八戒の割とよくある1日




八戒の一日は、洗濯から始まる。

「うーん、今日もいいお天気…。」

八戒は両腕を上げて一杯に伸びをした。
さして広くない庭の隅々にまで洗濯ロープが張られ、真っ白に洗い上げたシーツが翻っている。
たっぷりのりを効かせたから、今夜はパリパリの肌触りを楽しめるはずだ。八戒は、畳んだシーツを広げるときに音がするくらい、のりを効かせた清潔なシーツが大好きだった。

「さて、うちのやんちゃ坊主は結局帰ってこなかったし…。」

家主であるはずの悟浄も、八戒の手に掛かっては、単なる坊主扱いだ。

「今のうちに、綺麗にお掃除しちゃいますか。」

八戒は腕まくりをする。
彼が転がり込んできたときには、小奇麗ではあったが殺風景である感を否めなかった悟浄の部屋も、今はだいぶ住み心地よく整えられた。
そうしたのは彼自身であるという自負が大きいために、八戒の動きに一つの躊躇もない。そうして悟浄の部屋は、彼の意図とは全く違う変貌を遂げつつあった。

八戒はふと、窓に目をやる。真っ白いカーテンがはためいている窓辺がなんとなく淋しい気がした。

「窓に…花の鉢でも置きますか。」

何がいいだろうと考える。この場合、悟浄に決定権はない。

「これからの季節、桜草も可愛くていいでしょうけど、アンセリウムの鮮やかなハートも捨て難いなあ…。」

呟きながら室内へ戻る。改めて室内から窓枠を眺める。やはり少し淋しい気がする。

悟浄の小さな家は僅か二間しかない。だが、それぞれの部屋は大きめの間取りで、窓も二つあった。キッチンに一つ、居間兼寝室に一つ。

「せっかく窓が二つあるんだから…、二つとも置けばいいですね。」

寝室の方にはアンセリウムを置こう。壁際に置いたベッドに何かの歌にあったように、アンセリウムが綺麗なハート型の影を落としてくれるはずだ。
八戒はうきうきとその様子を想像した。

「おい! 沙悟浄はいねえか!」

突然乱暴な声がする。八戒は楽しい想像を中断された苛立ちを顔には微塵も表さず、庭に戻った。

見るからにやくざものの風体の男が、落ち着きなく立っている。
悟浄をよく知る物なら、この時間に悟浄を訪ねてきても意味がない事を知っているはずだ。賭博で生計を立てている悟浄は、こんな早朝にはまだ帰っていない事も多いし、いたとしても居汚くベッドにしがみついたままだ。

「悟浄は夕べは帰ってこなかったんですよ。」

それでも八戒は穏やかに言う。男の剣呑な雰囲気が、彼には全く通じない。
男はいらいらと足を踏み変える。ふと八戒の顔が険しくなった。男が踏んでいるのは、先日植えたばかりのヒヤシンスの苗の上だ。

「ちっ、奴め、逃げやがったな。」

男はまた足を踏む。朝駆けは失敗だったが、待ち伏せならまだ出来そうだ。
目の前の優男が何者かは知らないが、悟浄の腕っ節に比べたらどうってことないだろう。いざとなったら人質にも出来る。男はそんな事を計算して、また足を踏み変えた。無事だった薄緑の芽がぽきりと折れた。

「待たせてもらうぜ。あのイカサマやろう。たっぷりヤキ…。」

男は言葉を切った。目の前がなんだかまばゆかった。光の所在を知ろうとして、ぱちぱちと目を瞬く。そうして、目の前の男の掌が光っていると分かった瞬間に、みぞおちに衝撃が来た。

「悟浄がイカサマなんてせこい真似、するわけがないじゃありませんか。」

気の弾を受けて吹っ飛んだ男に向かって、八戒は忌々しそうに舌打ちをする。男は無様に目を回してしまったらしい。敷地の外の、木の根元でひっくり返ったきり動かない。

八戒は台無しになってしまったヒヤシンスに悲しそうな目を向けると、それきり男の方は省みる事もなく家に戻った。



「花屋さんに行ったら、もう一度ヒヤシンスの球根を買ってこよう。」

八戒はキッチンの調理台に向かいながら呟いた。
せっかく芽吹いたところだったのに、これから植え直すのではもう季節が遅いかもしれない。そうしたら今度は水栽培もいいかも。
冷蔵庫に寝かせておいた生地を確かめて、せっせとアンを練りながら、そんな事を考える。今日はアンの中にタケノコを多めに入れてみたから、いつもの肉まんより歯ごたえを楽しめるはずだ。

「さあ、急がないと、いつもの時間に間に合いませんね。」

呟いて、手際よく生地を分け始める。
午前中も半ばをすぎると、決まって悟空が遊びに来る。八戒が作る点心が目当てだ。
寺の精進料理では、食べ盛りの悟空はたちまち腹を空かせてしまう。三蔵もその辺の事はよく分かっていて、悟空の多すぎる間食は黙認されている。
悟空の腹を満たすために、八戒の料理もかなりレパートリーが増えた。

「八戒、おはよ〜。」

中華なべに水を張って、大きな蒸篭を用意した途端に悟空が飛び込んでくる。今日はいつもより少し時間が早い。

「おはようございます。今日はどうしたんです? いつもより少し早いじゃありませんか。まだ肉まん、蒸けていませんよ。」
「うーん、そう?」

悟空の返事がなんだかはっきりしない。八戒は胸の中で、食料の残りを計算する。
こんな風に悟空の歯切れが悪いときには何が起こったか、彼は経験上ちゃんと知っている。この分ではもっと来客が有りそうだ。

悟空はちゃっかりキッチンの椅子に納まって、テーブルの中央においてある菓子鉢に手を伸ばしている。キャンディーの紙を剥く、チリチリいう音が響いた。

「八戒、悟浄は〜?」
「いつものお勤めですよ。夕べは帰ってきませんでした。」
「へーえ、八戒、淋しいね。」

悟空はキャンディーで頬を膨らませながら言う。別に淋しくはないと八戒は思う。
寝相の悪い悟浄が隣に居ないベッドは広くてそれなりに嬉しいし、何より八戒には悟浄が自分のもとに帰らない事など想像できない。

「大丈夫ですよ。悟浄の首根っこはちゃんと押さえてありますから。」
「ふ〜ん?」

悟空は二つ目のキャンディーに手を伸ばしながら首を傾げる。まだ幼い悟空には、八戒の言葉は理解できないだろう。八戒はそれを期待して言ったのだから、それは当然だ。

そろそろ肉まんが蒸けてきたらしい。香ばしい匂いが部屋中に漂い始めた。悟空は無邪気に鼻を上げて匂いを嗅いでいる。
八戒が蒸篭を開けようかと近付きかけたとき、不意に扉が乱暴に開け放たれた。

「ちょっとぉ、悟浄、いないの〜?」

女が二人、戸口に立っている。一人はショートカットで大きなイヤリングをじゃらじゃら言わせた若い女。もう一人は、長い髪を茶色に染めて、鬱陶しいほど顔に纏いつかせた女。どちらも体の線の露な、挑発的な服を着ている。
八戒は二人の容姿を値踏みするように眺めた。二人とも、ボディーラインは見事だが、酒に溺れたくすんだ肌をしている。悟浄が興味を示すには十分なランクだが、のめりこむほどには上玉でもない。
密かに胸のうちで勝ったと呟き、八戒は二人を家の中に招いた。

「悟浄は昨夜から帰ってこないんです。」
「待たせてもらうわ。この女と決着つけたいのよね。」

ロングヘアの方が鷹揚に腕を組んだ。ショートヘアもそれに対抗するように目尻を吊り上げる。

「決着つけたいのはこっちの方よ。あたいが悟浄の女だって何度言ったらわかるのよ。このオバン。」

ロングヘアはぴくりと眉毛を吊り上げ、それでも笑って見せる。

「はん、悟浄があんたみたいな小便臭いガキ、相手にするわけないじゃないの。」
「なんですってぇ〜。」

ショートヘアの方が簡単に切れた。二人はここに来るまでの間に相当煮詰まっていたらしい。一方が手を出すと冷静を装っていた一方もあっけなく応戦し、たちまち二人はつかみ合いになった。
八戒はそれを横目で見ながら、とりあえず蒸けあがった肉まんを皿に盛る。それを悟空の目の前に押しやってから二人の仲裁に入った。
悟空は珍しく肉まんより興味があるものができたと見え、ぽかんと口を開いたまま女たちの醜い争いを眺めている。

「この鼻ペチャ! あんたなんかこうしてやるわよ!」
「いたたたた! なにすんのよこの大根足! あたいだってそのくらい!」
「きゃああ! 胸鷲づかみにしないでよ!」
「ああああ、止めましょうよ二人とも。美人が台無しですよ。せめて鼻フックはよしてください。悟空が見ているんですから。」

ごく投げやりな様子で、八戒は二人を止めた。二人は息を荒くして睨み合い、同時にフンと横を向いた。八戒は内心、この二人実に息が合っていると思わざるをえない。

「あたしが悟浄の女よ!」
「あたいだってば!」
「どっちも違うと思う〜。」

突然割って入った悟空ののんきな声に、二人はぎょっとしたように振り返る。悟空は女同士の取っ組み合いが終わったとたんに興味を無くしたのか、肉まんにかぶりついていた。

「悟浄はさあ、もうちゃんと好きな人がいるんだよ〜。」

口の中に肉まんがつまっているからか、悟空の声は嫌に間延びしている。そののんびりした声に、二人分の血管がぶちきれる音がした。

「じゃあ誰だって言うのよ!」
「えーとねえ…。」
「! ちょっと、まさか!」

いきなりロングヘアが悟空に掴みかかる。それを見て、ショートヘアもはっと我に返ったように背筋を伸ばした。

「わああ、なにすんだよ! イテテテテ…。」
「ちょっと、こんな子供に何をするんです!」

八戒が慌てて止めに入る。女は悟空の顔を食い入るように見ていたが、やがてふうとため息をついて脱力した。

「この子の目は碧じゃないわ。いくら可愛い子だからって…まさかねえ。」
「バカじゃないの? いくら悟浄が物好きだからって、こんな男の子…。」
「誰がバカよ! あんただって一瞬ビビッたくせに!」
「なによ!」
「なによ!」
「まあまあまあ…。」

八戒はため息を付き、もう一度二人の間に割って入る。有無を言わさず二人に一つづつ肉まんを押し付けた。

「お腹がすいていると腹が立つんです。それでも食べて落ち着いてください。悟浄ならおいおい帰ってくると思いますから。」
「…………。」

女たちは毒気を抜かれたように押し黙っていたが、やがて肉まんに口をつけた。
二人とも八戒が読んだように空腹だったらしい。どちらからともなく、美味しいと声が漏れた。

「な。おいしいだろ。」

しばらく不満気に、つかまれたほっぺたを擦っていた悟空だが、女たちが落ち着いて食べだしたのを見て上機嫌になる。

「八戒はさ、料理上手なんだぜ。悟浄の好物なんかだと、もっとおいしいよな!」
「そうですねえ。やっぱり一緒に暮らしてると自然にね。」

女たちの動きが止まった。

「この間のあれ、美味しかった。また作ってよ。お寺じゃあんなに肉の入ってるの食べられないんだもん。」
「回鍋肉ですか? いいですよ。今度お泊りのときに作ってあげましょうね。」
「泊まるのはさあ、俺、寝るときはソファーでいいよ。3人で一つのベッドって、狭いじゃん。」
「そうですか? 川の字で親子みたいで楽しかったんですけどねえ。じゃあ悟浄を追い出しましょう。いつも彼は寝相が悪くて、僕は窮屈な思いをしているんです。たまにはソファーもいいでしょ。」

ロングヘアが肉まんをポロリと落とした。ショートヘアは喉に詰まらせている。

「いつもって…、あんた、いつも、悟浄と一つのベッドで寝てるって言うの…?」
「うん! 抱き合って眠ると気持ちいいんだって!」

元気に答えたのは悟空だ。女達の顔面が蒼白になった。

「悟浄が言ってた…碧の目が…吸い込まれそうに綺麗な美人って…、あんたの目…。」

ロングヘアは震える指で八戒を指した。八戒は照れくさそうに頬を掻いた。

「吸い込まれそうかどうかはしりませんが、まあとにかく、碧のようですねえ。」
「すげえ、八戒、目でなんか吸い込めるのか!」

悟空が立ち上がって目をキラキラさせている。的外れの悟空の感想に内心がっくりしながらも、八戒は悟空を可愛いと思わずにはいられない。

「やってみせて! なんか…、なんか吸い込むもの…。」
「残念ですねえ、悟空。これは悟浄限定のわざなんですよ。」
「なんだ、そっかあ…。じゃあさ、今度…。」
「おっ、男の癖に…っ!」

突然ショートヘアが金切り声を上げた。

「悟浄の大事な人って…、あんた…、あんた、男の癖に…っ!」

ショートヘアは手をぶるぶる震わせて、何か部品が落ちたかのように叫ぶ。悟空がちょっと呆れた顔になった。

「八戒は男でもおばさんたちより綺麗だよ。」
「う…っ。」

子供の、あまりにも正直な感想に二人とも一瞬硬直する。立ち直りはロングヘアのほうが早かった。

「あんたじゃ…っ、悟浄に女らしいことの一つも…。」

言いかけて絶句する。たった今まで食べていた肉まんの美味しさと、綺麗に整頓された室内の様子が、彼女達の想像しうる女らしさのレベルをも軽く凌駕していることを思い知り、簡単に自爆してしまう。

「なあ、八戒。女らしいことってどんな?」
「さあ。他人の家にずかずか入り込んで、大喧嘩をすることかもしれませんね。」

流石に八戒も腹に据えかねてきたらしい。言葉に刺が露になってきた。
そろそろ白旗を揚げるかと思われたショートヘアが突然居丈高になった。

「男じゃ、どう頑張ったって、子供は産めないじゃないのよ!」
「そうよ! 悟浄は暖かい家庭を望んでいるんだか…ら…。」

迎合したロングヘアの言葉が途中で千切れた。一瞬目を見開いた八戒が、にっこりと笑ったからだ。
大輪の花が開くようなあでやかな笑顔は、返って女達を凍りつかせた。

「本当に産めないと思います?」
「うう…っ。」

女達も、頭では男が子を産めるわけなどないことも十二分に承知している。だが目の前の八戒の自信たっぷりの笑顔は、どうしようもなく二人を不安な気分にさせる。
頭ではわかっている。だが、この得体の知れない男なら、もしかして不可能を可能にすることもできそうだ。それにあの、馬並みの悟浄なら…あるいは男でも孕ませることができるかも。

「ねえ、どう思います?」
「う…、う…、お、覚えてらっしゃい!」

ついに女達は陥落し、半泣きになりながら逃げ出していった。
八戒はそれを笑顔で見送り、それから少し眉間に皺を寄せる。

「まったく悟浄も…、付き合う女は選ばないと。」
「八戒、子供、産めんのか?」

悟空が八戒を尊敬の眼差しで見上げている。八戒は優しく笑った。

「子供なんていうのは授かりものですからね。うーんと二人が愛し合っていれば、もしかして…ね。」
「すっげー。なあなあ、俺も子供、産めるかなあ。三蔵の子供、見てみたいなあ。きっとうんと可愛いよ。」

八戒は笑顔をほんの少しいじわるに歪めた。

「三蔵の子供が可愛いかどうかはともかく、あなたの子供ならとびきり可愛いでしょうね。
そうですね…、赤ちゃんが欲しいから、たくさんたくさん濃いのをシテって、あなたがうんと可愛らしく三蔵におねだりすると、もしかして授かるかもしれませんよ。」
「ヘええ。じゃ、今度、試してみるっ。」

少し照れくさいのか、頬を染める悟空の笑顔を見ながら、八戒は胸の中でこっそり、「三蔵に貸し一つ。」と呟く。

「……それにしてもちょっと癪でした。」

八戒は顎を擦って思案顔になる。やがて組んだ腕を解いてにっこり笑う。

「江戸の敵は長崎で討つことにしましょうね。」

悟空はぽかんと八戒を見上げるばかりだ。



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