忘却の檻

手のひらに残った感覚がいつまでも消えなかった。
あの、混乱のさなかでいつのまにか剥いでしまった爪も元通りに生えた。
縛められた痕も懲罰の傷跡もすっかり癒えた。
だが、手のひらに残った感覚だけはいつまでたっても生々しく、鼻を寄せるとかすかに血の匂いすらする気がした。
何度拭ってもそれは変わることなく、記憶を新たにするだけだった。
しでかしたことよりも存在自体が、その禍禍しい黄金の瞳が罪なのだと、憎々しげにたたきつけたあの顔が、今も目の前にあるように鮮やかに浮かび上がる。
それなら一体、自分はどうしたらいいのだろう。
ただそこにあるだけで罪だというのならば、わずかなつぐないの機会も、自分には与えられないということなのだろうか。
真っ赤な唇が、見事な弧を描いた。唆すような口調で囁きかける。ふうわりと吐息が甘く香った。

「忘れちまえよ。」

深い洞窟のような黒いひとみの奥に、小さな毒蛇が潜んでいるように見えた。
華奢な指が彼のあごを掬い上げ、記憶の底に己の姿を焼き付けるかのように見つめる。

「おまえを許すことができるのは、おまえを必要とする者だけだ。おまえ自身にもおまえは救えない。だから全部忘れちまえ。おまえの安寧の場所はそこにしかない。」

そう言って「できればな」と付け加えた薄ら笑いは、蔑んでいるようにも哀れんでいるようにも見えた。
だが、それはそう容易い事ではなかった。目を瞑ればいつでも懐かしい顔が浮かんだし、つかの間の幸福な記憶は全身に染み付いていた。
だから、小さな青い友だちが訪れたとき、彼は心底ほっとしたのだ。
待ち望んでいた、許しを与えてくれるものがようやく訪れてくれたのだと思った。
これ以上もう何も失うことなく、ようやく許されるのかと。今でも自分のしたことが間違っているとは思えない。
微塵も後悔していない。それでも誰かに慰めてほしかった。
もういいのだと言ってほしかった。この小さな友だちはきっと自分を必要としてくれる。許しを与えてくれる。
期待はすぐに裏切られた。
小さな青い友だちは、目の前で冷たい骸になった。
硬い岩の格子の間から必死に伸ばしてもかすりもしない指先が、友だちとの距離を突きつけているように感じた。
いくら呼びかけても返事の帰るはずもなく、ただその小さな体が土に却って行くのを見つめているしかなかった。
小さな体はあっという間に融け落ち、無数の羽を撒き散らして消えていった。透き通るような小さな骨も、あっという間に融けていった。
そしていつのまにか、その小さな友だちの姿を思い描くことができない自分がいるのを見つけて、彼は愕然とした。
これほどまでに忘れたくないとかすかな記憶にしがみついている一方で、自分の記憶の中からは早々と抹消されてしまうものがあることに驚いた。
何よりも、自分の心の中から大切なものを消し去ってしまえる自分が恐ろしかった。
忘れさえしなければ、存在しつづけるものがあると、かたくなに信じていたのだ。
それなのに、簡単になくなってしまう。
初めて恐ろしいと思った。
長い孤独も、激しい飢えも、何も恐くなかった。ただ、自分の心だけが恐ろしかった。
だから、何も知らないでいられたあの頃に戻れればいいと思った。


目の前に置かれた二つのものを見て、俺は自分の顔が憮然とするのを止めることができなかった。

「なんだ、これは。」

我ながらとげとげしい声に、妙にしどけない格好の女が、真っ赤な唇を吊り上げた。どうやら笑っているらしい。

「たったこれだけで大陸を横断しろってのか? 俺に死ねといってるんじゃないだろうな。」
「貴様、口を慎め!」

女の後ろでさっきからやきもきしていた初老の男が、口から泡を飛ばす。俺はそっぽを向いて、小さく悪態をついた。

「いいじゃないか。鼻っ柱の強い坊やは大好きだよ。」

女はさも楽しそうに足を組み替えた。すらりとした華奢な足が高く上がると、周りに控えているごつい男たちの間からため息が漏れる。

「しかし、観世音菩薩…。」
「銃の説明をしてやるよ。もうちょっと側によりな。」

女は爺の抗議を無視して俺にあごをしゃくった。俺はしぶしぶ数歩進み出た。
そう、俺は今、天界からじきじきにご光臨あそばされた観世音菩薩サマとご対面の栄誉に預かっている真っ最中なのだ。
このどう見ても女としか見えない半裸の女は、実は両性体で、足の間にはグロテスクな一物をぶら下げているという。
呼びつけられただけでも面白くないのに、なんでこんなでかい態度の男女にへいこらしなくちゃならん? 
俺はさっきからぶちぶちと音を立てて青筋を浮かべていた。

「そうとんがるなよ。おまえの気の短いのはよーく知っているよ、金蝉。」

また一つ、こめかみがぶちっと音を立てた。
どういうわけかこいつは俺のことを金蝉と呼ぶ。俺が何度訂正してもだ。
俺のいきり立った様子にも、やつは肩を小さく竦めただけだった。

「その銃はおまえの力を動力源にしている。弾を込める必要はないし、おまえが修行を積めば積むほど殺傷能力は増大する。ただし、妖怪にしか効かんがな。」
「…そいつはどーも、結構なものを…。」

手のひらにすっぽりと収まりそうなその銃を俺は眺め降ろした。
俺の態度が気に入らないのか、爺が何か喚いている。それには取り合わずに、俺は隣に置いてある金色のカードを指した。

「これは?」
「…聞いたことがあるだろう? 天界のゴールドカード。それさえあればおよそ支払えないものはない。もちろん支払いは天界もちで、無制限無期限だ。…このカード一枚だけでも、十分命をかけるに値するだろう?」
「…本当に、有難くって涙が出そうな代物だな。」

俺は右手で作ったこぶしで、こめかみをぐりぐりと擦った。
さっきからつきんつきんと脈を打っている鈍い頭痛がそれで追い出せるかと期待したのだ。
だがいつもの事ながら、その程度の刺激では何も変わらない。

「行ってくれるな?」
「嫌だと言っても行かせるんだろう?」

俺が投げやりに呟くと、やつはまた楽しそうに笑った。
俺は不機嫌な顔のまま、渡された銃とカードを懐に突っ込んだ。しかし、わずらわしい部下を何人もつけられるくらいなら、このカードと銃のほうがどれだけ有難いかわからないかもしれない。
俺は無理やりそう思うことにした。どうせ天界からの命令など逆らえる余地はないし、どこの寺も俺みたいな破戒僧を受け入れる気はない。
またつきんと頭が痛んだ。俺が思わず顔をしかめると、奴が目ざとく見つけて俺をひらひらと泳がせた指先で呼んだ。

「西へ行く前にな、ちょっと寄り道をしてみろ。いいものが手に入るぞ。」
「…それも命令なのか?」
「そう思っていい。…その頭痛、治したいんだろう?」

面白そうに笑う顔に、悪態をつきたくなった。
そうしなかったのは、今にも爺が腰に帯びた刀の柄に手をかけようとしているのが目に入ったからだ。
まさか観世音菩薩の前で刃傷沙汰もないだろうが、とりあえず言葉を飲み込む。命が惜しいというより、爺が少し哀れになったからだ。
俺と観世音のいかれたやり取りに爺は完全についてこられず、今にも泡を吹きそうだ。

「で、どこへ行きゃいいんだ。その寄り道ってのは。」
「どこだったかなあ、あの岩山は。確か、あっちのほうだったが。」
「…ここから北東に百里ほど行った所でございます。」
「…だそうだ。」
「何が寄り道だ。まるで正反対の方角じゃねーか。」

思わず声を荒げると、たちまち爺が目を剥く。観世音は薄く笑ったままだ。

「損はさせねーよ。騙されたと思って行ってみな。きっと俺にひざまずいて涙を流すくらい感謝するぜ。」

観世音は意味ありげににっこり笑った。女じゃないのが惜しくなるような妖艶な微笑だった。


「騙された…。」

俺はしなびたりんごをいくつか抱えてうめいた。
観世音菩薩が言っていた北東に百里ほどの岩山の、ふもとにある小さな集落だ。世捨て人の一族が細々と生計を立てているような貧しい村で、ゴールドカードを使うどころか、商店すら見当たらない。
何がこのカードでおよそ買えない物はないだ。
そう思った途端に耳元で「だからちゃんとおよそって言ったろう?」と囁くのが聞こえる気がした。
食い物に窮した俺は、仕方なく普段なら絶対にしない托鉢をして歩いた。
人々は一様に朴訥で、突然の闖入者である俺の読経にも有難いと手を合わせてくれた。そして謝礼にと、このしなびたりんごをくれたのだ。
村人たちの貧しい懐事情は深く詮索するでもなく察しが着いたし、何より俺は飢えていた。
内心はげっそりしながらも、それらを受け取るしかなかった。

「お坊様、どこへ行きなさるかね。」

腰の曲がった好々爺が俺に尋ねた。ちょっと前までこの爺さんは、本物の経を聞くなど三十年ぶりだと言って涙を流して喜んでいたのだ。
そんな彼に当り散らすほどには、俺は無慈悲でも阿呆でもない。

「あの岩山に行くつもりだ。」

そっけない返事に、爺さんの顔色が一変した。

「なに? 花果山へ行きなさるかね? そりゃあダメだ。お坊様、悪いことは言わない。今からでもまっすぐ帰りなされ。」

爺さんは本当に恐ろしそうに両手をわなわなと震わせた。
気配に気がついてあたりを見回すと、物陰から村人たちがこちらを伺っている。爺さんと俺の話に必死で聞き耳を立てているようだ。

「あの花果山の頂上には、恐ろしい妖怪が封印されていますのじゃ。もう五百年も経つというのに、まだ時折この世のものとも思えないうめき声が聞こえてきます。お坊様がいくら徳の高い方でいらしても、うかつに近寄れば頭からバリバリと食われてしまいなさるじゃろう。」
「五百年…?」
「信じなさらないのか? 我らが一族は、花果山の封印を守るためだけにこんな不便な山奥に住むことを強いられてきたのですじゃ。」

爺さんはいきなり家の中へ駆け戻った。
逃げ出したのかと思ったらすぐに戻ってきて、両手で恭しく何かを捧げ持った。

「これが、五百年前から一族に伝わる、神からお預かりしたご神剣ですじゃ。」

俺は目の前に突きつけられたそれを仕方なく見た。
見た途端に、爺さんが嘘を言っているのではないことがわかった。
寺の宝物殿にも同じ形の刀がご神剣として祭られていたのを思い出したのだ。それは確かに寺でも五百年前に神サマが妖怪征伐の折に賜ったとされていたものと同じだ。
しかし、爺さんが持っている刀からは、封印に使われているはずの神通力がまったく感じられない。
これは封印というよりも、ここに何かを葬ったのを誰にも悟られないための脅しに使われたものだと思われた。
俺は顔を上げた。爺さんと目が合った。爺さんの必死な表情に、俺は本当のことを言うのがためらわれた。
爺さんたちはこの世捨て人のような生活が、神の使命を帯びたためでなく単に騙されただけと知ったなら、そのときどんな顔をするだろう。
あの観世音菩薩の薄ら笑いが目の前に浮かんで、俺は胸糞が悪くなった。

俺はため息をついた。これも救世の一つだ。自分を納得させるためにそう呟いた。

「俺はその神から命令されてここまで来たんだ。大丈夫。ちょっと行ってとっとと戻ってくるさ。」
「本当に…。」

爺さんはいぶかしそうな顔を隠そうともしない。だが、その目の奥に、かすかな期待がある。
妖怪が囚われている山の封印を守るなどという重責から逃れたいのだろう。

「観世音菩薩から預かった対妖怪用の銃もある。あんたらの役目も今日限りだ。」

爺さんは表情を固くしたまま俺に手を合わせた。
南無阿弥陀仏と拝まれて、俺は彼に背を向ける。誰も追いすがっては来ない。ひそひそと囁く声に送られて、俺はその集落を後にした。



俺が頭の中に囁く声に気づいたのはいつだろう?
物心ついた頃にはそれはもう馴染みの深いものだった気がする。だがそれに頭痛が伴うようになったのは最近のことだ。
頭痛がするようになって初めて、俺はその声に耳を傾ける気になった。
漠然と俺を呼んでいると思っていた声は、よく聞けば聞くほど意味をなさない音の羅列に聞こえた。
俺にしか聞こえていないことは回りの様子を見ていればすぐにわかった。
今日は一際うるさいと思えるときにも、誰一人気づいていないようだったからだ。
その声からは、何のメッセージも感じられない。怒っているようでも悲しんでいるようでもない。
だが、いつも俺はその声を聞くと胸を締め付けられるような気がした。
どうしようもなく切なくて、そしてそれが自分も良く知っていることのような気がするのだ。
だから俺はその声が大嫌いだった。いつでも無遠慮に俺の中にもぐりこみ、俺の一番弱いところをつつきまわす。
観世音に頭痛のことを言い当てられたときにはむっとしたが、俺は奴の口車に乗ってもいいとあっさり思った。
何よりもこの頭に響く声を止めたい。その声の元が妖怪であれなんであれ、俺の神経を探りまわす奴は放って置けない。
観世音菩薩の言ったとおりに歩を進めると、声はますます大きくなっていった。
花果山は名前がついているのがおかしいくらい人の分け入った形跡の見当たらない岩山だった。
ふもとに広がる僅かな草原には、獣道さえ付いていない。俺は次第に足場の悪くなる山道にうんざりしながら進んだ。
五分の一も上らないうちに、植物はすっかり陰を潜めた。
後は延々と赤茶けた岩ばかりが転がる険しい道だ。俺は何度でも転がり落ちそうになり、そのたびに手足や顔にまで無数の傷をこしらえた。
始めは真っ白だった袈裟がどんどんと赤茶色に染まっていく。
こんな山の上に一体どんな怪物が待ち受けているというのだろう。俺は懐の銃を握り締めた。
もしも本当に、俺を食い殺そうとするような奴なら、迷わず銃弾を浴びせてやる。
思うようにならない苛立ちが俺をますます凶悪な気分にさせていた。
ふもとの集落を朝早く発ったというのに、太陽が高く上がっても、俺はまだ中腹にもたどり着けないでいた。
手足のけだるさに耐えかねて、俺は僅かに腰掛けられるほどの岩の出っ張りで休むことにした。
懐をかき回して、残り少なくなったタバコを引っ張り出す。煙を吐くと、やけにその白さが目立った。
俺はタバコのおかげでようやく人に戻れた気がした。
たった今まで両手両足を駆使して岩に攀じ登っていたせいで、サルにでもなった気がしていたのだ。

「…こんなところに封じ込めるなんて、どんだけたいそうな妖怪なんだ。」

呟いた言葉が空中で拡散した。
何の障害物もない山道では、言葉すらそこに留まるのを嫌がるかのように、あっという間に消えてなくなってしまう。
見渡すとあたりは一面の青だった。中腹とはいえ高度は相当にあり、視界を遮るものも何もない。
こんなふうに何の実りもない土地なら、動物も寄っては来ないだろう。そう思ってあたりを見回すと、土を耕してくれる小さな昆虫さえ見当たらない。
まるですべてが死に絶えた世界だ。
タバコを吸い終わり腰を上げようとして、俺はふと、頭の中の声がなりを潜めていることに気づいた。
強弱はあっても決して途絶えることがなかったあの声が止んでいる。俺は思わず頭を振っていた。
声がしなければしないでなんとなく物足りなく思っている自分に少し呆れた。だが、気配はする。
声の持ち主はどうやら接近する俺に感づいたらしい。
自分が声を送りつづけていた相手が側まで来ていることを悟って、もしかしたら舌なめずりをしながら待ち構えているのかもしれない。
俺はもう一度懐の銃を検めた。もし襲い掛かってくるのならば、たちどころに成敗してやる。
俺の体温で生ぬるくなった鉄の感触が、とても頼もしいものに思えた。
ようやく山の頂に到達したとき、俺の機嫌は最悪の状態になっていた。
手足はだるくて擦り剥けだらけだし、下ろしたての袈裟も着物もずたぼろだ。草鞋もすっかり擦り切れている。
鼻緒が切れなかったのが奇跡みたいだ。
そこにはたいして深くない洞窟があった。中ほどに、明らかに人の手がかかっている荒い格子。
そこは天然の岩で作った牢獄だった。
おそらくここに妖怪を閉じ込めてから神の力でこの檻を作り上げたに違いない。
どう見渡しても出入り口の一つもないのだ。両手でやっとつかみきれるほどの太さの檻の一本一本には無数の妖怪封じの札。
おそらくこれ一枚だけで、力の弱い妖怪なら動きを封じられてしまうはずだ。
俺は興味を感じて洞窟の奥を窺った。これほどまでに厳重な拘束が必要な怪物は、いったいどんな面をしているのだろう。
傾き出した夕日が俺の真後ろから光を投げかけている。
俺の影が長く伸びて格子の中に滑り込んでいく。
格子の向こうまで日が射すのは一日にほんの数分、しかもその日も年に数日だろう。俺は急に哀れを催した。

「そこにいるんだろう。」

だが、かけた声はかなりぶっきらぼうだった。ごそ、と何かがうごめく気配がする。
同時にちゃりんと金属の触れ合う音がした。
俺はもう少し近づいて格子に手を掛けた。
俺の歩いてきた後に足跡がきれいについている。確かにもうずいぶん長いこと、この洞窟には誰も足を踏み入れた形跡はない。
貼られている札はどれもまだ強い効力を発しているものの、紙自体はかなり劣化している。
変色し、すでに文字も読めないほど擦り切れてしまっているのが大半だ。
俺は格子を透かして中を見た。
まず目についたのが長い鎖とそれにつながった鋼球。すべてが風化し、色褪せた洞窟の中で、それだけが凶凶しく鈍色を放っている。
その百キロはありそうな鋼球にそれぞれつながれた四肢は意外なほどに細い。

「…ガキ?」

俺は思わず呟いていた。
こんな御大層な檻に閉じ込められていたのは、手足もまだ伸び切っていないような小柄なガキだ。
ガキは俺の顔を見上げ、わずかに後ずさりした。鼻の頭にしわを寄せ、牙のように尖った犬歯を剥き出す。
喉もとでぐううとうなるのが聞こえた。
とたんに俺は飛び上がりそうになった。奴がうなり声を上げると同時に脳みそに錐を突き込まれたような痛みが走ったのだ。
一呼吸遅れて例の声が聞こえる。いつものように低くうなるような声ではなくて、わんわんと頭の中で蜂の大軍が飛び交っているようだ。

「…やかましい。」

俺は歯ぎしりをした。俺の殺気のこもった視線に怖じ気づいたのか、ガキは背中を強ばらせる。
夕日が少し伸びたのと、ガキが体の位置をずらしたのとで、ガキの顔に夕日が当たるようになった。
ガキは眩しそうに目を眇め俺を足元から舐めるように見上げていく。
視線が俺の頭のあたりまで来て、驚いたように止まった。
俺は光を背負っているし、暗がりに慣れたガキの目には俺の顔はよく見えていないだろう。
だが俺からは奴の顔がよく見えた。黄金の瞳が俺をひたと見つめている。
禁忌とされている鮮やかな黄金。邪悪な妖力の源とされている色だ。そして額には、瞳と同じぐらい輝く黄金の妖力抑制リング。
それもいままで目にしたこともないような大きな物だ。
頭のぐるりを輪にして取り囲んでいるらしい。
並みの妖怪ならピアス一つでその力を半減させられるという厄介な代物を頭中に巻き付けて、このガキはまだやすやすと動いている。
このリング一つを取っても、このガキの底知れない力は容易に計れた。
ふと気がつくと、ガキはさっきまでの警戒心剥き出しの顔を忘れたかのように呆けた顔をしている。
瞳を大きく見開いて口まで半開きになっている。視線は俺の頭のあたりで止まったままだ。
俺は懐に手を突っ込んで考えた。
この仔ザルみたいなガキをどうしようかと思ったのだ。こいつはここから自力で抜け出すことはできないらしい。
ほったらかしにして帰ってしまうのが一番簡単だろう。
だが、それではこの頭に響く声は永遠にこのままだ。
五百年もこうしてただ命を過ごしてきた妖怪にとっては、俺の一生分の時間など、ほんの瞬き同然だろう。
かといって、この場で成敗してしまうのも気が引ける。指先に触れる滑らかな銃床を撫で回しながら俺は思った。
こんな頑丈な檻と鎖に囚われて、逃げ場のないガキをなぶり殺しにするのはどうしても後味が悪い。
それにあの妖力抑制リング。
あんな大きなものが必要な化け物に、果たしてこの銃がどれだけ効くのか。
幸か不幸か、俺はまだこの銃を使う機会には出っくわしていない。
たとえ俺の力のすべてをつぎ込んで、この仔ザルをぐずぐずの挽肉にしたところで、数年もたてば蘇ってしまうのではないのだろうか。
こいつは五百年間も忘れ去られて、おそらくは飲み食いもせずに永らえてきた化け物だ。
俺はため息をついた。
心を決めると、さっきまで手のひらに触れていて熱を放つように感じられていた封印が、あっさり威力を無くしていくのがわかる。
さてはこれも観世音菩薩の仕組んだことか。
俺はいらいらしながら低く経文を唱えた。
頑丈そうに見えた岩の格子に軽い音と同時に亀裂が走り、まるで乾燥しきった砂の建造物のようにさらさらと崩れ落ちる。
どういう仕組みになっているのか、同時にガキの四肢を捕らえていた鎖がガランと転がった。
それらも俺の見ている目の前で、岩の檻と同じように風化して、たちまち一山の塵芥になる。
無理に止められていた時間が一気に動き出したようだ。
だがガキは相変わらずそのままだった。
いきなり老けることも白骨になってしまうこともなく、俺はほんの少し安心した。
ガキは相変らず、さっきと同じ姿勢のまま俺を呆然と見上げている。俺はぶちきれそうになりながら片手を差し伸べた。

「ここから出してやる。さっさとついてこい!」

俺の荒々しい口調にも、ガキはびくともしない。
まず、戒めが解かれた両手をまじまじと見て、それからゆっくりと腰を上げる。
歩くことをようやく覚えた赤ん坊のようによたよたと無様に歩いて、俺に両手を伸ばした。
ガキの身長は、立ち上がっても俺の肩に届くかどうかだ。
敵意が感じられないので、俺はいらいらしながらもガキのさせたいようにさせてやった。
ガキは俺の髪に触るために、ほんのわずか伸び上がった。汚れた指先が目に入ると、爪がみんな噛み切られている。
きっと唯一の娯楽がそれだったのだろう。そう思うと、ますます哀れになった。
ガキは震える手で俺の髪をつかんだ。夕日を背に受けた俺の金髪はきっといつもより見事に輝いているだろう。
ガキの黄金の目が何かを思い出すように忙しなく動いた。言葉が唇からあふれ出たかのように、小さく動く。

「…た…い…よう…。」

声は漏れなかったが、奴は確かにそう呟いた。俺は思わず眉を寄せた。
ガキは呆然とした面持ちのまま、俺の髪を握り締めていて、そのくせちっとも俺を見ていなかった。


どうにかこうにか山を下りた。
下り始めてまもなくとっぷり日が暮れてしまった。ガキの足取りは、最初は俺よりよほど危なっかしかった。
よく見ていると、右足と右手が同時に出ていたりする。
両手を広げて少し歩けば一周できてしまうような狭い中に長く押し込められていた為か、体が思うように動かないようだった。
だが、ガキは、生来の運動能力もあるのだろう。あっという間に動くコツを飲み込んだようだった。
そうなってしまうと、今度はとんでもなく向う見ずなのだった。
何が珍しいのか、あちこちで立ち止まったりするのだが、その目的の物の側に行くのに、何の躊躇もしないのだ。
踏みしめた端から崩れてしまうような脆い地層も、やっと危ういバランスを保って留まっている大きな岩にも、奴は果敢に挑みかかる。
もちろん、ひどい勢いで転ぶのも一度や二度じゃない。
盛大に顔を顰めていたりするから、それなりに痛い思いはしているのだろう。
ほんの少しずつ学習しながら、それでも奴は愚行を改めようとしない。ついに俺は怒鳴った。

「いいかげんにしろ! ちょろちょろしないで先に下りてけ!」

奴は黄金の瞳を大きく見開いて、不思議そうに俺の顔を見る。
俺はぶるぶると首を振った。さっき奴が蹴り落とした細かい岩のかけらがパラパラと音を立てて俺の髪から落ちた。
磨いた鏡みたいな満月が中空に掛かっている。
十分に光があるから、奴の妖怪の目には俺の頭から小石が零れる様子はよく見えるのだろう。
奴は首ごと動かして岩のかけらの行方を追い、もう一度不思議そうに俺を見つめた。
その瞳があんまり邪気がなくて、俺はなんだか一人でいらついている自分が急に嫌になった。
のろのろと手を上げて、行けと指で指す。奴はちょこんと小首を傾げ、ぴょいぴょいと跳ねていった。
少し離れたところから俺を振り返り、もう一度小首を傾げる。
俺がうなずいたのが見えたのか、安心したように道草を食い出した。

「ふう…。馬鹿らしい。」

俺は何度目かのため息をついた。
ガキは伸び上がって、空を見つめている。一体何をしているのだろう。
首をぐるりと巡らせて、何かを追っているようだ。
だが、ここから見る限り、ガキの注意をひきそうなものは何一つない。
俺はその場に座り込んでしまった。考えてみれば、今朝、いやもう昨日の朝から、ずっと歩きづめなのだ。
くたびれないほうがどうかしている。
尻に一際硬い岩が当たる。俺はそっくり返るようにして、その邪魔な岩を覗いた。
不自然なまでに立方体に近い岩の形から、これまでにも何個か見つけた結界のかけらだと知れる。
あのガキを封じておくための結界は、何重にもこの岩山を取り囲んでいた。
ただ、それは今までのどれよりも大きく、何か表面に彫ってあるのがわかる。俺は腰をずらしてその掠れかけた文字を見た。
難しい呪文の後、人名が彫られるべき場所に、悟空とあるのがかろうじて見える。
どうやらあのガキの名前は悟空と言うらしい。
それにしても、と、俺は一人ごちた。この結界の残骸は、まるで墓標の列のようだ。
生きながら葬られた妖怪、それがあいつか。

「それにしても悟空とは…。ずいぶん小難しい名前だな。空を悟る者か。」

見下ろすと、あいつはまだ何かを追いかけるのに夢中だ。
そのつもりで見ると、空を追いかけているように見えなくもない。

「そんな大層な名前…。あいつはサルで十分だ。」

俺は苦笑した。
俺より一足先に麓の草叢に降り立った悟空は、岩を飲み込んだように突っ立っていた。
白々と夜が明ける頃の景色は、俺にとっても息を飲むほどに美しいものだった。
風が吹いて、長く伸びた草が悟空のはだしの足をくすぐると、奴は驚いたようにびくんと飛びすさる。
草が波のように風に煽られてたなびくのを、信じられないものを目の前に突きつけられたかのような表情で眺めている。
やにわに腰を落とし、一掴みの草を毟り取る。
ひとしきりその手の上の草を、眺めたり匂いを嗅いでみたりしていたが、納得のいかない面持ちで首を傾げる。
強い風が吹いて、千切った草が飛んでいってしまうと、呆然とした顔になった。

「…何をやってるんだ、あいつは?」

面白いから眺めていると、小さな灰色の蝶がふらふらと飛んできた。
悟空は零れ落ちそうに目を見開いてそれを凝視していたかと思うと、しゅっと手を閃かせた。
飛んできた蝶を掴んだのだ。
その速さといったら、到底人間に真似のできるものではない。そして悟空には手加減という概念もないらしい。
蝶を捕まえるのに、あんなにぎゅっと握る奴があるかと俺は思ったものだが、案の定悟空の広げた手の中には、無残な姿の残骸しか残っていなかった。
だが、悟空には、それがもう空を飛べないとわからないようだった。
手のひらを目に近づけて、一心不乱に見つめている。
ちぎれた羽の一枚がはらりと落ちると、びっくりしたようにそれを目で追った。

「おい、あんまり余計な殺生するんじゃねーよ。」

俺が声を掛けると、振り向いてまた首を傾げる。俺はふと疑問に思った。
こいつは一度も口をきいていない。

「おまえ、もしかして、人語を解さないのか?」

悟空は大きな目をぎゅっと一度瞑っただけだった。
どうやら話せないだけでなく、俺の言っていることもよく判らないらしい。

「…マジかよ、おい…。」

悟空を檻から出すと同時にあの声はやんでいたが、違う種類の頭痛がしだした。
また目の前に観世音菩薩の嘲るような笑い顔が浮かんできた。何がいいものだ。とんだお荷物じゃないか。
俺は懐を探ってタバコの箱を引っ張り出した。
狭いところに何もかも詰め込むから、最後の一本が折れ曲がった淋しい姿になっている。
俺は落ち着くためにそれを咥えた。
ライターを弄びながら考えてみる。
もし悟空が人語を解さないほど低級な妖怪であるならば、あんなにも厳重な結界は必要ないだろう。
とっとと成敗してしまえばいいのだ。
それに元々言霊による結界なぞ、それを理解できないものには効き目がないはずだ。
言葉の意味を知り、理解することで初めて、言霊は威力を発揮できるのだから。
ということは、悟空は封じられた始めの頃は必ず、人語を理解できていたはずだ。それがどうしてこんな状態になってしまったのだろう。

「…五百年の孤独か…。」

呟くと、咥えたままのタバコが鼻先でくらくらと揺れた。
俺がガキの頃、必死になって覚えた古典の経文も、使わないものは片端から忘れてしまった。
五百年も人と接しなければ、言葉も忘れてしまうものなのだろうか。
言葉だけではない。
悟空は、風も草も木立も、まるで初めて見るような顔をしている。
あの小さな頭の中には、切り取られた空しかインプットされていないらしい。
ライターを擦ると小さな炎が灯り、すぐに消えた。どうやらもうガスがないらしい。
タバコもこれでお終いだからどうということはないが、なんとなく忌々しい。
小さな音を聞きつけて、悟空が側までやってきた。だが、決して俺の手の届かない位置だ。
いつのまにか、手にはちゃっかり小さな白い花が握られている。
散々顔を突っ込んでにおいを嗅ぎまわったらしく、鼻の頭には黄色い花粉が付いている。
奴は俺の手の中のライターとタバコを交互に見た。説明を求めるように首を傾げる。俺はうざったくなって、無言のままライターを付けた。
小さな炎を吸い込むようにしてタバコに火を付けると奴の目が真ん丸く開く。
俺は意味もなく得意になった。
すぱすぱと急いで吸い、口の中にためた煙を奴の顔に向かってふーっと吹きかけてみた。
直撃させるには、僅かに距離が足りなかった。
だが狙ったとおり、悟空は仰天し、大慌てで両手を振り回す。
煙を追い払い、ひとしきりむせ返った。その様子がおかしくて、俺はげらげら笑った。
気が付くと悟空が目の前に迫っていた。
避ける間もなかった。悟空はいきなり右手を伸ばしてタバコをむんずと握った。ジュッと肉のこげる音がした。

「きっ!」

妙に金属めいた悲鳴を上げて、悟空は飛び退った。痛みのためか興奮のためか、黄金の瞳にみるみる涙が盛り上がってきた。
埃だらけの顔に涙で何本も筋をつけながら、悟空は俺の顔を睨んでいる。
焼け焦げのついた手のひらをべろんと嘗めて、鼻の頭に豪快にシワを寄せた。

「…馬鹿か、おまえは。」

俺は呆れて呟いた。悟空はすっかり警戒した様子で、俺が動いたらすぐに逃げ出せるように腰を浮かしている。
俺は悟空に投げ捨てられた最後のタバコを未練たっぷりに見つめた。
もちろん火は消えてしまっているし、すっかりばらけてしまっている。到底吸えそうもない。

「本当に何もかも忘れちまってるって言うのか…? もしかして俺が一から躾なおさなくちゃならないのか?」
悟空は俺の言葉を聞いて、わかったのかわからないのか、ううと唸っただけだった。
黄金の瞳がいらいらと揺れている。今ひとつ、俺を敵とするか味方とするか、決めかねている様子だった。

「あああ、まったく、…あのオカマやろう、何が泣いて喜ぶだ。こんなどうしようもない大荷物…。」

俺は頭を抱えた。


 
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