棒のように疲れてしまった足を休める一宿を乞う為に、俺は件の集落に戻った。 悟空は相変らずあちこちに引っかかりながら、遠巻きについてくる。 奴としても、俺を信用しきれないながら、俺についてくるしかないのだろう。 鳥の雛が、卵から孵った瞬間に目にしたものを親と思い込むのと同じだ。本能なんてあいまいな言葉で説明を付けられるものではない。 そいつを信じなければ、未来はないのだ。 もしそいつが敵ならば、そこで命を落とす、それだけの話だ。 俺が集落に入ったのに最初に気づいたのは、薪を拾い集めていた女だった。女は俺の顔を覚えていたらしく、にっこりと笑いかけた。 はにかむような表情を浮かべて、俺が近づくより先に身を翻す。 いかにも田舎娘らしい仕種だ。 せっかく拾い集めた薪を放り出し、女は俺にりんごをくれた爺さんの家へと駆け込んだ。 声高に話す声が聞こえて、爺さんが出てくる。満面の笑みだ。 「ご苦労様なことですじゃ、お坊さま。首尾はいかがでしたかな? どんな姿の妖怪でした? やはり成敗なさるには大変なご苦労がおありんさったじゃろう?」 俺に答えるすきも与えず、矢継ぎ早に質問を繰り返す。 俺は返答に詰まって押し黙った。爺さんはすっかり俺が厄介払いをしてくれたと信じているらしい。 もし俺が妖怪を無傷のまま連れ出したと知ったら、どうするのだろう。 爺さんの声を聞きつけたのか、村人が三々五々集まってくる。 よほど目新しいニュースに飢えているのか、人々の姿は寝起きそのものだったり、中には調理用の包丁を握ったままのものまでいる。 「お坊さま、後ろの子供は…。」 答えない俺の後ろに悟空の姿を見つけて、爺さんは上ずった声を出した。いやな予感がした。 「…拾った。」 「一体どこで…? この先には花果山しかないはず…。」 「どこでもいいだろう。それよりくたくただ。少し休ませてもらえないか。」 爺さんは黙り込んだ。ちらちらと俺の後ろを見ていたが、やがていきなりのけぞり、ぺたんとしりもちをついた。 「! おい、爺さ…。」 「お、黄金の瞳じゃ!」 爺さんの声に、けたたましい悲鳴が上がった。 「花果山の悪魔じゃ! 末世の申し子じゃ! 黄金の瞳の大妖怪じゃ!」 「お、おい…。」 爺さんは今にも卒倒しそうだ。 人垣がさっと崩れた。逃げ出したかに見えた人々は、手に武器を持って戻ってくる。 鉈やのし棒といった生活感溢れる武器だが、人々の目はどれも真剣そのものだ。 神々の封印は五百年経った今も、この集落の人々さえ支配している。 「そんな物を連れ出して、どうなさるおつもりじゃ!」 裏返った声で爺さんが叫ぶ。俺は懐から銃を出した。ひいっと飲み込むような声が上がる。 「これがある。大丈夫だ。もしこいつが不穏な動きをしても、すぐに仕留められる。安心しろ。」 俺は努めて声を抑えた。 人々を落ち着かせるつもりだった。だが、銃を出した時点で俺は大きな失策をやらかしていたらしい。 彼らは目に見えて殺気立っていった。 実の所、俺は殺気なぞ、かつて感じたことはなかった。 蔑みや嫉妬の視線なら、いやというほど体験して来た。時にはそれらが実際に痛みを伴うのも知っている。 だが、憎まれはしても、殺されるまでに憎悪されたことはなかったらしい。 人々の視線に晒されて、俺は襟足の毛が逆立つのを感じた。 しかし、その憎悪の殆どは、俺にではなく背後の悟空に向けられているのだ。 悟空がそわそわと人々の様子を窺っているのが感じられる。 言葉の判らない悟空にとって、突然向けられた殺意は脅威以外の何者でもありえないだろう。 緊張に耐え兼ねたように、悟空が低く唸った。それが引鉄になった。 「出て行け! わしらの暮らしを脅かすな! 魔物と一緒に出て行け!」 叫んだのは誰だったか。握りこぶしほどの石が、俺の袈裟を掠めて落ちた。 驚いて顔を上げると、次々に物が飛んでくる。 子供のような声が、パニックを起こして泣き叫んでいる。すでに説得が通じる状態ではなくなっていた。 飛んでくるものの大半は悟空に向けられている。 悟空は脅えと困惑の入り交じった表情で、飛んでくるものにただ立ち竦んでいる。 全身を取り囲む異様な雰囲気に対処しきれなくなったらしい。次第に刃物までが飛んで来るようになり、屈強の男どもが得物を振り上げるにいたって俺は敗北を悟った。 ここにいては必ず殺されてしまう。 俺は悟空の腕を引っつかむと、ほうほうの体でその場を逃げ出した。 「…あー、ひでぇ目に会った。」 俺は後ろ頭をさすった。でかい瘤ができている。 肩や背中も痛むから、探せば全身に青タンがあるだろう。 村人たちは深追いしては来なかった。 俺たちが集落を離れると、長いこと鬨の声を上げていたようだが、やがて意気揚々と帰って行った。 林というにもあまりにもまばらな木立の中で、俺たちはようやく一息つけた。 悟空はいきなりの人々の豹変ぶりに魂消たのか、しばらくはおとなしくしていたが、すぐに俺の腕を振り解いて蹲った。 まるで毛を逆立てた猫みたいに、俺に向かって唸っている。 「…おまえなあ、俺はおまえを助けてやったんだぞ。」 そう言ってやっても、悟空はじりじりとあとずさるばかりだ。 「…何でこんなの拾っちまったかなー。」 思わずぼやきがもれる。 習慣のように懐をかき回してがっかりした。食い物より、せめてタバコの一箱も調達してくるんだった。 とにかくここにこうしていても仕方ない。俺は重い腰を上げた。 俺が立ち上がったのを見て、悟空がびくっとすくんだ。 「行くぞ、オラ。」 声だけ掛けてすたすたと歩き始める。 何とか今日中に次の集落までたどり着かなければ。二晩も野宿なんてまっぴらだ。 いらいらしながら歩いていたから、妙に静かなのに気づくのが遅れた。 振り返ってみると、必ず俺の顔色を窺うようにしてついてきていた悟空がいない。 俺は首を巡らして、木立の上のほうまで見てみた。しばらく足を止めて待っていても追いついてこない。 「…何やってるんだ、あいつは…。」 俺は一瞬、本気で置いていこうかと思った。だがどうしても、あの縋るような瞳が胸にこびりついている。 しばらく逡巡し、それから舌を打ち鳴らして、俺は元来た道を戻った。 悟空は、さっきの場所からたいして離れていない所でまだ蹲っていた。 なんだか変な格好をしている。小さく背中を丸めていて、頭が膝より下に下がっている。俺が近寄っても気付かない。 「おい、何してる。」 声を掛けると、よほど驚いたのか数センチ飛び上がった。 両手を地面に付き、低い姿勢で地べたに這いつくばって、俺を見上げて唸る。だが、なんだか動きが変だ。 よく見ると口の周りに血が付いている。奴は無意識に舌なめずりをして、その血の甘さに歯ぎしりをした。 「その血はどうした。見せてみろ。」 俺はずかずかと踏み込んだ。悟空は逃げ出そうとして顔を顰めた。 かばうように抱え込んでいた腕が離れて、悟空の白い足が見えた。 「…あーあ…。」 それしか言葉にならなかった。 悟空の白い、ふくふくした足の裏がざっくりと切れていた。 鋭利な刃物で切られたと思しいそれは、きっとさっき投げられた鉈だの包丁だのの一撃だろう。こんな足ではついてこれなかったわけだ。 悟空はそれを嘗めて治そうとしていたらしい。 よく見ると、その他にも悟空は傷だらけなのだった。 考えてみれば無理もない。さっきの村人の標的は、俺ではなく悟空だったのだ。 俺がこれだけ痛い思いをしているのだから、本来の標的たる悟空はもっと痛い思いをしていてしかるべきだろう。 「こんなんが嘗めて治るか。バカザルが。」 俺は袈裟の、なるべくきれいな部分を選んで引き裂いた。 足の裏ということもあって、悟空の傷からはまだ血が溢れ出している。 とりあえず血を止めるだけでもと思ったのだ。悟空はじたばたと暴れたが、かまわずに足首を掴んだ。 こうして触れると、実際こいつはガキだった。細っこいし柔らかい。 だが、そんなのんきなことを考えていられたのは一瞬だった。悟空が俺の耳元でぎいっと喚いた。 「! っ痛うっ! この野郎!」 悟空が牙を剥き出して、俺の腕に齧り付いたのだ。 尖った牙は着物を破り皮膚を貫き、たちまち指先にまで血を滴らせた。 俺の腕を握り締めている両手の爪も、いつのまにか伸びて俺の腕に食い込んでいる。痛みのあまり頭に血が上った。 「放せっ! このバカザルがっ!」 俺は拳を振り上げた。渾身の力を込めて、だが、俺はその拳をこのガキに叩き込むことはできなかった。 黄金の瞳が強ばったように見開かれている。 閉じることもできないくせに、俺と視線を合わすこともできないでいる。 その奥に見えるのは紛れもない脅えの色だ。あの目には見覚えがある。 ガキの頃何かと辛く当たる先輩たちに負けるものかと歯を食いしばりつづけていた俺と同じ目だ。 こいつはずっと恐ろしかったのだろう。 いきなり開放された世界は信じられないほど広く、見えるもの触れるものすべてが見知らぬ物だ。 言葉の通じない俺は何かというと怒鳴ってばかりで、さぞ近寄りがたかったろう。 そしてあの村人たちの豹変だ。 この小さい仔ザルには、世の中のものすべてが敵に思えたに違いない。 俺にはまだ師匠がいた。だが、こいつはまったく一人なのだ。 俺は何とか苦心して、拳を開いた。 ぎりぎりと俺の腕に食らい付いている茶色い頭をぽんぽんと叩き、次にわしわしと髪の毛を掻き回してやった。 指先に必要以上に力がこもってしまったが、それはまあ仕方ないだろう。 俺の手が触れると、悟空の肩がびくんと跳ね上がった。 ますます痛みが増したが、俺は諦める気はしなかった。 黄金の瞳がおずおずと俺のほうを向く。 威嚇するような鼻の頭のシワは取れていないが、それでも視線に戸惑いが混じっている。 恐れを含んでいた視線が少しずつ落ち着きを取り戻してくる。悟空は真正面から俺の顔を見つめた。 初めてまっすぐ見つめられた気がした。 「気が済んだか。」 何とか声を落として言う。 それでも強張ったままだった悟空の表情から少しずつ威嚇のシワが取れていく。 俺の目の前で爪が引っ込み、長い時間をかけて、やっと悟空は牙を離した。 俺は悟空の頭を引き寄せて、胸の中に抱きかかえてやった。抱え込むと、悟空の体は見えるよりもだいぶ華奢だった。 緊張しているのか少し震えている。俺はさっきよりはずっと優しく頭を撫でてやった。 怯えたガキを宥めすかすには、頭を撫でてやるに限る。 温かくて小さい体を抱きかかえながら、俺はこんなことが以前にもあったような気がしてならなかった。 記憶の隅にも残らないほどの遠い昔に。 「落ち着いたか。…もう恐くないだろう。」 静かに声を掛けると、悟空の体から目に見えて緊張が解れた。 すっかり安心したように身を預ける悟空を見て、俺はもう一度奴の足に手を伸ばした。 悟空は俺の手を目で追っていたが、今度は抗おうとしなかった。 傷に包帯代わりの袈裟の切れっ端を巻いてやると、少し痛むのかすすり泣くように鼻を鳴らす。 だが、表情にも黄金の瞳にも、狂暴さはかけらも表れなかった。 悟空の足の傷は結構深くて、巻いた布の下からもじんわりと血が滲んでくる。 俺が手を放すと、悟空は待ち構えていたようにすぽんと俺の胸に納まった。顔を上げて、俺の顎の下あたりに鼻を突っ込む。 くんくんと匂いを嗅ぎまわられて、さすがに気恥ずかしくなった。 「おい、あんまりひっつくなよ。」 軽く頭を引き剥がしてやると不満そうな顔をしていたが、やがて驚いたように目を見開いた。視線の先には俺の手があった。 「ああ、そうか…。」 手に二筋ほど、血が流れている。 さっき悟空に噛み付かれた跡だ。着物がクッションになったのか、あれだけ痛かった割に出血は少ない。 だが、悟空はなんとも切なそうな顔になった。自分が俺に害を成したとちゃんと分かっているらしい。 「…そんな顔すんな。たいしたことないから。」 俺の言葉が判ったのか判らないのか、悟空は捧げ持つように俺の手を取った。 どうするのかと見ていると、もう半分乾きかけた血をぺろぺろと嘗め出した。 暖かくて柔らかいガキの舌が俺の手の上を這いまわるたび、俺は妙にくすぐったくて身を捩った。 「…まいったね、こりゃ。」 どうせ悟空の足の傷は深くて、すぐには歩けそうにもない。 奴のしたいようにさせていると、次には伸び上がって俺の頬を嘗め出した。そこにも小さな擦り傷があるようだ。 「仔ザルを拾ったつもりだったのに、犬でも拾ったみたいだな。」 悟空はまったく無遠慮に、俺の唇の端をべろんと嘗めた。そこにも傷があるようだったが、俺は一瞬どきりとした。 悟空は散々俺のことを嗅ぎ回って、やっと満足したらしい。 俺のことを飼い主だとでも認めたのか、妙におとなしくなってしまった。 俺の胸に鼻をうずめたまま、すっかり腰を落ち着ける様子だ。 悟空の体は嘘みたいに重みもなくて、俺はなんだかあきらめに近い気分になっていた。 難を言えばもう少しあの集落から離れていたかったが、悟空の足の傷を見てしまった後ではそれも無理だとわかっていた。 「しょうがねえなあ、まったく。」 呟くと、黄金の瞳が不思議そうに見上げる。俺はくすぐったくなった。 少しうろたえて身動きすると、袂が何かに引っかかるように感じる。探ってみると、中からしなびたりんごが一つ出てきた。 あのじいさんに施してもらった奴の最後の一つだ。 あんなに無茶苦茶に走ったのに、よく落ちなかったと俺は感謝した。 袂からそのりんごを引っ張り出すと、悟空の目がまん丸になった。 俺はマジックでも披露した気分になった。しかし見れば見るほどしけたりんごだった。 痩せた土地にお似合いの小ささで、りんごというよりは、大きめの姫りんごといったほうが正しそうだ。 悟空が俺の手元に鼻を近づけた。 くんくんと匂いを嗅いで、芳香にうっとりと目を細める。 俺は両手でりんごを持った。力を込めると、それは容易く二つに割れた。 「ほれ。」 俺は片割れを悟空に与えた。悟空はおっかなびっくり受け取って、目をぱちぱちさせている。 「食え。妖怪だって腹が減るんだろう?」 俺はてっきり遠慮しているのかと思っていた。だが、悟空はためつ眇めつしているばかりで、一向に手を出そうとしない。 「…まさか…。」 そのまさからしかった。悟空は食い物のこともすっかり忘れているのだ。 口に入れて咀嚼する、そんなことは教わらなくても知っているものだと思っていた。 「おまえなあ、食うなんてことは生きてく上で最低限必要なことだろう? 何でそんなことまで忘れちまうんだよ!」 思わず大声を上げると、膝の上の体がびくっと竦む。申し訳なさそうな顔をする悟空を見て、俺は自分に腹が立った。 あの洞窟に、自給自足の形跡はなかった。 五百年間飲まず食わずで生きていけるのなら、あるいは食べ物のことを忘れても無理はないのかもしれなかった。 俺はため息を吐いた。 こいつと出会ってしまってから、何度ため息を吐かされたか分からない。 自分の分のりんごを一口噛み切った。見た目どおり酸っぱくてうまくもないりんごだ。 「…口開けろ。」 言っても分からないようなので、俺は自分の口をあんぐりと開けて指で示した。 悟空は不思議そうに見つめていたが、ややあって真似をする。俺はそこにりんごを放り込んでやった。 悟空は何がおきたかわからない様子だった。 目を白黒させて、慌てて口の中のものを吐き出そうとする。予測がついた俺は難なく奴の口を押さえた。 ピンク色の唇は、ふわふわと柔らかかった。悟空は一瞬噛み付こうとしたようだ。 だが、俺の顔を見上げて、今にも泣き出しそうな目をして俺を睨むに留めた。 悟空には異物を体の中に入れられたとしか思えないらしい。 「ゆっくり噛め。それから飲み込め。」 内心俺は、こんなことを教えるのに何の意味があるのかと思わないでもなかった。 こいつが飲まず食わずでも生き抜けるのなら、食事をすることを教えるのは何の意味もない。 それどころかもしかしたらこいつにはマイナスになるかもしれない。 いつでも食料が豊富にあるとは限らないわけだし、飢えは大きな敵になるはずだ。 それでも俺は教えておきたかった。 物を食う。考える。 いろいろな事を楽しむ。 そうして初めて人は人になっていくのだ。ただ生きているだけなら死んでいるのと何ら変わらない。 やはり悟空には俺の言葉は理解できないようだった。 俺が大きく口を動かして咀嚼する真似をし、実際にりんごを食べて見せることでようやく奴は俺が何をさせたがっているのか分かったようだ。 おどおどと俺の顔色を窺いながら、ゆっくりと噛み締める。 シャリと小さな音が漏れて、悟空はぎゅうっと顔をしかめた。酸っぱかったらしい。 「大丈夫だ。ほら。」 もう一口食べて見せると、今度は強要しなくても顎を動かす。 しかめられていた顔が次第に呆けた顔になってくる。 たっぷり百回は噛んで、いいかげん何もなくなったろうと思える頃、ようやく悟空はそれを嚥下した。 滑らかな白い喉がゆっくりと蠢く。生まれ落ちた赤ん坊が初めての呼吸の痛みで産声を上げるように、悟空は泣き出しそうな顔をしていた。後は教えるまでもなかった。 悟空は手にしたりんごにゆっくりと齧りついた。 口の端からぽろぽろと欠片を落としたりする。 ずいぶん不器用で食うというよりはついばむというような様子だったが、半欠けのりんごがなくなる頃にはだいぶましになった。 「あーあ、きったねえなあ。もっと上手に食えよ。」 言いながらも、俺は軽い罪悪感を感じていた。五百年ぶりの食事がこんなしなびたりんごというのは、あまりにも不憫だ。 だが、悟空にはそんなことを感じる余裕もないらしい。 自分の手元から、りんごが種も芯も残さずに消えると、今度は俺の分をものほしそうな目で見る。 よだれまで垂らすので、俺は仕方なくもう半分も手渡した。 悟空のゆっくりだった食い方ががつがつになるのはあっという間で、すっかり平らげると手の平までべろべろと嘗めた。 「…もういいだろが、バカザル。」 いつまでも指を咥えているので、無理やり引き剥がすと、不満そうにううと唸った。俺は苦笑いして、悟空のほっぺたをつまんだ。 「食って満足したんなら、もちっとうまそうな顔しろ。おまえは怒ったり泣いたりするくせに、ちっとも笑わないな。」 悟空は顔をぶるぶると振って、俺の手を払い除けた。 特に嫌そうな様子でもないが、嬉しそうにはまったく見えない。 この顔は嬉しそうな表情ができなくなってしまっているのではないかと俺は本気で訝った。 風が吹いてきて、遠くで高く鳴く小鳥の声を運んでくる。悟空が俺の膝の上で跳ね起きた。 首を傾げ、音の方向を探るように巡らす。 青い小さな小鳥が高い梢から飛び立った。 それを見つけた悟空の瞳に喜色が満ちる。俺はいきなり襟元を掴まれて驚いた。 悟空は俺の膝の上に腰を据えたまま、もどかしそうに俺の顔と空とを交互に見上げている。 やがて、たまりかねたように胸を反らして唇を尖らせた。 ひいよ 「ああ?」 俺は我が耳を疑った。 一言も人語を話さないはずの悟空の喉から漏れた第一声は、人の言葉ではなくて、空に舞う小鳥そのものの声だった。 悟空は俺の驚きなどまるで無視して、手をぱたぱたと後ろで組み替えた。 小鳥が羽繕いをしているような格好だ。 人間と同じ作りのはずの喉のどこからそんな声が出るといいたくなるような高い声で、悟空は鳴く。 ひいよひいよひいよひーーーーるるるるるるる… 羽音が近付いてきた。青い小鳥が数羽、近くの枝に止まった。 悟空がよくするのと同じように首をちょこんと傾げる。 悟空は目を輝かせた。 だが、小鳥たちがそれ以上近付いてこないのを知ると、不思議そうな顔になる。 悟空にはもしかしたら、小鳥たちと自分との相違が判らないのかもしれない。俺は思わず悟空の頭を撫でていた。 黄金の目が不満そうに俺の顔をみつめる。 奴には何もかも不思議で仕方ない様だった。俺が頭を撫でくりまわすのも、小鳥たちが側によってこないのも。 「あいつらが、おまえの唯一の友達だったんだな。」 悟空は俺の話に耳を傾ける様子を見せずに、しばらく小鳥の声で鳴いていた。 だが、結局彼らは悟空が望むほど近くには来ず、やがて鳴き疲れたように悟空は口を閉ざした。 尖らせたままの唇をしてみつめられて、俺は詰られているように感じた。 すっかりしょぼくれてしまった悟空の頭を俺はぽんぽんと叩いた。 「いいんだよ。おまえには俺がついているじゃないか。」 きょとんとした目で見返すので、思わず苦笑が漏れる。 「言葉を教えてやらなくちゃな。まったく、食うことだの、言葉だの、手間が掛かる…。」 言いかけて俺は言葉を飲み込んだ。 「おい、まさか…、糞小便の仕方まで俺が教えてやらなきゃならないんじゃないだろうな!」 悟空は目をぱちくりさせるばかりで、もちろん答えなかった。 「…ここまでたどり着くのはたった三日だったって言うのに…。」 俺は木陰に座り込んで愚痴を垂れた。 悟空は川辺にぺたんと座って、流れる水に夢中になっている。手を突っ込んではきゃいきゃいと動物めいた声を上げて大騒ぎだ。 雨の滴なら多少は目にしただろうが、流水というのは記憶にないらしい。 くるりと振り向くと、俺に向かってうーうーと声を上げる。俺を呼んでいるようだ。 「おい、いいかげんに覚えろ。俺は三蔵法師だ。さ・ん・ぞー・様!」 「う?」 「…おまえ、覚える気、ないだろ。」 噛み砕くように言ってやっているのに、悟空は首を傾げるだけだ。 俺はあきらめてひっくり返った。 悟空を連れての旅は、まさしく珍道中になってしまった。 まず、車を捕まえることができない。ここへの往路は、ヒッチハイクをしてきた。 元々交通量の少ない道ではあったが、いつも殊勝に拝むふりでもすれば、通りかかる車はたいていが止まってくれた。 中には親切にわざわざ遠回りをしてまで送ってくれた者もあった。 それだけこの田舎では坊主は珍しく、尊い者らしい。それが、子連れになったとたんにうさんくさくなるようだった。 仕方なく俺たちは、村から村へと行脚をするしかなかった。 悟空はあの一件以来、すっかり俺になついてしまって、俺の言う事なら何でもよくきいた。 言葉が通じているのかどうかは疑問だったが、俺が黄金の目を隠そうと袈裟を被せればおとなしくそのままになっているし、俺の手から与えられる物以外は決して口にしようとしなかった。 それでも、妖怪の匂いとでも言う物があるのだろうか。 たいていの村で、悟空の正体はあっけなくばれてしまい、俺たちは早々に引き上げるはめになった。 すっかり人間が苦手になってしまって、小さく背中を丸めているだけの悟空に、村人たちは容赦ない攻撃を加えるからだ。 花果山の大妖怪の噂は、驚くほど広範囲に流布されていた。 俺はタバコをふかして顔をしかめた。やっとのことで手に入れたタバコだが、癖が強く、お世辞にもうまいとは言えない。 一本吸うとあまりのえぐみに舌が痺れたようになるため、それ以上吸うのは無理だった。 「ああ、いいかげん屋根のあるところで眠りたいぜ。」 ブツブツ言っていると、悟空が振り向いて思い切り嫌な顔をした。 俺がタバコを咥えているのが気に食わないのだ。 悟空の苦手なものは人間の他にあと二つあった。炎と洞窟だ。 一番初めに下手にからかって、やけどをさせてしまったことは大失敗だった。 悟空はライターと炎の因果関係をよく覚えていて、俺がライターを出すと全身の毛を逆立てる。 そろそろ晩秋にさしかかろうという今の季節は、夜など野宿は辛くて火を熾すのだが、そうすると悟空は決して近づかなくなってしまう。 わざわざ木の上に退避して煙をかぶり、ますます嫌いになったようだ。 そして洞窟。 これは言うまでもない。幽閉の生活を思い出すのだろう。 入ったら二度と出られないとでも言うように、酷く怯える。 俺が風をよけるために一人で入っていっても、絶対についてこない。 入り口のところで座り込んだまま、いつまででも恨みがましい目で見ている。おかげで俺まで洞窟には入れなくなった。 俺もたいがいお人よしだと思うが、あんなに哀れっぽい目で縋られてそれでも振り切ることなど、とてもできそうにない。 悟空があんまり静かなので気になって目で追うと、奴は少し離れたところに座り込んで川面を眺めていた。 「おい、悟空。」 声をかけても振り向かない。俺は側まで行って、何を覗き込んでいるのか見てみた。 悟空は低く唸っていた。 そこは淀みになっていて、降り注ぐ陽光に水面は鏡のようになっていた。 悟空はその水鏡に映った己の姿に向かって威嚇の声を上げているのだ。 「…本当に、バカか、おまえは。」 近づいた俺の姿が水鏡に映ると、悟空はギョッとした顔になった。 しばらく呆けたように水面を見ていたが、やがて忙しく俺の顔と水面とを見比べる。やっと自分の姿が映っていると理解したらしい。 「納得行ったか? バカザル。」 納得行ったらしい。悟空は唸るのを止めた。 今度は手を振ったり首を動かしたりして、自分の姿を検分している。楽しんでいるのかと思ったら、突然乱暴に水面を掻き回した。 「うわっ、こらっ!」 跳ね飛んだ飛沫が俺のほうにまで降ってくる。悟空は歯を剥き出し、躍起になって水面と格闘していた。 悟空の影が千々に乱れて消えた。だがしばらくすると、当然水面は穏やかになり、影は又姿をあらわす。 悟空は完全に初めて見たときの凶暴な顔になっていた。 片手だけでは足りず、両手を使って水面を掻き回す。もうすっかり頭からずぶ濡れになっている。 「なにやってんだ、バカザル。」 あまり聞き分けがないので、頭をゴインと殴ってやるとようやく悟空は動きを止めた。 俺に一旦抗議の声を上げてから、もう一度水面に向き直る。 すっかり静けさを取り戻した水面に、もう一度そろそろと手を伸ばす。悟空が狙っているのは、自分の影の瞳だった。 何度水面に挑んでも変わらない黄金の瞳に焦れたように、悟空は握りこぶしを自分の両目に当てた。 ぐりぐりと思い切り擦っては水面を覗くことを繰り返す。俺にも次第に分かってきた。 悟空は自分の忌み嫌われる黄金の瞳に何かを思い出したらしい。 言葉を思い出すよりも印象的な何がその瞳に映されたというのだろう。悟空は低く威嚇の声を上げながら、まだ目を擦っていた。 喉の奥から漏れる声が、むせび泣きのように聞こえる。擦りすぎて瞼の柔らかい皮膚が赤くなってしまった。 「おい、いいかげんにしろ。」 俺は堪りかねて悟空の腕を取った。 悟空は邪魔するなとでも言いたげに俺を睨み付ける。 擦りすぎのせいなのかもしれないが、大きな瞳に薄く涙が滲んでいて、俺は思わず言葉に詰まった。 「…いいか、その瞳が金色だと思うから禍禍しいんだ。おまえのその目は琥珀色だと思え。」 悟空は唸り声を上げる。それで何が変わるとでも言っているのだろうか。 「…わかったな。おまえのその目は琥珀色だ。本物の琥珀みたいに、中に何かを閉じ込めているんだろう。おまえのその目は魔性じゃなくて、神秘なんだ。わかったな。」 俺の真剣な口調に気圧されたように、悟空は唸るのを止めた。掴んでいた腕からも力が抜ける。 やっと自分で自分を傷つけるようなことは止める気になったらしい。 「本当にいちいち手間がかかるんだよ、おまえは。」 うつむいた頭の天辺をぐりぐりと撫でてやると、手がびしょびしょになった。 悟空の全身から雫がぽたぽたと落ちていて、あたりの地面を黒く染めている。 「…おまえ、服全部脱いで、濡れたついでに行水しろ。泥だらけじゃねえか。」 言っても分からない様子なので、服を剥ぎ取ってやる。 濡れた生地は皮膚に張り付いていて、毟り取るのに苦労した。 五百年も着たきりの割にはしっかり下着まで着けている。気に入った女にもここまでしてやらないのにと思ったら急にバカらしくなった。 全部剥いてから、水の中に蹴落としてやった。 悟空は膝ほどの深さの川の中で呆然と腰を落としている。 俺の行為に驚いたのではなくて、水の冷たさに驚いているようだ。瞳がひっきりなしに水面を追っている。 俺はなんだか癪だった。 「服を干しといてやるから、しっかり水浴びしろ。五百年分の汚れだろ。それから、魚でも捕まえてみろ。今夜の夕飯だ。どうせ今夜も野宿だろうからな。」 俺が声をかけている間も悟空は放心状態だった。 余計に濡れた髪から払っても払っても垂れてくる雫を呆けたように見つめている。 あまり間近なものを見つめているので、瞳が中央によって、なんとも頓狂な顔だ。そのうちにひゃいっと妙な声を上げた。 川魚が悟空の陰からすいっと泳ぎ出す。 滑らかなうろこに肌を撫でられて驚いたらしい。悟空は自分の尻を撫でたものの正体を見ると、眼の色が変わった。 手が電光石火で動く。たちまちその川魚が岸辺でぴちぴちと跳ねた。 「…おーおー。」 俺は投げやりに感嘆の声を上げた。こんないいかげんな誉め言葉でも、悟空のやる気を引き出すのには十分なのだ。 悟空は俺に誉められたとでも思っているのか、魚取りに夢中になった。たちまち数匹の魚が岸で跳ねる。 「今夜食う分だけでいいんだぞ。俺は一応坊主なんだからな。余計な殺生するなよ。」 言っても無駄だと思ったが、言わずにはいられない。 それに、どれだけ大量にとっても、どうせ悟空が平らげることは目に見えていた。 一旦食うことを思い出した悟空は、底なしの大食漢だった。 「おい、今夜は何が何でも火を使うぞ。生魚なんか、食えたモンじゃないからな。」 返事を期待しないで言ってみると、悟空は腰を伸ばして不思議そうに振り返った。 ちょっと小首を傾げて、また水面に向き直る。 得物を追うきらきらと輝く目は、幼い人間の子供と何ら変わりない。 俺に向かって突き出した白い尻が、日の光を浴びて艶やかに輝いている。少女みたいにつるつるの尻だ。 「…こうして見てると、ちょっと色素が薄いだけのただのガキなんだがな…。」 俺はぼんやりと呟いた。日光にあたることが久しくなかった悟空の肌は、晩秋の穏やかな陽光の中でも輝くように白い。 若木みたいな手足はまだまだ伸びるだろうし、引き締まった肌にもあどけない顔にも、妖怪の持つ淀んだような暗さは微塵も感じられない。 黄金の瞳さえなければ、悟空はもっと愛されてしかるべきなのではないか。 「おまえ、その目玉で大損してるよな。」 「そこにいるのは誰?」 不意に高い声が掛けられた。 油断していた俺たちは、すっかり不意を衝かれた。木陰から水汲み用の桶を持った女が姿をあらわす。 悟空は飛び上がると、一目散に俺の側まで転げてきた。 俺の袂の陰に身を隠すようにしてううと唸る。女は覗き込むようにして俺たちを見つめた。 これまでのパターンで行くと、女はじきに魂切る悲鳴を上げて逃げ出すはずだ。 俺は舌打ちをした。 面倒なことにならないうちに、トンズラしたほうがよさそうだ。だが、予想外の反応が返ってきた。 「あら。」 女は悟空の裸身を見て楽しそうに笑い、俺に向かって軽く会釈をした。 |