい口だね。だけどきっと、君がにっこり笑ってありがとうって言えば、それだけで昇天しちゃうタイプだよ。わざわざカードまで入れて、好きだの一言も書けないんだもんね。」
「にっこり笑ってありがとう…?」
「すんごく、手塚のキャラじゃないよね。」

不二はさも楽しそうにあははと声を上げる。国光はますます思案がおになった。

「…お返しとは、そんな事でいいのか? 仮にもこれは、その、お、想いを打ち明けた物ではないのか?」
「んもう、真面目なんだから、手塚は。こんなの単なるイベントだよ。それで何とかなればラッキーってだけの。」

その生真面目さがいいんだけどねと、国光には聞こえないように呟いて、不二は彼を振り返った。

「ずいぶんお返しにこだわってるみたいだけど、やっぱり自分から誰かにプレゼントした場合も、お返しは欲しいんだ。」
「…欲しいというか、自分の誠意の伝わった証拠は見たいな。」
「バレンタインデーのチョコに、誠意なんかこもってないって。」

不二は手にしていたカードを国光の襟元に押し込んだ。その空いた手で、今度はチョコの箱を取り上げる。

「僕はいつでも君には誠意まんまんだよ。」
「………。」

不二がこのように含みのある言い方をすると、彼の微笑みの形の顔がなにかを企んでいるように見える。彼の真意を計りかねて国光が黙り込むと、不二は手にしたチョコの箱の包装をバリバリと乱暴に毟り取った。

「おい、それは…。」
「君がもらったんだから、もう君のものだよ。」

だからってどうしてお前が開ける。そう言いたいのを国光はぐっとこらえた。手塚家の男子たるもの、些細な事に拘泥してはならないのだ。
それにしても手塚家は家訓が多い。やたら多すぎる。もしかしてこの刷り込まれた家訓が、自分をますます老けさせている一因ではないのか? 国光が自分の世界に突入しようとしていると、目の前にぬっと手が差し出された。

「はい、あーん。」

トリュフとか言う、粉を吹いたようなチョコレートだ。国光は深く考えるでもなく、薄く口を開いた。目の前にいるのは不二だけだという油断がそうさせたのだろう。不二の白い指が、必要以上に口の奥にまでトリュフを押し込む。おまけに口から離れる時に、上顎を撫でていった気がする。国光はぎょっとし、思わずトリュフの粉にむせそうになった。

「ほら、大きい口を開いてくれないから、唇がチョコだらけじゃない。」

ベンチに座っている国光の肩に手を置いて、不二はゆっくりかがみ込んだ。顔がどんどん近付いてくる。背中がベンチの背もたれに行き当たって逃げ場がなくなった。不二は薄く目を開き、国光を目で脅すように見つめると、そうっと上唇を嘗める。続いて下唇。国光は目を白黒させながら固まっていた。柔らかい舌になぶられると、何も逆らえない気分になる。

「僕、君からチョコレートもらうことに決めたから、早くそれ、噛んじゃって。」

それ、と言いながら、不二は国光の顎を指先でつまんだ。やんわりと、だが逆らいようもない決め付ける視線で、国光の顔を上向かせる。いつもは見下ろす立場の不二が、今日はベンチに掛けている国光の上にのしかかるように立っているので、どうしても見上げる格好になる。しかも、不二の膝は巧みに国光の膝を押さえつけていて、立ち上がることも許さないのだった。

「さあ、早く。」

国光はゆっくりと顎を動かした。口の中に放り込まれたトリュフは、国光の体温で溶けかかっていて、甘い唾液がどんどん喉の奥に流れ込んでくるし、不二に文句を言おうにも、口の中が一杯ではいかんともし難い。トリュフはかみつぶした途端に口の中一杯に広がった。国光は少し顔を顰めた。甘い物はあまり好きではない。

「どんな味?」
「…甘い。」

ふがふがと答えると、不二は目を眇める。さっきまでの不満顔が、上機嫌な顔になったなと、国光は思った。

「淡白な返事。もうちょっと説明してよ。」
「…苦い。」
「それだけじゃわからないな。」

少し傾けられた不二の顔が目前に迫ってくる。顎の蝶番を思わぬ力で押さえつけられると、薄く口が開いてしまう。そこに不二はぬるりと舌を這わせてきた。甘いトリュフで一杯の口の中を、不二の舌が這っていく。

「んっ、…んむっ。」

国光は慌てた。これではまるでキスではないか。不二の体を押し戻そうと手を上げると、下唇にチクっと痛みが走る。どうやら噛み付かれたらしい。

「だめだよ、おイタしちゃ。」

いったん顔を上げた不二が、小さく国光を睨む。テニスで真剣勝負に挑むときと同じように両目が開かれている。不二の目は白目が恐いほど白い。ゆで卵の白身みたいな綺麗な白目に光の加減で緑色にも見える茶目が、見つめられると圧力さえ感じさせる。人外の生き物みたいな光を放つ目だ。

「だ、だが…。」
「君の説明がまずいからいけないんだよ。」

不二はふふっと表情を緩めた。笑顔のまま、トリュフをもう一つ取り上げる。

「もっとゆっくり味合わせてよ。」

口元にそれを押し付けられて、仕方なく国光は口を開けた。今度はかみ砕く暇もなく、不二が唇を重ねてくる。不二の柔らかい舌が口の中を掻き回す。舌と舌とを絡められると、国光は背中がわななくのを感じた。それが気持ちいいからだと知って、彼はそんな自分に愕然となった。不二はといえば小憎らしいほどの冷静さで、荒い息をつく国光を見下ろしている。

「このチョコ、全部違う味なんだ。」

3つめのトリュフを手に、にっこりと言う。

「当然、全部味見させてくれるよね。」

有無を言わさぬ口調。また口の中にチョコを押し込まれる。回数が重なるたび、不二のキスが深くなっていくことに国光はぼんやりと気付いた。
キスだけではない。のしかかる体もどんどん傾いてきていて、彼はすっかりベンチの背もたれに体を預け、首をのけぞらせている。不二は片膝をベンチに乗り上げて、国光を全身で押さえつけている。無意識のうちに不二の体を押しのけようとでもしたのだろうか。国光の右手は不二にがっちり握り締められていた。
小柄なくせに、握力が強い。身じろぎしても、逃げ出せそうにない。それにさっきから頭がぼんやりして、思考が定まらない。不二の舌が口の中で蠢くたびに、ぞわぞわとたくさんの触手を持った快感が全身を駆け巡っていて、だんだんからだが蕩けていきそうだ。

「4つめ。これで最後。」

不二は心なし惜しそうにいうと、今度はそれを自分の口に咥えた。かみ砕いてどろどろにした物を国光の口の中に流し入れる。すっかり目を瞑り、されるままになっていた国光が、ビクッと体を跳ね上げた。制服のズボンの上を、不二の手が這っている。一番敏感な所を握り込まれて、国光は小さく首を振った。拒みたいのにどうしても体が言うことをきかない。国光が反応を見せると、不二はからかうようにズボンを探る手を強めた。

「んう…、ん、んっ。」

もう口の中にチョコは殆どない。だが不二は唇を放そうとはせず、それどころかもっと深く深く押し付けてくる。国光はやっと左手を上げて、不二の右腕を掴んだ。だが、拒むどころか、すがり付くように力が入らない。唇とそことが直結しているかのようにドクドクと鼓動を刻む。不二の手に合わせて、どんどん体が昂ぶってくる。
国光は何とか不二の唇から逃れることに成功した。だが、一旦熱くなってしまった体は言うことをきかず、不二の手を払い除けることができない。

「不二…っ、やめ…っ。」

悲鳴のような声を上げてしまうと、不二が満足そうに笑った。きゅっと指先に力が込められる。

「あ…あっ。」

パシャッとパンツの中が熱くなる。同時に不二の手が離れた。国光ははあっと安堵のため息をつき、それからさあっと顔から血の気が引くのを感じた。何たる失態。下半身がびしょびしょに濡れている。これではここから帰れない。いや、立つこともできない。

「うふふ。かわいいね。手塚は。」

俺がかわいい? この俺が? そんな事を最後に言われたのはもうおそらく10年以上も前だろう。いや、問題はそんなことではない。これをどうしてくれるんだ。お前のせいだぞ。

「………。」

国光は力なく不二を睨み付けた。目が涙目になってしまったらしい。不二はまた嬉しそうな顔をする。

「そんなに睨まないでよ。今着替えを持ってきてあげる。ここならめったに人は来ないから大丈夫だって。イイコで待っててね。」

不二はからかうように国光の顎をつまむと、顎から唇の端までを嘗め上げた。どうやら深いキスをはずすために首を振ったとき、そこに唾液が垂れてしまったらしい。不二は尖らせた舌の先でそこをくすぐるように嘗めると、したなめずりをした。

「すぐ戻ってくるけど、とりあえずお礼を言っとこう。バレンタインチョコありがとう。ちゃんとお返しするからね。」

バレンタインチョコだと? 俺が送ったことになったのか? これは強奪ではないか。俺はそんなものあげるなんて一言も言ってないぞ。第一男の俺が、どうして同じ男の不二にバレンタインチョコをあげなきゃならんのだ。国光の頭の中を疑問符が飛び交う。彼にしては珍しく、呆然とした顔がそのままもとに戻らないでいた。

「あ、それから…。」

行きかけて不二が戻ってくる。まだ何かされるのかと、国光は思わず必要以上に体を堅くしてしまう。

「ぼくはね、お礼は倍返しがモットーなんだ。」

不二は慈愛に満ちたと言える表情で国光の顔を覗き込む。

「だからね、ホワイトデー楽しみにしててね♪」

じゃ、と軽く手を振り、不二は楽しそうに駆けていく。取り残された国光は、ますます呆然となる。

「倍返しって…。」

これの倍って一体何なんだ。国光の背中を冷たい風がよぎった。



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