「驚かないのか?」

俺は女の後をついて歩きながら問い掛けた。女は無防備に俺たちに背中を向けて歩いている。振り返ると、長い髪が揺れた。

「どうして?」
「…こいつの目を見ただろう。」
「妖怪なんでしょう。珍しくもないわ。だって、ほら。」

女は笑いながら髪をかきあげた。人間にしては尖った耳が現れる。

「おまえも妖怪か。」
「正確にはハーフね。父さんが妖怪だったの。もういなくなってずいぶん経つけど。」

悟空がぐいぐいと俺の袂を引いた。俺が女と言葉を交わしているのが気に食わないらしい。

「あなたたちの噂は聞いてるわ。」

女は思い出したように気楽な口調で言った。悟空がますます俺の袂を引く。

「黄金の瞳の大妖怪を連れたいんちき坊主がこの辺をうろついているって。」
「いんちき坊主…。」

俺は思わず絶句した。
三蔵法師として人に崇められることに慣れた俺には、いんちき坊主という呼称は酷く屈辱的だった。

「何でそんな噂が…。俺たちは誰とも行き会わなかったぞ。」
「だって、伝書鳩たちがいるもの。」

女は笑いながら説明した。
交通の便が乏しいこのあたりの村々にはそれぞれ伝書鳩がいて、天候のことだとか作物の病気のこと、盗賊の噂なども余さず伝えられるらしい。
俺は盗賊と一緒くたにされたと知って、ひとしきりむくれた。

「でも、私はあなたたちが悪い人とは思えない。妖怪だって悪い人ばかりじゃないもの。うちの父さんみたいに。」
「だが、…いいのか? 俺たちはいわばお尋ね者だろう? そんなのを家に連れ帰ったりして。村人たちの目もあるだろう。」
「いいのよ。うちは村のはずれで誰も来ないし、お坊様に施しをすれば、きっと父さんも母さんも極楽へ行けるんでしょう。この先はもうずっと集落もないし、たちの悪い妖怪たちがうようよしてるって噂よ。それにその子…。」

女は振り返って悟空を見た。悟空はさっと俺の後ろに隠れる。
顔を半分だけ俺の後ろから覗かせて、警戒心丸出しのしぐさだ。

「…もう水浴びをさせるには遅いわ。可愛そうに、真っ青じゃないの。暖かい洋服と食べ物をあげるわ。いくら妖怪だからって、病気ぐらいするのよ。」
」「そうか? こいつがこんな殊勝な玉とは思えないが…。」

俺がもごもごと呟いていると、いいタイミングで悟空がくしゃみをした。
俺は思わず悟空を睨みつけたが、その途端女に白旗を上げる気になった。
濡れたままの衣服を無理やりに着た悟空は女の言うとおり真っ青で、唇を震わせていた。
はだしのつま先など、紫色になってしまっている。

「風邪なんか引かせたら、三蔵様の責任よ。」

俺にはぐうの音も出なかった。


 女の家は、村はずれというよりは森の中の一軒家だった。
女が物騒だという森の中の川まで水を汲みに来る理由が、そこを訪れて初めて分かった。
村の中央にあるだろう共同井戸よりも、川の方が数倍近いのだ。

「入って。狭いところだけれども。」

女はそう言ったが、案の定悟空は歯を剥き出して怒った。
悟空にとっては洞窟も小屋も大した代わりはないらしい。
入り口に突っ立ったまま唸りつづけている悟空を見て、女は途方にくれた顔をした。

「どうしたの? 入ってもいいのよ。」
「こいつは屋根のあるところは嫌いなんだ。」
「そうなの。」

女は驚いた顔を隠そうともしない。しばらく立ち止まって考え込んでいたが、やがて家の中からカップを持ってきた。
白い湯気と一緒に、温かい懐かしい匂いがする。

「ミルクをあっためたの。飲んで。寒いでしょう。 …三蔵様には御酒の方がいいわよね。」

俺に対する施しはほんの付け足しらしい。
女がカップを持って近づくと、悟空は後ずさりしながら唸り声を上げた。
それにしてもこの女には悟空の凶悪な表情が目に入らないのだろうか? 
悟空は牙を剥き出して今にも噛み付きそうなのに、一向に頓着しないのだ。俺はたまりかねて声を掛けた。

「悟空、いいかげんにしろ。」

悟空はぴたりと唸るのを止める。だが、強張った表情で女を睨むのはやめない。

「美味しいわよ。ほら。」

女は半ば強引に、悟空の手にカップを持たせた。
本当に恐いもの知らずの女だ。
見知らぬ俺たちを自宅まで連れてくる無鉄砲さといい、悟空の威嚇の表情にもびくともしない豪胆さといい、只者ではないと思わせる。
悟空は伺いを立てるように俺の方を見た。
手にしたカップをどうしていいか分からないようだ。俺はくいっと顎をしゃくった。

「飲め。」

悟空は恐る恐るカップに鼻を近づけた。ふんふんと匂いを嗅ぎ、そうっと嘗める。
ミルクの柔らかい甘さは初体験なのか、それは驚いた顔をした。
初めは舌を伸ばして猫みたいにぺろぺろとミルクの表面を嘗めていたが、やがて人のするようにカップの縁に口をつけることを覚えたようだ。
俺は熊の仔にでも芸を仕込んでいる気分になった。赤ん坊が哺乳瓶を持つように両手で大事にカップを抱えて、悟空はミルクを飲み干した。

「美味しかったでしょ。」

女はまたも無防備に悟空に手を伸ばした。俺はひやりとした。悟空は俺以外の者が触れるのを決して許さない。
だが、女が悟空の頭に触れても、何も起こらなかった。
悟空はびくりと全身を震わせて硬直させたが、逆らわずされるままに頭を撫でさせている。
一瞬胸がきりりと痛んだ。


 女が洗濯物を干している脇で、悟空が赤くなった蔦に夢中でじゃれついている。
軽く手を触れるとふらふらと揺れるのが気に入ったようだ。俺はそれをわき目で見ながら、そうっと足音を忍ばせた。
見つからないように小屋を出たかった。

「あら、三蔵様、お出かけ?」

だが、女が目ざとく声を掛ける。悟空はひょこんと体を起こして、俺の方をじっと見た。

「村へ行って、冬支度をしてくる。いつまでもここでのんびりしているわけにもいかないしな。」

まさか、女を買いに行くとは言えない。女は意味ありげに笑うと、悟空を見た。

「悟空ちゃんは? 連れて行かなくていいの? 悟空ちゃんの物だって買うんでしょう?」
「そいつを連れて行くと、余計な騒ぎになる。」
「…だって。お留守番よ。悟空ちゃん。」

女は悟空に語りかけた。
悟空はよくわからないといった顔で、女を見上げた。
 女の世話になるようになってから、もう五日ほどが過ぎている。
女は一日中家にこもって機を織った。素人の俺から見ても見事なその布が、女の唯一の飯の種だった。
織りあがった布が数反たまると村へ行き、幾ばくかの金を稼ぐ。
そして必要なものは買い、あとは裏庭の畑で自分が食う分だけを賄う。
それが女の生活のすべてだった。

「村には住みたくないの。色々わだかまりもあるし、口うるさい人はどこにでもいるし。」

女は少し淋しそうに肩をすくめた。人間と妖怪のハーフである彼女は、辛い目に会いつづけて育ったらしい。
だからきっと悟空にも必要以上に親切なのだ。

「だけど、この土地を離れる気はないの。父さんと母さんのお墓があるし、何よりもここが好きだから。」

機を織る手を止めて、珍しそうに眺めていた悟空の頭を撫でる。
悟空はくすぐったそうな顔をした。

「でもやっぱり、時々人恋しくなっちゃうの。だからこうやって、旅のお坊様とその愛弟子さんをお招きしたりするのよ。」
「…愛弟子じゃねえ。」

俺は憮然と言った。
俺は悟空の飼い主のつもりなのに、女には俺が悟空を慈しんでいるように見えるらしい。
女はころころと笑った。

「こんなに大事に可愛がっているのにねえ。お坊さんがいちいち手ずから食べ物を与えたりするんだから、愛弟子に決まってるわ。」

悟空は俺と女との顔を交互に見上げて、ずっと不思議そうにしている。
その様子も癪の種だった。
俺にしか懐かない筈の悟空は、あっという間に女に懐柔されてしまっていた。
ビクビクしながらも家の中にも入るし、暖炉をつけても逃げ出さない。
相変らず火は恐いらしくて近づきはしないのだが、俺にするように毛を逆立てたりはしないのだ。
女の家に厄介になるようになって、悟空は調理された食い物の美味しさも覚えた。
女が料理するものは、俺の手を経由させなければならないとはいえなんでも食った。
そして女が側にきても体に触れても、唸り声を上げなくなった。
俺はそんなことを思い出していらいらした。悟空は安心しきった顔で耳の後ろかなんかを掻いている。
飼いならされて家の中しか知らない猫みたいで、俺はますます腹が立った。

「…行って来る。」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね。」

のどかな声に送られて、俺は久しぶりに青筋を立てた。


申し訳程度に冬物を買い込み、俺は目的である宿に着いた。
壁の朱色も毒々しい、一目でそれとわかる宿で、ご多分に漏れず坊主だろうがなんだろうが拒まない。
どんな田舎の小さな村にも、こういった宿は必ず一軒はあった。
宿の親父に観世音からもらったゴールドカードをかざして見せると、親父は一瞬呆けた顔をした後、脂下がった顔をした。
まさか観世音も、自分が与えたカードをこんなところで使われるとは思ってもいまい。
そう思うと、ほんの少し愉快だった。

「さあ、お坊様。どうぞどうぞ奥の部屋へ。一番の売れっ妓がちょうど空いております。ご存分にお楽しみください。」

親父は揉み手をした。もしここに悟空がいたら、こんな扱いはまず望めないに違いない。
狭い梯子段を上って通された部屋は、下品な真っ赤なじゅうたんを敷き詰めた部屋だった。
寝台に寝そべっていた女がむっくりと体をもたげる。
俺はその途端に舌打ちしたくなった。こんな女が一番の売れっ妓とは。
ぶよぶよとした肌に、不健康な赤茶けた髪。せめて悟空ほどに肌が白ければと思い、そんな自分にギョッとした。

「上得意様だ。粗相のないように、しっかりお相手するんだよ。」

親父が言うと女はぼんやりとした笑顔を作り、俺に手を差し伸べた。
俺の後ろでドアがパタンと閉められる。俺はがっかりしながら女に歩み寄った。


「お坊様、どこから来たの?」

女が俺の髪に指を絡ませながら聞く。俺はなるべく女の顔を見ないようにしてタバコの煙を吐き出した。
女を抱くのは一月振りだが、なぜかちっとも夢中になれなかった。
機械的に体を動かし、たまっていた欲望を叩きつけると、女はいかにもわざとらしい嬌声を上げた。
することをしたあとはもう女を振り向く気もしなかった。ただ羽根布団の感触が嬉しくて、俺はごろごろと怠惰に寝そべっていた。
俺の様子に焦れたように、女が俺の髪をくいくいと引っ張る。
俺はせっかく久しぶりにありついたうまいタバコの邪魔をされたくなくて、しぶしぶ女に向き直った。
平坦な顔に厚い化粧で、こんな辺ぴな村でなければ夜鷹も勤まるまいと思える顔立ちの女だった。
しかし女はともかくタバコはうまい。
そのことだけでも、俺はこの宿によってよかったと思えた。

「どこだっていいだろう。」
「ああん、そっけないのねえ。それじゃ、どこまで行くの?」
「…どこだっていいだろうが。」
「そんな恐い顔しないでよ。」

女は思い切り睨みつけた俺を恐がりもせず、ケタケタと笑った。
俺の裸の尻に自分の太ももを擦りつけてくる。女は鮫肌だった。ざらざらと引っかかる感触がなんとも忌々しい。

「本当は知っているの。お坊様、あの妖怪女の所から来たでしょう。」

女は笑いながら言う。だが、その目が笑っていないのが酷く不気味だ。

「お坊様がどんなに徳が高くても、本当なら絶対に宿になんか入れないはずよ。うちの主はがめついから、お坊様のゴールドカードにすっかりいかれちゃったみたいだったけど。」
「……。」

俺は女のおしゃべりを無視してもう一本タバコを取った。
女は目をぎらつかせながら俺の顔を窺っている。俺が恐れ入って平伏でもすれば満足なのだろうか。

「…不公平だわ。」

俺の無反応に怒ったように、女は呟いた。それでも俺が無視していると、女は作り笑いも止めた。
そうして真剣な顔をすると、女はずいぶん疲れた顔をしていた。

「あたしとあの女は同い年なの。同じ寺小屋で、机をならべたこともあったわ。昔からあの女は要領がよかった。半分汚らわしい妖怪のくせに。」
「…ほう。」

俺はうっかり相槌を打ってしまった。
この女とあの女が同い年だというのが信じられなかった。あの女は生き生きとしていて、こっちの女より十は若く見える。
あの女が自由に暮らしているからか、この女が女郎に身をやつして生活に追われているからかはわからない。
俺から返事があったことで、女の口調に真剣みが増した。俺の顔を視線で射るように見つめる。

「あたしの父さんと母さんは、森の中で妖怪の盗賊に襲われて命を落としたの。今から五年くらい前よ。同じ頃、あの女の両親も死んだわ。あの女はその事を今でも怨んでいるはず。あの当時、私の両親はこの村の人たちに殺されたって言っていたもの。でも、当然よね。薄汚い妖怪を村に置いていてやるんだもの。何かあったときは真っ先に犠牲になるべきよ。」
「犠牲…?」
「妖怪達を倒す討伐隊を作ったの。あの女の父親はおとなしくて植物を育てるのが得意な妖怪だったけど、無理矢理その隊に入れて、現場で囮に使ったんだって。囮が追っかけまわされてる間、助けに入るのが遅れたのは…当然事故よね。」

くくくくと女は喉を鳴らした。
平坦だった顔に、急に凄みが増してきている。女は憎むことで生気を得ているようだった。
らんらんと輝く目をして俺に挑むように見つめる。

「母親のほうは、その頃流行病に罹ったの。盗賊に狙われて、食べ物もロクに取れない村人たちの多くが罹ったわ。あたしもそのとき罹った一人よ。まだあばたが残ってる。…そんなだから、妖怪のところに嫁に行った女なんかに薬草を分けて上げられなかったのよ。もっとも余っていたって分けてあげなかっただろうけど。」

女はもう一度笑った。今度は哄笑だった。
女はどこかのねじが外れたようにひとしきり笑い、ぷつりと笑うのを止めた。

「いい気味だった。妖怪女も、これでこの村にいられなくなると思った。なのにあいつはまだいけしゃあしゃあとあたしの前に顔を出す。親切ごかしてあたしに元気なんて聞く。知ってる? あの女の織る布、都じゃ目玉の飛び出るような値段で売れるのよ。この村がかろうじて村の体裁を保っていられるのは、あの女が織る布のおかげなんだって。だから村の人たちも、あの女に手を出せなかったのよ。今までは。」
「…今までは?」

女は急に体を起こしてベッドの上に座った。
窓から差し込む逆光が、女の姿をシルエットにする。
女の盛りを過ぎたラインの崩れた体でも、シルエットだけならそれなりに美しく見えた。

「あたし、気が付いちゃったの。妖怪女なんかに、この村の財布を握るような織物が織れるわけないわ。きっと織り機がいいのよ。」
「織り機がいいだと?」
「そうよ。あの女の母親も織物の名手だったわ。薄汚い半妖怪と、妖怪の嫁なんかが、そんなにいいものを作れるはずがない。だって奴らは穢れているんですもの。誰もが感動するような布なんか作れるはずがないじゃないの。人間のあたしでさえそんなもの作れないのに。」

女の髪がふわりと空に広がった。
隙間風でも入ったのだろうが、一瞬髪が逆立ったようで、ますます鬼気迫るものがあった。

「村長にそう教えてやったわ。村長は私のお得意さまだから、言いなりにするのは簡単だったわ。そうね、今ごろ…。」
「今ごろなんだって言うんだ。まさか…。」
「お坊様の連れの子も危ないわね。…いいわ、別に。妖怪なんかどれもみんなおんなじよ。」
「なにっ!」

血が逆流したかのように感じられた。
女のたわごとは、今まで俺に呆れしか感じさせなかった。森の中に住む半妖怪の女に危機が迫っていると感じてもだ。
だが、悟空のことを持ち出された途端に胸が押しつぶされる気がした。
俺の知っている悟空は、伝説とは全然違う、害のない子供なのだ。
もう二度と失うわけには行かない。

「二度と…?」

俺は自分の心の声に、思わず疑問を投げかけていた。
二度ととは一体なんだ? 俺の過去に悟空の影などあった事はない。
俺は勢いよく頭を振って、その考えを追い出した。着物を手にした俺に、女が冷たい声をかける。

「ここに泊まっていけばいいのに。やっぱりお坊様が金の目玉の妖怪を手なずけて可愛がっているって噂は本当だったのね。あたしは最後のチャンスを上げたのに。…あたしの添い寝より、妖怪どものほうがいいんだ。」
「バカやろう。俺は僧侶だ。みすみす殺生を見逃せるか。」

俺の声は完全に裏返っていた。舌が上顎に張り付くようだ。焦りのあまり、口の中がカラカラになっている。
俺の下手な嘘を女は軽く見破って、鼻先で笑った。

「やっぱりお坊様といえども、男なんてみんなおんなじね。みんなあの女の見かけに騙されて…。あんたも命を落とすといいんだわ。本当に大切にしなきゃいけない物なんかわかりゃしないのね。」
「…本当に大切にしなきゃいけない物…か。」

俺は思わずくりかえしていた。
この女の言うとおりかもしれない。俺の苦笑に驚いたように女がたじろぐのが感じられた。
俺はもう振り返らずに部屋を後にした。
女は最後に手を俺のほうへ差し伸べたようだ。だがそんな些細なことでは、もう俺を引き止めることはできない。
足早に村を歩いていると、手に斧や鎌を持った一団が向こうから戻ってくるのに出っくわした。
俺はとっさに物陰に身を潜めた。見たところ、それらの武器が使われた形跡はない。
男どもは襲撃に出かけたものの、何の収穫もなく戻ってきたらしかった。俺はその理由が知りたかった。

「…あの妖怪女、つくづく油断ならねえ。いつのまにかあんな化け物を手なずけていやがって。」
「まったくだ。おお、気味悪ィ。あのぎらぎらした金の目。あんなんが俺たちの側にいると思っただけでも震えがくらあ。」
「小鳥みたいな声を出して鳴いていやがって。あれァかわいらしい振りをして、俺たちをおびき出そうって魂胆にちげえねえ。」
「女は笑っていたが…きっと村を襲う算段でもしているところだったんだぜ。」

俺はかっと頭に血が上るのを感じた。
悟空が女の前であの小鳥の鳴き声をして見せたというくだりが気に入らなかった。
あれは本当に心を許した俺にしか聞かせない声だったのではないのか。無論悟空がそう言ったわけではない。
だが俺は闇雲にそう信じ込んでいた。あの美しい声は、俺でさえ滅多に聞かせてもらえなかったからだ。

「だけど、よかったのか? あんな物騒な奴らにあの女の始末を任せちまって。」
「構うもんか。どうせあんな怪物がついちまったんじゃ俺らに勝ち目はねえ。妖怪は妖怪同士,お互い噛み合って、共倒れになってくれれば一番だ。」
「そうだとも。妖怪の盗賊ども…。女の蓄えは全部やるって言ったら、一も二もなく引き受けやがった。浅ましい奴等だぜ。俺らは織り機さえ手に入れればいいっていうのによ。」

俺は思わずうめき声を漏らしていた。
男たちは女子供を襲わせるのに、悪名高い妖怪の盗賊を雇ったらしい。
相手が人間なら、口先で丸め込むことも、腕力に訴えることも可能だと思った。
だが、妖怪相手ではどの程度対処できるか定かではない。いざとなれば観世音にもらった銃がある。
だが、それとて威力のほどは定かでないのだ。
俺が物陰から脱兎のごとく駆け出したのを見て、男たちが声をあげた。だが追っ手は掛からない。
俺の行く先が女の家だと分かっていて、見殺しにするつもりなのだろう。
神をも恐れぬ所業だ。
俺はもつれる着物のすそに閉口しながら、必死になって悟空と女の下へと向かっていた。
森に踏み込むと、一足飛びに夕暮れになった気がした。
秋も深いとはいえ、森はうっそうと茂っていて木漏れ日もまばらで、村とは季節が違うように思えるほどだ。
地べたの雑草や木の根に足を取られそうになり、俺は散々悪態を付いた。
急いでいるときに言う事を聞かない足腰が恨めしい。俺はつくづく、あの宿で余計な運動をしてしまったことを後悔した。
森を半ばまで進むと、こずえの上からちいちいと小鳥のなく声がした。俺が見上げるまもなく、頭上から黒い塊が降ってくる。
思わず身構えた俺の懐に、それは飛び込んできた。
なんとなく乳臭い匂いと鼻先をくすぐる茶色い髪で俺はようやく出しかけた銃を引っ込めた。これは悟空だ。

「バカやろう! 撃っちまうところだったじゃねえか!」

思わず怒鳴りつける。悟空は俺の顔を見上げて拗ねたように鼻を鳴らした。
大きな黄金の瞳が濡れ濡れと光っている。俺の着物の袷をしっかり握り締めて、悟空は首を竦めた。そのとき、野卑な声がした。

「こんなところにいやがったか、坊主。」

見上げるほどの図体の妖怪が、下生えをなぎ払いながらのっそりと姿をあらわした。
俺に気づいて足を止め、それから舌なめずりをする。

「ほほう、あんたか。きれいな金髪の坊主ってのは。」
「何のことだ。」
「あんた、この辺じゃ有名だぜ。金髪の別嬪の坊主が金色の目玉の大妖怪をお稚児さんにしてるってな。」
「なんだと…っ!」
「五百年物の稚児なんてさぞかし…なんだろう? 俺にも施してくれよ。お坊さま。おおっと、動くなよ。女と坊主を味見したら,あんたを頭からバリバリ食ってやるぜ。得の高い坊主を食うと、不老不死になるそうじゃねえか。あんたなら、十年くらいは長生きさせてくれるかもな。」

俺はもう少しで俺は最高位の三蔵だと声を上げそうになった。
十年どころか悟空並みの長生きをさせて、悟空と同じ辛酸を嘗めさせてやることだってできるだろう。
大男は下卑た声で高笑いをした。手にしている刀はいかにも切れ味が悪そうで、切るというよりは叩き潰すためのものだ。
こんな頭の足りないような大男を相手にいきり立っても仕方ない。
俺は懐から銃を出した。初めて構える銃は、小さすぎて酷く頼りなかった。
大男は高笑いを止め、俺を面白そうに見下ろした。

「そんな小さな銃が何の役に立つっていうんだ。」

俺はもっともだと思ったが、決して口には出さなかった。
悟空は相変らず俺の懐でぎゅっと目を瞑ったまま縮こまっていて、何の役にも立たない。
厳しくしつけすぎたと俺はかすかに後悔した。
人間が襲ってきても決して手を出してはいけないと再三言って聞かせていたのがどうやら仇になってしまったらしい。
大男の顔が凶悪にゆがんだ。

「本当は生き胆を食うのが一番らしいんだが、そんな物騒のものを出されちゃあなあ。ひとまずおまえをぶった切ることにするよ。そんなので俺が殺せるとは思えねえが、俺は痛いのは嫌いなんでなあ。」
「…俺もそうだ。」
「安心しろ。痛くねえように、一撃でぶっ殺してやるからよ。」

大男が刀を大きく振りかぶった。
俺はまっすぐ奴の眉間に狙いをつけた。引き金はごく軽い。
ほんの少し力を込めればすぐに銃弾は発射される。だが俺はどうしても撃てなかった。
大男の振りかざす刀が銀色の流れに見えた。
奴が目を血走らせて笑っているのさえよく見える。俺は胸元の悟空の頭を抱え込み、きつく奴を睨みつけていた。
死にたくないとは思わなかった。ただ、こんなところで終わってしまう自分が悔しかった。
だが、終わりは来なかった。大男は不意に視線を泳がせると、地響きを立てて崩れ落ちた。
大男の影から姿を現したのは、あの森の奥に住む女だった。

「危ないところだったわ。」

女は冷ややかな顔で俺を見た。結局銃を撃てなかった俺を蔑んでいるような目だ。

「何をした?」
「…ここはもう駄目ね。行きましょう。」

俺の質問には答えず、女は背を向けた。俺は違和感を覚えた。両親の墓にあんなにこだわっていたあの女とは何かが違う。
そういえばこんなに長いこと一緒にいて、名前すら聞いていない。
聞くまでもない、よく知っている奴だと思えたからだ。俺が付いてこないのを見て、女は無表情で振り向く。
よく見知った冷たい目つきだ。俺は警戒しながら聞いた。

「おまえは誰だ。」
「忘れちゃったの、三蔵様? 森の奥で機を織って暮らしてる…。」
「そうじゃない。俺は一度だって三蔵だと名乗らなかった。だがおまえは一番初めから俺のことを三蔵と呼んでいた。俺は経文も冠もおまえには見せていない。俺が三蔵だと分かるはずがない。…おまえは誰だ。」

女はゆっくりと俺に向き直った。なんだか急に女の背後が明るくなったようだ。
女の化粧っ気のない唇がにわかに真っ赤に染まっていく。その唇がきれいな弧を描いて釣り上がると、それは観世音の笑い方だった。

「やっと気づいたか。金蝉。」
「…やっぱりあんたか。」
「おまえたちが道に迷ってどうしようもなくなってるようだからな、ちょっと見に来たんだ。優しいだろう?」

女はゆったりと両腕を組んだ。そうすると姿かたちはあの女のままなのに、完全に観世音の雰囲気になった。

「あんた…。一体いつから…。」
「はなっからさ。もっとも意識を占領したのはつい今しがただがな。…ちなみに、悟空はとっくに気づいていたぞ。さもなきゃこいつがそんなに簡単に人になじむわけないだろが。嗅いだことのある匂いってなくらいだろうけどな。」

悟空は俺と観世音の間に突っ立って、きょろきょろと両方を見比べている。
もう怯えた表情をしてはいない。観世音の庇護の下にいればそんなに安全なのかと、俺は苛立ちを隠せなかった。
黙ったままきびすを返すと悟空が慌ててくっついてくる。俺は邪険にその手を払った。

「尻尾を巻いて逃げるのか。」
「…あんたがいれば、俺がここにいることもないだろう。あんたこそどうするんだ。その女はもうこの村じゃ暮らせないぞ。妖怪たちを退治してもしなくても。」

妖怪たちを退治すれば、村人たちに恐れられて商売もできなくなるだろう。
退治しなければ当然殺されたと思われるはずだ。観世音は俺の背中に向かって冷ややかに笑った。

「慈愛が信条の観世音さまだからな。目くらましでもかけるさ。何にも変わらないようにきっちり始末はつける。おまえこそ気をつけろよ、金蝉。妖怪どもはうまそうな坊主の存在を知っちまった。今度はおまえが狙われるぞ。」
「自分の身ぐらい自分で守る。俺は今までずっとそうしてきた。これからだってそうだ。」

俺は歩き出した。
悟空が急いでついてくるのが分かったが、いつものように追いつくまで待ってやる気はしなかった。


森を抜けないうちに夜になってしまった。
俺は小声で悪態を付きながら歩いた。夜になって崩れ始めた天候は、うっそうと茂る夜の森では殆ど深遠の闇で、俺たちを襲撃するには絶好の条件になっていた。
悟空は何度も俺にくっつこうとしたが、俺はその度に手を振り払った。
なんだか何もかもが気に入らなかった。特に悟空に腹が立っていた。
俺の知らないところで観世音と見識があり、金蝉という男と親しかったと思うと無性にくやしかった。
俺の知らない悟空を、誰かが知っているのも許せなかった。
しばらくは俺の機嫌を伺うようにちょろちょろしていた悟空が、やがて俺の後ろからぴったり離れなくなった。
しきりにちいちいと、甲高い声をあげる。どうやらそれは、警戒の声らしい。
悟空に教えられるまでもなく、俺は追っ手が人数を増やしていることに気づいていた。
剣呑な気配を避けるつもりで森の中を歩いていると、ぽっかりと木がなぎ払われているところに出てしまった。
俺は追い込まれたのを知った。奴らは刀を振るいやすいように、俺たちをこの空間まで誘っていたのだ。
前方にも後方にも悪意に満ちた気が溢れている。すっかり取り囲まれてしまっていた。

「よう、坊さん。」

がさりと音を立てて草を踏み分けたのは、さっきの大男だった。奴はこきこきと首を鳴らしながら俺の側へ近付いて来た。

「さっきはヘンな技を使ってくれたな。だが今度は人数がいる。さっきみたいには行かないぜ。」

奴の背後を守るように、次々と影が姿を現す。後ろの気配も含めるとざっと十人。
坊主とガキを追いかけるには十分過ぎる人数だ。
もしかすると観世音の目くらましによって、盗賊の全員が追っ手としてこちらに向かったのかもしれない。
あの女のために何も変わらないようにするにはうまいやり方だろうが、俺たちにとっては大災難だった。俺は懐から銃を出した。
今度こそ臆病風に吹かれていないで撃たなければならない。ここを突破できなければ、俺たちに未来はない。

「悟空、思い出せ。」

俺は袂を握り締めていた悟空に言った。悟空はぴくんと体を竦める。

「おまえは神々をも震撼させた妖怪だ。こんなところで俺の影に隠れているんじゃない。俺は自分の身を守るのが精一杯だ。おまえまで守ってやれない。…悟空、思い出せ。おまえの力は千人力のはずだ。」
「…何をごちゃごちゃぬかしてるっ!」

大男がいきなり切りかかってきた。俺は悟空を突き飛ばし、やっとの思いで刃を避けた。
俺の胴ほどの太さの木が真中から折れ、派手な音を立てて横倒しになった。

「ちょろちょろと往生際の悪い。」

奴は手にした刀をべろりと嘗めた。夜目にも血を飲んだような真っ赤な舌が目立った。
悟空は尻餅をついたまま呆然と折れた木を見上げている。
木陰がざわりと揺れて、後ろからの追っ手が姿を現した。呆けた悟空のほうに手を伸ばす。

「悟空っ! 逃げろっ!」

俺は思わず怒鳴った。悟空はその声に弾かれたように反応し、すんでのところで追っ手の手を掻い潜った。だがそれだけだった。
悟空はどうしていいか分からないといった表情で俺のほうに縋るような目を向ける。
もう一度男が手を伸ばす。
悟空は棒を飲んだように突っ立ったままだ。俺は仕方なく悟空を抱え込んだ。
悟空が当然のように俺の着物の背中を掴む。俺はいら付いて歯軋りをしながらも、なんだかほっとしていた。
小さな体が、俺を保護者と認めて縋ってくるのがとても心地よかったのだ。
だが、そんなのんきな事を言っている場合ではなかった。また刃が俺に向かって振り下ろされる。叩き折られた大きな枝が降ってきた。
大男は得物を前にした猫のように、逃げ惑う俺たちを楽しんで、わざと狙いを外しているのだ。

「へっへっへ、ずいぶんと大事な稚児らしいな。身を挺して盾になるとは。」
「………。」

俺は返事ができなかった。大男はその図体からは想像もつかないほど敏捷に動く。
刀の速度も次第に増してきて、よけるのが精一杯になっていた。
銃を持つ手は相変らず強張ったままでどうしても引き金が引けない。殺生という言葉が目の前にちらつくのだ。
物心ついた頃から坊主として育てられてきた俺には、それはどうしても譲れない一線だった。
突然耳元で悟空がきいっと悲鳴を上げた。
しっかりと背中に張り付いていた小さな手が無理矢理引き剥がされる。
俺は前方に注意を奪われるあまり、後方の敵への警戒をすっかり怠っていたのだ。
悟空を奪われたと知って慌てて振り向いた俺の左腕に激痛が走った。
大きな頭が俺の腕に食らいついていた。そいつは俺を上目遣いに見上げて、にいっと不敵に笑った。
左腕の骨がみしみしいう。今にも噛み砕かれてしまいそうだ。

「く…そっ!」

俺は痛みをこらえてその不細工な頭に銃を突きつけた。
そいつの向こうで両腕を後ろ手に囚われた悟空が、黄金の瞳を零れんばかりに見開いているのが目に入った。
俺の腕に食いついている奴は、もう一度にたりと笑うと噛み締めたまま顔を横に振った。腕がもぎ取られたかと思った。
奴は俺の肉をごっそり剥ぎ取っていった。
男の頭が離れた途端に、血がしぶいた。悟空の青ざめた顔にも俺の血が降り注いだ。
俺は何とか体制を立て直そうとした。だが、ぐらりと目が回る。
急激に寒くなってきて、吐き気もする。悟空が恐怖に凍りついたような目で俺を見つめている。
こらえきれず膝をつくと、悟空が震え上がった。

「体が痺れてきただろう?」

大男はいかにも楽しそうに笑う。俺の腕に噛み付いた奴が、不自然に長い牙を剥き出してみせた。

「傷口から毒がたっぷり染みとおったはずだ。もう動けまい。」

刃を手のひらに叩き付けながら、大男はゆっくりと歩み寄ってくる。
刀の先で俺の顎をぐいと上向かせて、奴はこの上もなく嬉しそうに舌なめずりをした。

「そこでじっくり見物しているといい。おまえの稚児を可愛がったら、おまえを生きたままかっ食らってやる。足の先からちびちびと、な。」

大男は言い捨てると、ゆっくり悟空の方へ向き直った。悟空は奴には目もくれず、俺を凝視したままだ。

「悟空!」

俺は叫んだ。
不意に胸の奥から熱い固まりがせりあがってきて口から溢れ出す。
俺の白い僧衣の上にばたばたと液体が落ちた。毒が回ってきたらしい。
色よりも口の中を満たした生臭さで、それが血だとわかった。

「思い出せ! おまえは誰よりも強いんだ!」

悟空は俺の言葉に感電したように体を震わせた。俺の胸元に溢れる血に目を奪われたまま、大きく胸を喘がせた。
全身が細かく震えている。
盗賊達の間から低い笑いが漏れた。

「かわいそうに、震えてるぜ。今、うんといい目を見せてやるからな。具合がよければ、一生俺たちの間で飼ってやろう。かわいいペットとしてな。」

大男は悟空の頬を無骨な手で撫でまわした。
俺は唇を噛んだ。悟空は脅えてしまっている。このまま抵抗もできずに弄ばれてしまうのか。
悟空の白い裸身が目に浮かんだ。あの少年のままの無垢な体を、こんな野卑な男どもに蹂躪されるのは我慢がならない。
だが人間でしかない俺のやわな体は、毒に汚されていて、僅かに腕を動かすぐらいしかできないのだ。
こんなところで終わるのは嫌だ。
死ぬのは恐くない。だが、こんな愚かな連中に、自分の人生を決定されてしまうのが嫌だ。
悟空ともやっと巡り会えたのに。

「悟空っ!」

言葉が勝手に胸を衝いた。俺は文字通り血を吐きながら叫んでいた。
ただ叫ぶことしかできなかった。

「うわっ! なんだっ、こいつっ!」

突然声があがった。風もないのに木々がざわりと揺れる。
盗賊たちは悟空を中心に円を描いていた。その円が広がっている。
大男の影から悟空の縛められた体が見えた。悟空はがくがくと全身を震わせていた。

「う…が…ぁっ!」

ビキビキビキ…と音がした。悟空の華奢な手足に筋肉の束が浮いているのが見える。
頬にまで幾本も筋を浮かべて、悟空はのけぞった。小さな体が一回り大きくなったように見える。
さして力を込めた様子も見せないで、悟空は妖怪の手を振り払った。衝撃で、その妖怪が吹っ飛ぶ。
自由になった手をぶるぶると震わせながら、悟空はすべての指を鉤状に曲げた。
いつのまにかやすりのように爪が伸びている。
妖怪たちの円が、また少し広がった。
円の中央に取り残された悟空は天に向かって吠えていた。大きく開かれた口から伸びた犬歯が見える。
不意に悟空は歯を噛み締め、妖怪たちのほうへ向き直った。
瞳孔が縦に縮まっている。黄金の瞳は、いままで見たこともない輝きを湛えていた。
燃え盛る夏の太陽のように、危険に輝く金だ。

「があああああっ!」

叫ぶと同時に、腕を一閃させる。

「きひいっ!」

一番手近にいた奴の顔が半分なくなった。男はきれいに真っ二つにされた断面から、真っ黒な血を噴出しながら倒れる。
びくびくと断末魔の震えを起こしている間に、他の二人が倒れた。
一人は唐竹割、もう一人は首を引き千切られている。

「わあああっ!」

呆然としていた妖怪たちが我先に逃げ出す。
悟空は瞬時に反応した。木の幹を蹴って飛び上がり、妖怪たちの行く手を遮る。
悟空の腕が閃くたび、妖怪たちは次々に肉片と化していった。何が起こったのかわからない顔のまま息絶える者も多い。
悟空が鮮やかに森の中を駆け巡っていたのはほんの十数秒だった。
後には累々と屍が転がっている。
濃厚な血の匂いに、俺はまた吐きそうになった。

「ぐうううう…。」

悟空はゆっくりと俺のほうに近付いて来た。
血溜まりに踏み込んだのか、ピチャンと小さな音がした。
もう、動いているものは俺だけだ。悟空の黄金の瞳が光もないのに輝いて見える。
手は血に塗れているが、返り血は殆ど浴びていない。殺戮はそれだけすばやく行われたのだろう。
俺はうっとりと悟空が来るのを待っていた。
狂暴な怒りに瞳を煌かせ、髪を靡かせて立つ今の悟空こそ、大地の聖獣たる悟空の本来の姿だった。
悟空のみなぎる殺意を目の前にしても俺は、盗賊たちに殺されそうになったときに感じた、焦りや恐怖は感じなかった。
悟空の手に掛かるのなら仕方ないとさえ思っている自分に呆れた。

「…俺を殺すのか?」

問い掛けると、目の前で悟空の歩みが止まった。

「いいぜ。おまえになら…殺されてやってもいい。」

急速に悟空の瞳から光が失われていった。
悟空の周りに濃密に立ち込めていた荒れ狂う気配が、すうっと消えていく。悟空はぶるぶると首を振った。
そうして俺の前にぺたんと座ると、悟空はすっかりいつもの乳臭いガキに戻っていた。

「…くうう…。」

悟空はぱくぱくと口を動かし、結局いつものように鼻を鳴らした。
言葉を思い出しかけているような仕種だった。
俺の左腕に目を落とすと、大きな瞳から涙がぽろぽろと落ちた。

「おまえ…、俺を守ってくれたのか…。」

悟空は俺の声に耳も傾けず、そろそろと俺の左腕を取った。いかにも大事そうに胸の中に抱え込むと、そっと傷口に自分の口をつける。
柔らかい舌がぱっくり開いた傷の上を這うと、今迄と違った甘い痺れが腕を走った。
鈍痛に苛まれていた腕が、僅かずつ楽になってくる。
悟空が毒消しをしていると思い当たるのに時間は掛からなかった。
だが、ほんの少し嘗めただけで、悟空は盛大に顔を顰めた。いきなりケホケホとむせ返る。
俺ははっとした。これだけ即効性の毒なのだから、口から体内に入れて良いわけがない。

「悟空、止せ! おまえまで毒に中る。」

悟空の手から腕を分捕ろうとすると、悟空は歯を剥き出した。
俺の腕を力いっぱい抱え込む。
俺が痛みにのた打ち回っても、決して手を放そうとはしなかった。
悟空は顔を顰め、毒の苦みに歯ぎしりをしながらも、中和を続ける。俺の命を救うことが自分の生きがいだとでも言うように。
突然、闇の中に更に黒い小山のような影が立ちあがった。
俺はぎょっとした。もう生ある物は俺と悟空だけだと思っていたのだ。
妖怪の大男は、刀を杖に立ち上がると、俺たちをぎろりと見据えた。腹に大きな穴が開いている。
最後の渾身の力という所か。

「お…のれぇ…!」

己の吐血で顎から胸元までを真っ赤に染めながら、大男は刀を振りかぶった。
悟空は俺の腕に夢中になっていて大男に気付かない。いや、眼中にないのだろうか。
大男の刀はまっすぐ悟空に向けられている。
振り下ろされれば、確実に悟空の頭が砕けるだろう。俺は思わず、右手にしたままだった銃の引鉄を引いた。
呆気に取られるほど、反動も何もなかった。
ライターで火をつけるよりも軽く、カチリと小さな音を立てて銃弾は発射された。
たいしてねらいをつけたわけでもないのに、大男の眉間がパンと割れた。次の瞬間、俺は息を呑んだ。
巨大な男の体が、四散したのだ。

「う…あ…。」

戦慄が体中を駆け巡る。観世音の言葉がフラッシュバックした。

『その銃はおまえの力を動力源にしている。……。』
「嘘だ!」

悟空がわずかに顔を上げて、砕け散ってしまった大男のほうを見た。
冷ややかな目だ。
奴の命が消し飛んだことなど微塵も後悔していない。俺はこんな破壊力が自分自身の物だと信じたくはなかった。
確かにあの大男は忌まわの際だった。俺が手を下さなくても、数分後には死んでいただろう。
だが、それとあの強大な力に関係があるとは思えない。
妖怪を、それこそ影も形も残らないまでに粉砕する、これではまるで俺は化け物ではないか。

「おまえの…せいだ。」

俺は悟空を突き飛ばした。俺がすっかり抵抗しなくなったと思って油断していたのか、悟空はあっさり転がった。
反射的に身を起こし、もう一度俺の腕を取ろうとするのを、俺は振り払った。

「おまえの…その妖力のせいだ。俺はおまえの力に引きずられているだけだ。」

突然あたりが白く光った。稲光だと認識するまもなく、あたりを揺るがすような轟音がする。
近くの木に落雷したのか、夜間は鳴かないはずの小鳥たちがひとしきり騒いだ。
俺は背後の木に背中を預けて、やっとの思いで立ち上がった。
悟空がしてくれた毒消しはまだとても十分とはいえず、目の前が面白いようにぐるぐる回った。
俺の動きに合わせるように悟空がゆっくりと立ち上がる。言葉を理解しないはずの悟空がひどく傷ついた顔をしている。
その悟空の頬に、水滴がぽつりと落ちてきた。
まるで涙のように頬から顎を伝って流れ落ちるまでに、次々と滴が落ちてくる。
夕刻から怪しかった雲行きが、ついに大泣きに泣き始めたのだ。雨粒はバタバタと音を立てて地面を叩き、灰色の土を真っ黒に染めていく。
悟空が俺の機嫌を伺うような顔をして、そろりと一歩踏み出した。

「ついてくるな!」

思わず怒鳴っていた。このまま悟空と一緒にいたら、俺はすっかり悟空の妖力に染まりきってしまう。
それは恐怖であるとともに、抗いがたい魅力に溢れていた。
もうずっと前から決まっていることのような気がするのだ。俺の安寧は悟空の腕の中にあると。
だが、俺はその考えを頭から振り払った。俺は一介の僧侶だ。
血にまみれて平然としていられる、悟空のような生は生きられない。
俺の嗄れ声に、悟空は肩を竦ませた。
降り付ける雨の勢いに、ふわふわの髪がびっしょりと濡れて額と頬に張り付いている。
すがり付くような目をして、俺を見上げた。俺は顔を背けた。悟空の目を見たら、引き返せなくなるような気がした。
体中が震えるのは、毒のせいでも雨に濡れたせいでもないだろう。俺は振り絞るようにして、悟空に言った。

「ついてくるな。化け物。」

もう一度空がまばゆく光った。雨脚が一層激しくなる。
俺は立ち尽くす悟空に背を向けた。引き止めるように小さく唸る声が、啜り泣きのように聞こえた。


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