跡隠しの雪にその場面に俺が行き会ったのは、本当に偶然だった。 元帥サマのデスクの上が、普段どんな状態になっているのかを知っている下士官がどのくらいいるだろうか。俺がその数少ない一人である事は間違いない。 何しろ、初めてその部屋に入る奴は、そこがおエライ元帥サマの部屋だとは気付かないかもしれない。そのくらい天蓬の業務用のデスクの上は雑然としている。 広いデスクの両袖に、今にも崩れそうな書籍の山はもちろん、チェスやら将棋やらオセロやらの、ありとあらゆるボードゲームの駒がごっちゃになって散乱している。デスクの端から今にも落ちそうに垂れ下がっているのは、3年も前の予定表だ。 その日、天蓬の手の中にあったのは、珍しく薄っぺらな本だった。大きな挿し絵に大きな文字。天蓬の乱読には慣れている俺にも、その本は異彩を放って見えた。 「なんだあ? その絵は?」 白と茶色で彩色された、詫びしげな挿し絵だ。天界では見た事の無い景色に、俺は目を丸くした。 「雪景色ですよ。下界では、冬には雪というものが降るのです。」 「へえ…。また辛気臭い本を読んでやがるな。」 「これですか? これは『跡隠しの雪』という童話です。」 「童話? 悟空かよ、お前は…。」 呆れ顔の俺に、天蓬は小さく肩を竦めた。 「で。どんな話だって?」 俺が聞くと、なんだか天蓬は躊躇うような顔をした。それでも目で催促すると、重い腰を上げるようにぽつりぽつりと語り出した。 「下界のニホンのお話です。ある貧しい農村に、老夫婦が住んでいました。季節は冬。寒い晩で、そこに旅の僧が凍えきって訪ねてきます。 一晩の宿を乞われた老夫婦は、快くその僧を泊める事にします。ですが貧しい老夫婦の家には、僧に振る舞う食べ物の一つもありません。 隙間風の吹き込むあばら屋で、お腹を空かせた旅の僧は、いよいよ凍えて震えてしまいます。 そこで老人は、こっそり隣の敷地に忍んでいきます。その畑には豊かに実った大根が並んでいます。 老人はそれを1本引き抜いて、家に持ち帰ります。老婆はそれを暖かく煮て、僧に振る舞うのです。僧は、美味しい美味しいと言いながら、その大根を食べました。 夜半になって、雪が降り出します。雪はあっという間に降り積もり、老人の足跡も、1本抜けた大根の跡も、深く深く覆い隠していくのでした。」 「……………それだけ?」 もっと先に続くのかと思った話が、なんとも中途半端な所で途切れた気がして、俺は頓狂な声を上げた。 「そうですよ。いいお話でしょう。」 「……なんだか、よくわかんねえよ。」 本当に分からない。この話の何がそんなに天蓬の琴線に触れるのだろう。俺はたちまち興味を失って、天蓬のデスク周りを見回した。 最近俺がまめに通っているから、以前みたいに綿埃が躍っている事はないが、いつ見てもはらはらさせられる本の山だ。 「いい加減片づけろよ!」 俺は顔を顰めた。どうして天蓬の側に行くと、こう片づけ物をしなくてはならないのか。 「いやあ、埃で死にはしませんって。」 「示しがつかねえだろうが。元帥サマがそんなじゃ。」 「そうらしいですねえ。なんだか秘書がつくらしいんですよう。読書の邪魔になるのにねえ。」 天蓬はそう言って、唇を尖らせた。そんな表情を見ていると、本当にこいつが天界の軍を束ねる元帥サマだとは信じられない気分になる。 「今日これから、その人が来るはずなんです。面倒くさいなあ。フケちゃおうかなあ。」 「よせよせ。余計面倒くさくなるって。」 俺がため息をつきながら諌めると、天蓬は拗ねたような顔をして自分のデスクに着いた。さっきまで抱えていた童話の本を置き、代わりに分厚い戦史の本を引っ張り出す。 「…まあ、望んでなった元帥ですからねえ。面目くらいは立てとかないと。」 「そうそう。」 宥めすかすように返事をし、俺は手元の本を抱え上げた。秘書がつくというのは、俺にとってもなんだか面白くなかった。俺と天蓬との間に割り込まれるような気がするのだ。 天蓬の世話を焼く事が密かな楽しみになっていたのに今更ながら気付いて、俺はなんだか落胆する。大将にまで上り詰めたのに、何で天蓬のパシリがそんなに嬉しいんだ。 控えめなノックの音がする。天蓬はため息を漏らすと、気の抜けた返事をした。 おずおずとドアを開けたのは、小柄な初老の男だった。こいつが秘書らしい。なんだか冴えないじじいだと、俺は半ば呆れて彼を見た。 「お久しぶりです。…元帥閣下。」 媚びるような声だった。頬に薄ら笑いがこびりついている。嫌な顔だと思った。 ゴトンと、天蓬のデスクが鳴った。俺は驚いて天蓬を振り返った。3度の飯より本が好きな天蓬が、手にした本を落とす所など、俺は見た事が無かった。 天蓬の血の気の乏しい頬が、ますます透き通っていく。 「あなたが…、そう、そういう事もありますか…。」 消え入るような声で呟く。俺は運びかけていた本を下ろした。二人の間にただならない空気が漂っている。いつになく狼狽した天蓬は、そのまま倒れそうに見えた。 だが、天蓬は、俺の支えを振り切った。小さな仕種で深呼吸をすると、そのじじいに向かってにっこりと微笑む。俺の見た事の無い笑顔だ。いつもの親しみ安い雰囲気がまるでなく、眩しいばかりの微笑みで誰をも寄せ付けない。 「お久しぶりです。…教授。」 天蓬は立ち上がると、隙一つ無い動作で握手のために手を差し出した。 天蓬が、眩しい白衣を着ている。俺は我が目を疑った。真っ白でどこにも皺一つ無い白衣は、天蓬には酷くそぐわない気がした。 「どうしたんだよ、お前…。」 「何がです?」 きりっと背筋を伸ばした姿も、普段の天蓬には見られないものだ。そうして姿勢を正して書類をいじっていると、天蓬は別人のように神々しくて、俺の手の中からすり抜けていきそうに思えた。 俺は小さく舌を鳴らして辺りを見回した。なんやかやと野暮用が多くてこのところこの部屋から足が遠のいていたが、それにしたって高々1週間の事だ。それなのに、俺が最後に見たときとこの部屋は見事なくらい様変わりしていた。 壁際や床に所狭しと散乱していた書籍類が無いだけで、この部屋の元々の広さに驚かされる。床もピカピカに磨かれ、薄汚れていたカーテンさえ真新しいものに替えられている。 床から天井まで届く書架は今まで通りだが、そこに居並ぶ本達まですべて整頓されている。分類、種類別にきっちり分けられて、サイズさえ揃えられて並べられている本達は、酷く居心地悪そうに見えた。 天蓬の大きなデスクを仰ぎ見るような位置に、今まで無かった小さな事務机が置いてある。そこに、背中を丸めた初老の男が座っていた。件の秘書だ。 俺は彼が成し遂げたであろう大事業を、半ば呆れ、半ば驚嘆しつつ、彼に近付いた。じじいは俺を敵視するような目で眺めている。 俺が元帥サマの部屋にいて、二人の間に立っている事が気に入らないみたいだ。 「よう、じいさん。素直に感心するぜ。ここまでするのは大変だったろ?」 「…なんのことですかな?」 じじいはちらりと上目遣いに俺を睨んで言った。手にしているのは、天蓬のスケジュール表らしい。 俺は彼のデスクに手をついた。デスク袖の引き出しが開けっ放しになっている。部屋をここまで綺麗にした割には、あまり整然としていない引き出しだ。 「…この部屋だよ。ここまで綺麗にするのはだいぶ骨が折れたろ。何しろ、天蓬のやつは不精だから。」 じじいは軽く眉を潜めた。俺が天蓬を心安く呼ぶのに苛立ったように、硬い音を立ててデスクの上で書類の束を揃える。 「私が赴任してきたときには、もうこの部屋はこの状態でした。私はあなたが入り浸っているから、あんな状態だったのだと理解しましたが。元帥閣下がそのような人の規範にならないような事をなさるわけが無いではありませんか。」 「天蓬が…片づけた…? うっそ…。」 嘘に決まっている。なにしろ天蓬のやつは、わざわざ俺を呼びつけて片づけさせておいて、その同じ部屋の反対の端で、俺が片づけた以上に資料をひっくり返していたりする、そういうやつなのだ。 「あなたがどう思われているか知りませんが。」 じじいはなんだか誇らしげに胸を張った。 「私が存じ上げている元帥閣下は、学生でいらした頃から、それは清廉潔白で、何事にも潔い、真摯な方でしたよ。捲簾大将。」 「…げー。女子高生の何とか親衛隊みたいな事言っちゃって…。」 俺は思わず失笑したが、じじいは至って真面目な顔で俺を睨んでいる。どうやらマジらしい。俺はちょっとうそ寒くなった。 「…本人を前にして、あからさまな噂話は止めてもらえませんか。」 「元帥閣下。お出かけですか。」 俺の背後から近付いてきた天蓬が声を掛けると、じじいはぴょんと飛び跳ねるようにして席を立った。尻尾を振っているのが見えるようだ。 「ええ、ちょっと、軍本部へ…。」 「お供いたします!」 妙に嬉しそうにじじいは言った。天蓬の頬が僅かに引き攣るのが俺には見えた。 「いえ、ちょっと顔出しだけですから。教授、あなたについてきてもらうまでもありません。 さ、早く行きましょう、捲廉。僕を迎えに来たんでしょう?」 「へ? あ…。」 天蓬の顔が能面のように凍り付いている。心の中で暴れるなにかを硬く閉ざすために、すべて色を失ってしまったような表情だ。俺には天蓬が助けを求めて悲鳴を上げているように思えた。 俺はとりあえず言葉を切って頷いた。じじいは途端に不満そうな顔になった。 「次からは必ず私を通して下さい。秘書でお手当てを頂いているんですからな。それから、私はもう教授ではなく…。」 「いいえ、あなたは私にとっては教授です。」 珍しく強い調子で天蓬は男の言葉を遮った。僅かに白んだ頬で、じじいをじっと睨む。決め付けるように呟いた。 「永遠に。」 外は柔らかい風が吹いていた。天蓬には似合わない真っ白な白衣が緩やかに靡く。俺は急ぎ足になって天蓬の肩を掴んだ。 今のなんだか茶番臭い一幕を説明させるつもりだった。軽く引いただけなのに、天蓬がぐらりと体をよろめかせた。俺は慌てて両手を差し伸べた。 「おいっ!」 「………煙草…。」 「はぁ?」 「煙草…吸わせて下さい。もう息が詰って詰って…、ああ、これこれ。」 天蓬は俺に縋り付くようにして、俺のズボンのポケットに手を突っ込んだ。痩せた指がごそごそ這い回る。裏地の薄い布を通して太股の辺りを撫で回されて、俺は動けなくなった。 天蓬はそんな俺の狼狽をまるで無視して、くしゃくしゃの煙草を引っ張り出すと、火を点けて深く吸い込んだ。 体の奥に溜まっている淀んだ空気を一掃するように、煙と共に深くため息をつく。その辺の木陰にぺたんと腰を下ろした。 「いや、参った参った。…ちょっと軽いですね、この煙草。」 「……おまえなあ〜。」 「なんです、そんなところに突っ立って。座りませんか?」 いつのまにか笑顔がいつもの、懐こくて少し人の悪いそれに変わっている。俺は呆れたように軽く上空を仰ぐと、天蓬の側に立った。 そう言えば、さっき天蓬の部屋に入ったとき感じたよそよそしさは、染み付いた煙草の匂いが無かったからだと今にして思う。このチェーンスモーカーの天蓬とは、煙草を切り離して考えた事など今まで一度も無かった。 「いいのかよ。よそ行きの白衣が汚れるぜ。」 ほんの少し意地悪な気分になってそう言う。天蓬は顔を曇らせた。 「や…、そうですねえ。」 「で、なんだよ。」 天蓬があんまり素直に肩を落とすから、俺はなんだか罪悪感につまされる。少しぶっきらぼうに天蓬に聞いた。 「何か俺に言いたい事があったんじゃないのか? だからこんなとこまで俺を引っ張り出したんだろう? 聞いてやるよ。」 言ってみな、と促すと、天蓬はまたため息をついた。その表情がほんの少し安心したように緩んだのは、決して俺の見間違いじゃないだろう。 「そうですね。いつでも聞いてくれる人がいるようですから、もう少し…頑張ってみましょうか。」 俺の期待していたのとは違う答えが返ってくる。俺は少し矛先を変えた。 「あの秘書…。お前を知っているようだったが、あれは一体どういうやつなんだ?」 軍に所属している者なら、俺にだって聞く権利はあるはずだ。天蓬は背筋を伸ばした。頬が強張るのが分かる。 「あの人は…、軍の予科にいたときの教授です。戦史を教えていました。僕の恩師です。…いえ、恩師でした。」 「でしたって?」 天蓬が自分の言葉を打ち消して、強く否定したのが気になる。天蓬はいつも自信に満ちた奴で、言い直しをする事自体ごくまれなのだ。 天蓬の不安定のわけもその辺にありそうで、俺はほんの少し食い下がってみた。どのみち、天蓬がまだ話さないと決めたのなら、俺には口を割らせるすべはない。 案の定、天蓬は口を噤んでしまった。いつになく暗い表情が気に掛かる。 「あの人は…僕が元帥になる決意を固めさせてくれた人です。それ以上でも、以下でもありません。」 不意に漏らした言葉で、天蓬の顔が再び能面のように固まって行く。俺は言葉を失った。天蓬の右手が、血の気を失うくらいに握り締められている。 激しい感情の発露は、豊かな表情を通してではなく、手の中の煙草にすべて向けられているようだった。細く肩を震わせて、天蓬は呟いた。 「名前でなど…決して呼ぶもんですか。」 天蓬の冷たい嘆きの声に、俺はなすすべも無く立ち尽くしていた。 もともと天蓬は、元帥などと言う高位の軍人のくせに、おとなしく与えられた居場所に落ち着いている事のごく少ない奴だった。 視察と称してあちこちを出歩くのはもちろん、執務室にいるときでも、おとなしくデスクの前に納まっている事はごくまれだった。それでも、何かしら人目を引くようで、不思議に天蓬の居場所は誰にでも知れていた。天蓬がさりげなく、自分の所在をアピールしていたのかもしれない。それは天蓬の元帥たる責任感であり、職務を全うするプライドでもあっただろう。だから、天蓬の行儀の悪さを誰も諌める事はなかったのだ。 その天蓬が、執務室を留守にする事がめったに無くなった。 「よう、どうしたよ。」 俺が訪ねて行くと、天蓬はにっこりと笑った。減点しようの無い完璧な笑顔だ。それだけになんだかよそよそしい。 「北の庭園の椿が見頃だってよ。…ひっかけにいかねえか?」 親指と人差し指で緩い輪を作り、猪口を仰ぐ仕種をしてみせる。かつての天蓬なら、一も二もなく釣れる動作だ。 だが、しゃんと背筋を伸ばした天蓬は、ちょっと眉を下ろしただけだった。 「…やあ、せっかくですけど、もう少しこの資料を読んでおかないと。」 「またかよ。付き合い悪いんじゃねえの。」 本当にこの所の天蓬は、妙に行儀が良くなった。俺の誘いを断るだけでなく、趣味の本に目を通している事も少ない。 この生活感のない小奇麗な部屋で、陰気なじじいと向かい合って座っているのはさぞ息が詰るだろうと俺などは思ってしまうのだが、ことさらにその規律正しい生活を崩さない。 それが天蓬の意趣がえならそれでいい。奴が思う所あってそのように生活態度を改めたと言うのなら、俺などが口を挟む余地はないだろう。だが、天蓬は明らかに無理をしていた。 綺麗に取り澄ました笑みを浮かべる顔から、次第に感情が抜け落ちて行くのが分かる。心持ちやつれたようにも感じられて、俺は心配で堪らない。 「捲簾大将。ずいぶんとお暇なようですな。」 咳払いと共に嫌味な声に遮られて、俺は不愉快にそちらを振り向いた。秘書のじじいが嫌悪感を露に、こちらを睨んでいる。 書類のインクで汚れた袖口と、だらしなく襟元を縛る帯とが嫌に俺の勘に触った。 「悪かったな、じいさん。そちらはあいも変わらずお忙しいこって。」 「それはもちろん、元帥閣下の任務を滞りなく行っていただけるように整えるのが私の役目ですからな。」 敵意が感じられる口調だ。このじじいは最初から俺に突っかかる。原因が見当たらないから対処の仕様もない。 もっともこんなじじいのご機嫌を取る気はさらさらないが。 「それはおエライこって…ん?」 俺は言葉を切った。じじいのデスクから、紫煙がたなびいている。薄っぺらいアルマイトの灰皿に、ちびた吸い殻がいくつか乗っていた。 「煙草…。あんた、煙草吸うのか?」 「煙草がどうかしましたか?」 じじいは薄く煙を上げていた一本を、忌々しそうに擦り付けた。灰皿の底に、黒い灰が刻印のように残った。 「俺は、天蓬が吸わないのは、あんたが嫌がるからだと思ってたんだが…。」 「…元帥閣下は、煙草など吸われません。私にした所で、これはささやかな憂さ晴らしと言った程度で、決して嗜むほどには至りません。だいたい煙草などと言う物は…。」 じじいは中途半端な所で言葉を切った。どう足掻いても、自分の言質が有利に働かない事を悟ったのだろう。やがて思い出したようににやりと笑う。 「捲簾大将。下界の荒ぶるものたちを鎮める討伐隊が組まれている事をご存知ですか。」 「…ああ。」 俺は目を眇めた。なぜこの男は、こんなに俺に敵意を燃やすのだろう。 「どうですか。お暇なようですからな。こんな所で老人をからかっているよりも、一つ名乗り出られて栄誉を勝ち取ってこられては。あなたのように鼻息の荒い方なら、妖怪討伐など物の数ではないでしょう。」 鼻息の荒いのはどっちだ。俺は腕を組んでじじいを見下ろした。じじいは燃えるような目で俺を睨んでいる。…いや、俺ではなくて、俺の背後の天蓬をねめつけているのか? 「あなたの上司の竜王様なら、私の古い知己です。何なら、私から言上致しても…。」 「教授!」 ピンッと空気を震わすような声がした。じじいがびくっと竦むのが分かる。 「あなたの仕事は僕の身の回りに関する事柄だけのはずでしょう。」 無理に押さえつけたような声だ。じじいは何を言い募ろうかと唇を嘗め回している。 俺はゆっくり天蓬を振り向いた。立ち上がった天蓬はにっこりと笑ってはいるが、なんだか青ざめた顔をしている。 「閣下の部下の事ですから。大局的には閣下の身の回りの事でもあるでしょう。」 「…そこまであなたが口を差し挟む事ではありません。」 「閣下は捲簾大将にだけは甘すぎるようですな。私は閣下の元の指導者としても、どうしても口を差し挟みたくなるのです。」 そう言って、じじいは自分の言葉の効果を推し量るかのように、一息いれた。 「元帥閣下。…あなたが悪いのです。」 天蓬の顔が、紙の色になった。ふらりとよろめいたデスクの向こう側で、天蓬はようやく足を踏みしめた。じじいの今の一言が天蓬に大きな打撃を与えたことが分かる。 そしてじじいが、その言葉が天蓬にどんな効果を与えるかを十分承知していて放ったことも。 「…例の報告書。もう出来上がっているはずです。」 天蓬は掠れた声を上げた。微笑みの形に固まった顔のまま、指先まで蒼白になった手を上げてドアを指す。 「執行部に取りに行ってください。そうしたら、今日は早いですが、もう上がって頂いて結構です。」 「…受け取りに、あなたのサインがないと。」 じじいが媚びるような笑みを浮べた。天蓬の肩がぎゅっと強張った。 「明日でいいと言っているんです!」 瞬間的に叫び、天蓬はすぐに我に返った。もう一度痛々しい微笑を浮べると、敢然と背中を伸ばす。 「とにかく今日はもう帰ってください。今あなたを支配しているのは、あなたではなくて、この私なんですから。」 「…支配ではなく、指示でしょう。」 じじいの勝ち誇ったような言葉に、また天蓬の肩が強張った。 「分かりました。では、また、…明日。」 ことさらに慇懃に腰を折ったじじいが退室すると、天蓬はぐったりとイスにへたり込んだ。デスクに両肘を着いて、両手で目を覆う。 泣き出したかのように見えるその姿に、俺はそっと近づいた。 「天蓬、…おい。」 静かに肩を揺すると、天蓬は搾り出したようなため息を付いた。 「…煙草でも吸うか?」 「いえ、…ここでは吸わないと決めたんです。」 天蓬は弱々しく微笑んだ。じじいの前で見せる、あの取り澄ました笑顔ではない。俺は少し安心し、同時に腹を立てた。 「なんか、あのじじいに弱みでも握られてるのか?」 天蓬は答えない。僅かに唇を噛み締めて、行儀のいい答えを模索しているように見えた。 「言ってみろよ。お前がそんなにへこたれてるの、俺は見たことがないぜ。」 「…あの人にはもう2度と弱みを見せたくないんです。」 長いこと考えて、天蓬はようやくそれだけ呟いた。すっと背筋を伸ばす。今はこの場にいないじじいに向かって見栄を張るように、硬い表情で空のデスクを睨み付ける。 「僕はもう、誰にも屈服させられたりしません。」 天蓬の激しい言葉に俺の存在自体を拒絶されたように思えて、俺は黙って立ち尽くしていた。 天蓬は、不意に表情を和らげた。うつむくと、細い肩は震えているように見えた。 「なぜ…天界には…雪は降らないのでしょう。」 「雪?」 突然の天蓬の問いかけに、俺は一瞬虚を突かれた。天蓬はゆっくりと俺を振り仰ぐと、もう一度儚げに微笑んだ。 「僕のこの胸にも…雪が積もればいいのに。」 この微笑みは、俺になにを訴えたいのだろう。地上に降る雪のように、融けおちそうな細い肩を、俺はどうしても触れることはできなかった。 結局天蓬は、俺の誘いを振り切った。どうにもやるせない思いで、俺はその日は深酒をした。こんなに酒が苦かったのも久しぶりだったが、飲まなければ憂さを晴らせそうもない気分だった。実際には、杯を重ねるごとにますますモヤモヤは募っていったのだが。 翌朝、泥みたいな気分で目を覚ますと、乱暴にドアが叩かれていた。二日酔いの重たい頭を無理矢理引き起こして出て行くと、竜王直属の使者が、俺に辞令を突きつけた。 遠征の辞令。それも今すぐ出発しろとのお達しだ。俺は無精ひげを剃る暇も与えられず、引っ立てられていった。 軍司令部に連れて行かれると、そこにはあのじじいがちらりと姿を見せた。やられた。そう思ったが後の祭りだ。 俺は天蓬に一言の言伝もできぬまま、さして急を要することもない現場へと追い立てられていった。 やっと帰還の辞令が降りたのは、一月近くも経ってからだった。 かつて見たこともないくらい不安定だった天蓬が心配で、俺は竜王への報告もそこそこに、天蓬の執務室へと急いだ。 軍の本部に天蓬が姿を見せていなくても、あの執務室に行きさえすれば、必ず彼の懐かしい姿が見られるはずだった。なにしろこの俺が帰還したのだ。天蓬が待っていないはずがない。 だが、俺を待っていたのは、あのしょぼくれたじじいだけだった。 俺はがっかりした。同時に酷く腹が立った。このじじいが天蓬をどこかに隠している、そんなバカな考えさえ脳裏に浮かんだ。俺はその考えを振り払うために、何回も頭を振らなければならなかった。 「おい、じいさん、天蓬はどこだよ。」 仮にも秘書というからには、天蓬の居場所くらい知っていてしかるべきだ。俺はそう考え、じじいに声をかけた。じじいの不景気な面は、俺の帰還を喜んでいないからだと思っていた。だが、じじいは血相を変えた。 「私は、あんたに聞けば分かると思っていた!」 いきなり詰め寄られて、俺は驚いた。じじいは今にも泣き出しそうに顔を歪め、俺に額を突きつけた。 「教えてくれ。元帥閣下はもう1週間も姿が見えない。あんたは閣下が行かれそうな所に心当たりがあるんだろう?」 「天蓬がいない? マジかよ…。」 聞き返すと、じじいは悔しそうに唇を噛んだ。息が詰まりそうなじじいだと思ってはいたが、ついに天蓬も我慢しきれなくなったらしい。 「逃げやがったな、あいつ…。」 「バカを言うな。私の元帥閣下は、逃げ出したり怖気づいたりすることのない方だ。いつでも雄々しくて実直で清冽で…。私の、私の元帥閣下は…。」 「誰の事だい、そりゃ…。」 俺は呆れて舌打ちしたくなった。じじいが天蓬を買いかぶっているのは知ってたが、こうまで偏執的に入れ込んでいるとは思っていなかった。 「あんたがそんな風にべったりだから、天蓬も息抜きがしたくなったんだろうさ。」 「元帥閣下は…天蓬君は、私から離れられるはずはないのだ。今も、昔も。私は彼の支えであり、同時に…。」 口角に泡を溜めて口走っていたじじいは、不意に言葉を飲み込んだ。その先に酷く嫌な言葉を聞きそうな気がして、俺はきつく眉を寄せた。 「捲簾大将、あんたは、元帥閣下の親友を気取っているが…、彼の一番きれいな姿を見たことがあるというのかね?」 「………なに?」 「私はある。閣下は凛としたお姿も美しいが、何よりしどけなくてきれいなのは、誰かに屈服させられたときの打ちひしがれたお姿だ。 喘いで助けを求めるために伸ばされた指が、どんなに美しく震えることか、あんたは知らないだろう。その助けを求める先にいるのが私なら…それはもう、この身がわななくほどに嬉しいものだ。何しろ閣下の総てを私の手中に納めていられるのだから。 そんな嬉しさなど…あんたは知らないだろう。」 背中をぞくりと冷たいものが走った。じじいの血走った目が、勝ち誇ったように笑っている。歪んだ勝利の笑み。己のためには他人に危害を与えるのも厭わない狂気の目だ。 軍にいれば時折そんな目に出会うこともある。だが、そんなものは、最前線で生死を賭けた者にだけ現れるものだと思っていた。こんな生き死にとはかけ離れた場所で、これほどの確執を目の当たりにすることなどないはずだった。 今までこの視線を、天蓬はどんな思いで耐えていたのだろう。俺は天蓬の変化のわけが今にしてやっと分かった。天蓬はこのじじいから身を守るために、ああして硬い鎧を着こんでいたのだ。天蓬とこのじじいとは古い付き合いらしい。彼なりに編み出した、最良の鎧があの態度だったのだろう。 「閣下は、私のためにだけ、そのか弱いお姿を見せてくださる。だが、あんたの存在がそれを阻む。だから、あんたは閣下の居場所くらいは知っていなければならないのだ。 それを何だ! 私から閣下を奪っておいて知らないなどと! 私がどんなに手を束ねて閣下をお探し申し上げたか分からないのか! 閣下の本当のお姿も知らないくせに!」 「…知らなくもねえぜ。天蓬の本当の姿くらい。」 じじいははっと息を飲んだ。 そう、確かに俺は天蓬の隠された姿を知っている。それがこのじじいの描いている天蓬と同じ姿かどうかは別として。 「ならば…、閣下は今どこに…。」 「…軍の予科の図書館てのはどこにある?」 天蓬が俺の側にいなくてこの執務室にもいないなら、後は大好きな本の側にいるに決まっている。誰の目にもついていないならなおさらだ。 かつて天蓬の話に出てきた予科の図書館―不思議な司書のいる―そこが最有力候補だろう。 「…予科に図書館などない。各研究室に立派な書庫があるからな。そんなことよりも、閣下の居場所を…。」 「ふん、なるほどな。」 じじいの言葉は半ば予想されたものだった。俺にしたところで、予科に図書館があるなど聞いたことがない。 ならばそこは、天蓬の隠れ処には最適ではないか。誰にも知られていない、もしかして、天蓬自身が作り上げた待避所。 だが俺にだけは、そこは間口を広げて待っている気がした。誰にも縋れない天蓬が愚痴をこぼせるのは俺だけだ。 「ちょっくら探しに行ってくらあ。」 眉を吊り上げるじじいに背を向けて、俺は片手を上げる。 そう、天蓬はこの俺が探しに行かない限り姿を現しはしないのだ。静かな確信と共に、俺は歩き出した。 |