この手の中に




日の暮れた山道を、少年が走っていく。背に放たれた長い大地色の髪が、少年の足取りに合わせて勢いよくはずむ。駆け込む先は、大きな山門を構える寺院だ。
はだしの少年−悟空−が走り抜けると、すれ違った僧達が顔を顰める。わざと聞こえるような大声で悪態を吐かれて、悟空は元気一杯に紅潮させていた顔を少し暗くさせる。だが走る速度は緩まない。やっと三蔵が帰ってきたのだ。

「おかえりい! 三蔵!」
「…ああ。」

小坊主に着替えを手伝わせていた三蔵は、悟空を斜めに見下ろした。
いつもの三蔵を見知っている者なら、今日の三蔵は機嫌が良さそうだと判断するだろう。怜悧という表現がぴったりの整った顔が、今日は何の表情も浮かべていない。いつもならば眉間にしわの一本や二本は当たり前なのだ。
だが、その三蔵の顔を見た途端、悟空は首を竦めた。

「さんぞー、なんか、怒ってる?」

三蔵はそれには答えずに襟の合わせをぐっと引いた。小坊主が苦労してすっきりと抜けていた襟足がそれで台無しになった。

「…悟空、あんまり街をうろちょろするなよ。おまえはどうも隙が多すぎる。できれば寺から出るな。」
「えー、だって退屈なんだもん、ここ…。」

悟空は不満そうに頬を膨らませた。三蔵に近寄ろうとすると、何くれとなく三蔵を手伝っていた小坊主がキッと悟空を睨む。それで悟空は三蔵の手を握れなくなった。

「じいちゃんだってそう毎日遊んでくれるわけじゃないしさ。」
「大僧正様のことをじいちゃんなどと…。」

小坊主が声を上げかける。三蔵の冷たい視線に気付いて、彼は慌てて目を伏せた。

「…退屈だったら書でも読め。」
「余計退屈だよう! なあなあ、俺もオツトメついてっていい?」
「…読経の間も正座できなくて、よそさまの法事を台無しにしたのはどこのどいつだ。」

袈裟まですっかり身につけた三蔵は、小坊主に向かって手の甲を振ってみせた。犬っころにするみたいな仕種で追い払われた小坊主は、三蔵ではなく悟空を睨み付ける。悟空は小さく首を竦めてそれをやり過ごした。

「なあ、三蔵、どうしてここの連中、俺にあんなに冷たいんだろ。」

三蔵は黙って悟空を見下ろした。

「三蔵とじいちゃんだけなんだぜ、俺とまともに口きいてくれるの。」
「…お前がサルだからだろ。」

三蔵はそう言い放つと、ふっと目をそらした。この問題はそれで打ち止めと宣告するような背中に、悟空は淋しさを感じてしまう。



夢中で花を摘んでいたらすっかり遅くなってしまった。悟空は編みかけのシロツメクサの首飾りを、散々迷った末放り投げた。
シロツメクサはまだ絨毯みたいに咲いているし、ここに遊びに来るのは悟空だけなのだ。一緒に花摘みをしてくれる友達もいないから、なくなってしまう心配も無い。
シロツメクサの首飾りなど、ほんとうはあっという間に編めてしまう。だけど、三蔵にあげるものとなると話は別だ。三蔵のキレイな顔と髪を飾るための物なのだから、一番キレイなシロツメクサたちでなくてはならない。
そうして、あれこれと選っているうちに、すっかり遅くなってしまったのだった。悟空は膝のホコリを払って立ち上がった。
今日は珍しく三蔵が外にオツトメに行かなかったから、きっと一緒にご飯を食べてくれるに違いない。三蔵は特に和やかに悟空をかまってくれるわけでもなかったが、それでも悟空は三蔵との相席が楽しみだった。そうでなくても精進料理ばかりで寺の食事はつまらないのに、とげとげしい視線でにらまれながらでは、居心地のいいわけもない。悟空はシロツメクサたちの群生にバイバイと手を振って、身軽に駆け出した。

思ったよりも夕闇が濃くなっている。悟空は寺への近道を取ることにした。
シロツメクサの原っぱは街の外れにあるから、寺まではかなり距離がある。いつもはこっちの道は通らない。街の市場の中を通りぬけていくほうが楽しいし、ほんのごく時たま、じいちゃん−大僧正−がくれた小遣いで買い食いができることもある。
この花街は、うら悲しい感じがするので好きではない。高い塀に囲まれた白壁の家々はなんだか妙に威圧的で、悟空を睥睨しているように見える。開いた窓の内側は赤やら桃色やらのけばけばしい壁で、街をひらひら漂っているキレイなお姉さんたちも、厳つい男たちも、どこかしら腐っているような半分死んだような目をしていて、悟空を無感動に眺め下ろす。そうしては少しさびしそうな目をして、ここはお前なんかの来る所じゃないと言うのだ。悟浄はこの街が結構好きらしく、顔を合わせたこともあったが、そういう時の悟浄は、まるで悟空の知らない顔をしていた。

「こっちの道通ると、三蔵がいい顔しないんだよな。」

悟空は足早に過ぎながら言ってみる。どこかから、女の人の嬌声が聞こえる。誰何されたように思えて振り返り、悟空は肩を竦めた。

「ぼくゥ。」

頭上から甲高い声が掛かる。柔らかそうな着物の胸を大きくくつろげたお姉さんが、長いキセルを手にはんなりと微笑んでいる。

「そんなに急いでどうしたの? 少しよってお行きなさいな。お姉さんが筆下ろししてあげるわよ。」

女は酔っているらしい。足元が右に左にふうわりと揺れる。悟空は思わず足を止めた。

「筆下ろし?」

問い掛けると、女は一瞬真顔になり、それからはじけるように笑い出した。笑いすぎでか目元に浮かんだ涙を、長い袂で拭う。

「冗談よ。早くおいき。こんなとこに迷い込むんじゃないよ。…ああ、あんた、国においてきた弟によく似てるわ。」

女はひらりときびすを返した。

「ここはねえ、行き止まりの道よ。」

言い残すとふらりふらりと歩き去っていく。悟空は首を傾げた。

「変なの。別にどこも行き止まりじゃないじゃん。」

踵を返すと走り出す。なんだかお姉さんが少し可哀相に思えた。三蔵を迎えて華やいでいた気持ちがちょっと萎えてしまう。
慌てて首を振り、また走り出す。せっかく三蔵が帰ってきたのに、暗い顔をしてはいられない。だが、悟空の足はまたすぐに止まってしまった。

移動式のテントがある。それ自体も初めて見るものだが、そのテントの前に蹲った同年代の少年が、悟空の気を引いた。
緩くウエーブの掛かった砂色の髪の下から、尖った耳が覗いている。だがその少年からは、妖怪のもつ生命力が褪せて感じられた。悟空は少し迷った末、やはりほてほてと近付いてみた。同年代の妖怪の少年。もしかしたら友達になってくれるかもしれない。

「なあなあ。」

声を掛けると、少年は驚いたように顔を上げた。目の前にしゃがみこんでいるのが悟空だけだとわかると、なぜかほっとした顔をする。

「おまえ、ここんちの子?」
「う…うん。」

おずおずと答えた少年は、慌てて膝を抱いた。綺麗な透き通る布地が何枚も重なった、ひらひらした服を着ている。とても悟空の世代の少年が喜んで着るものとも思えない。悟空はそっと少年の服の端をつまんでみた。つるつるした布で、あんまり暖かそうじゃない。それにこんな風にぺしゃんと体に張り付く風なのも、悟空の好みとは程遠かった。
悟空の布を弄ぶ指先を少年は少し忌々しそうに払った。その剣幕に悟空が驚いた顔をすると、今度は唇をかみ締めて俯いてしまう。悟空とは似ても似つかない憂慮の影が、少年の幼い顔を濃く彩る。悟空は気を取り直したようににぱっと笑った。少年は今度は虚を付かれた顔になる。拒絶で返した見返りにはあざけりか憎悪しか望めないと思っていたのだ。

「俺、悟空ってんだ。おまえ、名前なんての?」
「ぼ、僕…。」

少年はまたおずおずと目を伏せた。それから消え入るような声で呟く。

「……。」
「え? 何?」

少年の声は、細すぎて目の前の悟空にさえ届かない。大きな仕種で耳を傾ける悟空に、少年は観念したようにもう一度言った。

「…石楠花」
「え? しゃく?」
「シャクナゲ。花の名前だよ。」
「へえ、キレイな名前じゃん。」
「…僕は嫌いだ。こんな名前。」
「そうなの?」
「だって…。」

言いかけてまた石楠花は口を噤む。泣き出しそうな素振りの彼に、悟空はぽかんと口を開いた。天真爛漫な悟空には、こんな暗い顔ばかりをする石楠花の心理状況は、どうしても理解できない。

「俺はさあ、自分の名前好きだよ。何か、大事な人がつけてくれたような気がするんだ。あんまり昔のことで、よく覚えてないんだけど。」
「昔のこと…? おまえ、妖怪?」
「うん、そうだよ。」

屈託なく答える悟空に、石楠花は眉を潜めた。今度はせき込んで聞く。

「おまえ、どこに住んでんの? やっぱりどっかの小屋? おまえも…シゴトしてんの?」
「住んでんのはあの山の天辺のお寺だけど、シゴトって何? じいちゃんは、俺ぐらいの年の子は、遊ぶのがシゴトだって言ってるよ。」

心底不思議そうな悟空の表情に、石楠花はキッと眉を吊り上げた。ついに大きな瞳から涙が滲み出る。

「僕だって別にシゴトしたくてしてるわけじゃないよ。僕がシゴトしなかったら、母ちゃんや弟たちがご飯食べられないから、だから僕…っ。」

一息に叫ぶと、石楠花は声を詰らせた。また俯いてしまいそうになる彼の耳に、悟空の明るい声が響く。

「そうかあ、偉いんだ、石楠花は。」

裏表の感じられない伸びやかな声に、彼は思わず下げかけた頭を止めた。屈託のない表情が石楠花の顔を真正面から見詰めている。悟空は石楠花が顔を上げたのを見るや、にっこりと嬉しそうに笑った。金色の瞳は、春の陽射しのように和らいでいる。

「俺もさあ、よくお寺の坊さんに、ムダ飯食らいって言われちゃうんだ。石楠花は自分でシゴトして、自分のご飯は自分で稼いでるんだろ。そんで、お母さんや弟たちのご飯も食べさせてあげてるなんて、スゴイよ。」
「スゴイ…かなあ…僕。」
「うん。スゴイし、エライよ。」

悟空は胸の前で両手を握った。その真剣な仕種にほだされるかのように、石楠花の堅かった表情が緩む。石楠花は抱え込んでいた膝を少し緩めた。少しばかりギクシャクとしたその動きに、悟空の顔が訝しげになる。だが、その事を聞く前に、石楠花が手を差し伸べた。

「…また、遊びに来てくれるかなあ。僕はここから動けないんだ。」

見る間に悟空の顔が輝く。パシンと高い音を立て、石楠花の手を両手で挟むと、悟空は乱暴なくらい大きく石楠花の手を振った。

「うん! また明日来るよ! トモダチになろうな!」

悟空のバカ力に顔を顰めつつ、石楠花は嬉しそうに微笑んだ。悟空に初めて見せる笑顔だった。いや、石楠花自身ずいぶん長いこと忘れていた笑顔だったかもしれない。

「僕…僕、本当は、石楠花って名前じゃないんだ。本当の名前があるんだ。」
「え?」< br>
石楠花の突然の言葉に、悟空はきょとんと目を見張った。石楠花は悲しそうに伏し目になる。

「トモダチなら、僕の本当の名前を知っていて欲しい。」

僕の名前は…と続けかけたのを、野太い声が遮った。その声が聞こえた途端、石楠花はびくりとすくみ上がる。

「おい、石楠花、もう良いだろう。そろそろ時間だ。…ん? なんだ、おまえは。」

悟空はいきなり現れた声の主の、大きな爪先から順に見上げていった。その男は、悟空の身長は2倍体重なら3倍といった巨漢で、そいつの顔を見るために、悟空はそっくり返りそうになった。尖った耳を見るまでもなく、あまりにも厳つい体つきから、妖怪であることは一目瞭然だった。

「石楠花、こいつは?」
「俺、悟空。今石楠花と友だちになったんだ。」
「ほーう…。」

怖気づいたような顔をして縮こまる石楠花の代わりに悟空は張り切って答えた。男は悟空の全身を嘗め回すように見つめる。何か口の中で計算すると、男はにたりと笑った。どういうわけかその笑顔は、悟空の背筋を凍りつかせた。

「友だちなら、寄って行かねえか。晩メシ食わせてやるよ。」
「うーん、でももう帰らないと、お寺の大門が閉まっちゃうから。」
「…あの寺のガキか。」

男は面白くない顔をすると、石楠花を軽く片腕で抱き上げた。男の、大木みたいな腕から垂れ下がった石楠花の片足が、まったくブランと力の入らない様子を見て、悟空は少し頬を引き締めた。石楠花はどうやら足が不自由らしい。

「…じゃあ俺、もう行くね。」

悟空は石楠花と、一応その大きな男に向かって手を振ると、また駆け出した。足が速くなったのは、もうすっかり日が落ちていたからばかりではない。男の腕に抱えられた石楠花が、悟空をじっと見つめていたのに気付いてしまったからだ。
友だちになったばかりのその少年の縋るような目付きは、悟空になんだか罪悪感を抱かせる。さりとて、どうしていいかなど、悟空にわかるわけもない。悟空は胸のつまるような想いを抱えたまま、三蔵の待つ寺へと走った。



「まったく、惨いことをする者がおるものじゃ。」

大僧正は肩をすぼめた。元々小さくしなびた老残の身が縮こまってみせると、殆どその法衣の中に埋もれそうになってしまう。豊かな髭と、それに負けないくらいたくさんの皺が、いつもは柔和で穏やかに見せている老僧の顔を、今日はひどく生気をなくしてみせていた。

「どこの子供なのです。」

さすがに大僧正の前ではタバコは吸えない。三蔵は口調に苛立ちが出ないように気をつけながら話した。右手の人差し指と中指の間が淋しくて、どうしてもその2本の指が揺れ動いてしまう。

「分からん。色町で見かけた者がおるそうじゃが、それとて確かではない。…所在のしれぬ子供だからこそ、われらの所に持ち込まれたのじゃよ。」

三蔵は黙って小さな棺を見下ろした。切り出したばかりの白木の棺。飾る花とてないその中には、悟空と同年代と思える少年が収められている。悟空よりも痩せて貧相で、死んでなお苦悶の表情を崩せない彼は、今朝早く、村外れにうち捨てられていた。
体中に無数の傷。明らかな性的暴行の跡と手足には縛られた跡。その傷のあまりの多さと治り具合のまちまちさから、彼にふるわれた暴力が恒常的であったことが伺える。
ほとんどの傷痕が打撲か火傷だったが、一つだけ明らかに刃物によると思える古い傷があった。左の足首をすっぱりと真一文字に裂いている。逃走を防ぐためだったのだろうか、皮膚ごと、腱を断ち切ったに違いない。

「生活のためにかわいい我が子を、涙を飲んで売らねばならない親がいる。いつの時代にもそうしたことは後を絶たない。
だが、その親とて、その子の幸せを−飢えて死ぬるよりは、生き延びて未来への可能性を掴むほうを−選んだのに違いない。いずことも知れぬ地に流されて挙げ句なぶり殺しでは…この子も親も、さぞや無念であろう。」

大僧正は子供のようにちんまりとした両手を合わすと、念仏を唱え始めた。老いてなお朗々とした声が、広い仏間に響き渡っていく。
三蔵は唇をかみ締めた。棺の中の少年の、半分千切れかかった尖った耳が、どうしても悟空を連想させる。出自の分からない少年というなら、悟空にも条件はぴったりだ。もしもここに横たわっているのが悟空なら、自分はどうしているだろう。
タバコが欲しい。三蔵はぎゅっと拳を握り締めた。



「なあ、連雀、…三蔵は?」

問い掛けて、やっぱり悟空は後悔した。三蔵の身の回りの世話をしている連雀は、どうしてだか悟空を目の敵にしている。悟空が呼びかけるだけで憤慨するのだ。今もさも大事そうに三蔵の法衣をたたんでいた連雀は、噛み付きそうな顔をした。

「三蔵法師様は、大僧正様とお話がおありで、まだしばらく戻られない。…早く食事をしてしまえよ。片づけるのは僕なんだから。」

きつい口調で言われて、悟空は首を竦めた。三蔵が戻ってこないなら、あんなに胸が破れそうになるほど走ってくるんじゃなかった。
悟空はこっそりため息をつくと、自分の前に盛られた膳を見下ろした。すっかり冷め切った精進料理。三蔵と一緒ならそれだってすばらしいご馳走だが、一人で食べるとなるととたんに味気ないものになる。だがこれ以上連雀を怒らせるのはまずい。連雀は三蔵の世話をしてくれる大切な僧だからだ。

三蔵に教わった通りに両手を合わせ、悟空は小さく頂きますと唱えた。まず玄米だらけのご飯を口に入れると、ジャリと音がする。今日のは砂入りか。それも目立たないようにわざわざ白い砂を入れるなんて。悟空はちらりと連雀を見上げた。彼は横顔だけを悟空に向けていたが、悟空の視線に気付くと意地悪く頬を歪めた。
まあいいや、と悟空は半ば諦めの気持ちで肩を落とした。本当のことを言うと、悟空は砂交じりのご飯など全然苦にならない。あの岩山の天辺に閉じ込められていたときには、外から飛び込んでくるものは何でも貪った。ごくたまに吹き込んでくる雨水は実に甘露だったから、泥水だって啜った。だから、口の中がじゃりじゃりなのは慣れている。

どういうわけか今まで何人も代わった、三蔵の世話をする僧たちは、悟空の食事に異物を混ぜたがった。実のところ、その他にも悟空は様々な嫌がらせをされているのだが、彼は細かいことには気付いていなかった。服が破れていても、寝床が濡れていても、悟空は全然ものともしない。それで、一番反応がある食事への干渉を僧たちが取るようになっただけなのだが、そのこと自体悟空は気付いていなかった。
今までで一番嫌だったのは、珍しくほかほかのご飯の中に、うねうねと大きなミミズがのたうっていたときだ。三蔵は、この寺で出る食事は、村の人たちが汗水たらして労働したものを喜捨してくれたものだから、一つ残らず食えという。僧たちはそれを聞いているから、わざと悟空の分の膳にはいろいろ混ぜものをするのだ。悟空の箸が止まるのが楽しいらしい。

一番初めにゴハンにごみが入っているのを発見して三蔵に見せた後、三蔵は見たこともないくらい冷たい顔で、当時の世話係の僧を叱った。その後、その僧は二度と顔を見せることはなく、寺からもいなくなってしまった。そのときの悟空に向けた恨めしい顔が忘れられない。
だから悟空はそれ以来、ゴハンに変なものが混じっていても、三蔵に見つからないように食べてしまうことにしている。ゴハンが美味しくないくらいどうって事ないし、あんなふうに恨みがましい目で見られるのは金輪際ごめんだ。
砂やゴミや、死んでいる虫なら目を瞑って食べもするが、あの生きて蠢くミミズだけはどうにも嫌だった。炊き立ての湯気を吹き上げる飯粒に、生きながら蒸されるミミズが、悟空に向かって熱いよ苦しいよと訴えるのだ。
少しずつ身を蕩かす灼熱に、ミミズが悲鳴を上げているのが、悟空には確かに聞こえた。悟空は黙ってそのミミズを掘り出すと、口の中に放り込んだ。かみ締めると半分煮えてしまったミミズはぶつんと音を立てて千切れ、口の中いっぱいに青臭さと土の匂いを振り撒いた。
生命力の旺盛なミミズは、小さく千切れていってもしばらく口の中で蠢いていた。それでもミミズは感謝の声を上げていた。一思いに殺してくれた悟空に向かって。
口の中の変な味よりも、殺されながら感謝を唱えるミミズが哀れで、悟空は沈んだ気分になった。

多分、あったかくて柔らかいご飯の幸せを知ってしまったから、こんなに悲しい気持ちになるのだろう。悟空は冷えたおかずをつつきながらそう思った。
でも連雀は、わざわざ手間を掛けて悟空に意地悪をして、それで楽しいのだろうか。あんなに立派なミミズ、見つけるのだって大変だったに違いない。それに、三蔵は、村の人たちへの冒涜になるから残さず食べろという。せっかく美味しいご飯をわざわざまずくしてしまうことのほうが、冒涜になるんじゃないのだろうか。悟空はじゃりじゃりする口の中を舌で撫でまわしながらそう思った。

「なあ、連雀、…何でこんなことするの?」
「…何のことだよ。」

心持ち、連雀の肩が跳ね上がったようだ。睨み付ける目は、どちらかというと怯えているように見える。だが悟空は戸惑いつつも、問いかけを止めなかった。連雀は今までの僧たちの中で、一番悟空と年齢が近い。もしかしたら、石楠花と同じように、話し相手ぐらいにはなってくれるかもしれない。

「ゴハンに砂がさあ…。」
「僕がやったって言うのか!」

怒鳴りつけられて、悟空は言葉を失う。最後まで聞かないうちに怒り出すこと自体、十分に有罪の証拠だが、悟空にはそんなことは指摘できない。連雀の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。悟空は連雀が今にも泣き出すのではないかと心配になった。

「妖怪のくせに…っ!」
「え?」

連雀の言葉は意外で、悟空は思わず聞き返してしまう。連雀は悟空を釣りあがった目で睨みつけた。

「三蔵様は僕には声もかけてくださらないのに、おまえなんかが…っ。」
「え? 三蔵が何?」
「妖怪ごときが三蔵法師様の寵童だなんて…っ!」

そこまで言うと、連雀はぎりりと歯を噛み締めた。せっかく綺麗にたたんだ三蔵の法衣を叩きつけるように置くと、足音も荒々しく部屋を出て行ってしまう。後にはぽつんと悟空が取り残された。

悟空はため息を付いた。誰かが、ひとつため息をつくと、ひとつ幸せが逃げていってしまうと言っていたが、そうせずにはおれない気分だ。またどうやら連雀を怒らせてしまったらしい。

「…チョウドウってなんだろ?」

誰も答えてくれないのはわかっているが、声に出して言ってみる。ますます口の中がじゃりじゃりするような気がした。



珍しく時間のあるはずだったから、たまっている本を読みたかったのに。三蔵は不機嫌を隠そうともせずに足を組んだ。今日こそはしばらくほったらかしで、むくれてしまったであろう悟空も構ってやりたかったのだが。自分の部屋にやっと戻ると、いそいそと小坊主が迎え出てくれた。かいがいしく食事の用意をしてくれる。悟空の姿は見えない。
一人きりで食う飯はいつもながらつまらない。世話にあてがわれている小坊主は、どいつをとってもすましたやつばかりで面白みにかける。
三蔵は、悟空の豪快な食いっぷりがひそかに気に入っていた。大きな口に山盛りの食物を突っ込むと、はぷんっ、と音がしそうな勢いで口を閉じる。咀嚼するときの嬉しそうな顔といったらない。三蔵はこの顔を見ることができるだけでも、悟空を拾ってきてよかったと思う。ほわほわの温かい雛を掌に乗せて、餌付けをしている気分だろうか。
悟空の顔を見て、上機嫌な顔をするのが癪で、三蔵はいつでも顔を強張らせてしまう。悟空がそういうしかめっ面の時の三蔵は、機嫌がいいとわかっているのも少し癪だった。

だが、最近の悟空は、大好きな食事の時間にさえ表情を曇らせがちだ。何か確執があるらしい。悟空の視線の先を窺えば、小坊主たちとの仲がしっくり行っていないのも推察できる。だが、三蔵はあえてそのことには目を瞑っていた。
三蔵という立場から、お付きの一人や二人が付くのは避けられないし、悟空を庇ってやればますます風当たりは強くなるだけだろう。
しかし、まだそんなに遅い時間でもないのに悟空がいないのは不自然だ。三蔵は箸の先で、小坊主を差し招いた。小坊主は頬を染め、嬉しそうに駆け寄ってくる。こんな行儀の悪い仕草でも、三蔵がするならばそれはたちまち尊い行いになるらしい。
三蔵の眉間に力がこもる。この顔が嫌なのだ。三蔵という冠だけを見て、恐れたり期待したりする顔が。
小坊主はそんな三蔵の思いにはまったく気付かずに瞳を煌かせて、三蔵の顔をわくわくと見詰めている。なんと言う名前だったろう。三蔵は懸命に思い出した。悟空と話がしやすいように、悟空の年齢に近い彼をわざわざ指名したのに、すっかり名前も忘れている。そうそう、連雀だ。涼しい顔でやっと思い出した名前を呼ぶ。

「連雀、悟空はどうした。」

一瞬、連雀が顔をしかめた。

「あいつ…彼は今日も遊びまわって泥だらけで帰ってきたので、先に湯を使わせました。今ごろはご寝所で、三蔵様をお待ちしているはずです。」

妙にとげとげしい言葉で、彼が悟空の立場を誤解しているのがわかる。だが三蔵には今のところ、その誤解をとく気はない。弁解をしても始まらないし、下手をすれば違う種類のお付きを付けられるのが関の山だ。

「悟空にはあんまりうろちょろするなと言っておけ。」

三蔵は棺の中の少年を思い出していた。自分で悟空に注意をするのはあんまり過保護な気がして、連雀に言いつけてしまう。連雀が訝しげな顔になった。

「…彼がうろうろするのは今に始まったことではありません。どうして急に…。」
「…町外れで、ガキの変死体が見つかった。おまえらと同じくらいの年のガキだ。」

面倒くさそうに、三蔵は答えた。連雀が手にした盆をぎゅっと握り締めるのが、目の端に映る。

「質の悪い奴等がうろついているらしい。悟空のお調子モンがトラブルにでも巻き込まれたら厄介だ。よく言っとけよ。」

三蔵は顔を上げた。強ばった連雀の顔を見る。初めて連雀の存在に気付いたような顔をした。

「おまえもだ。注意しろよ。」
「…はい、分かりました。」

連雀は瞳をぎらつかせ、頭を下げた。



悟空は右手の親指と人差し指に細心の注意を込めた。あんまりきつすぎないように、だけど緩めすぎないように。
キレイな透き通る羽のギンヤンマは、そのでっかい頭部をぐりぐり回し、6本の細い足をむちゃくちゃに動かして、なんとか悟空の指から逃れようともがいている。季節にそぐわない、慌て者のギンヤンマ。足の不自由な石楠花に持ってってやったら、さぞ喜ぶに違いない。

「八戒〜! いるう〜?」

いきなりドアを引き開けると、そう広くない悟浄の家では寝室まで見渡せる。エプロンを着けた八戒が驚きもせずに悟空を出迎えてくれた。

「なあなあ、このギンヤンマに糸つけてよ。」

悟空は八戒の鼻先に、羽をつまんだギンヤンマをずいっと突き付けた。八戒は手先が器用で、細かいことをやらせたら天下一品だ。

「どれどれ、ああ、見事なとんぼですねえ。捕まえたんですか?」
「うん! トモダチにやるんだ!」

誇らしげな悟空に向かって微笑みかけると、八戒は細い絹糸を取り出した。悟空につまませたままのギンヤンマの胴にちょいちょいとそれを絡ませる。糸の端を握って羽を放すと、ギンヤンマはすいっと飛び立った。糸に括られた範囲で、悟空の周りを飛び回る。

「悟空、良い所へ来ましたねえ。ちょうど肉まんが蒸けたところですよ。食べていきませんか?」
「うん! いただきまあす!」
「熱いですよ。慌てないで。」

八戒の忠告も無視して、悟空は顔ほどもある大きな肉まんにかぶり付いた。ふんわりした皮を食い破ると中からほくほくの身が飛び出してくる。肉汁がじゅわっと湧いて悟空は思わず肉まんを握り締めたまま足をじたばたさせた。

「あひい〜! あちあちあち。」
「だから言ってるのに。」

八戒は悟空の前に冷たいお茶を置き、そのまま腰を下ろした。頬杖をついて、悟空の顔を楽しそうに見る。

「本当においしそうに食べますねえ、あなたは。」
「うも?」
「あなたの食べているのを見るだけで、幸せな気分になりますよ。」

悟空は目を丸くした。ほおばっていた肉まんを慌てて飲み下す。幾分真剣な顔で、八戒を見つめた。

「本当? 俺が食ってるとこ見ると腹が立つって奴もいるんだぜ。」
「…そんなこと言う人がいるんですか?」

悟空は齧りかけの肉まんをじっと見た。考え込んでいるようにも言い出したことを後悔したようにも見える。いわれてみるとなんとなくいつもの悟空より元気がないような気もして、八戒は心配になった。
悟空の表情を曇らせるのは、寺院の中での出来事だろう。少なくとも八戒や悟浄の前では、悟空はいつでも輝くばかりの笑みを浮かべているのだから。
そういえば、と八戒はちらりと三蔵の仏頂面を思い出した。寺院では有り難い三蔵法師様も、八戒にかかっては手の掛かる悪友に過ぎない。彼も常々寺院での面白くないあれこれをこぼす。悟空にもその一端は降りかかっているのではないのか。

「三蔵は、あなたがそんなことを言われて、なんて言っているんです?」
「三蔵は…忙しいし…。へへ…。」

珍しく不明瞭な語尾が、笑みに消された。八戒は軽く眉を潜める。この天真爛漫な子が、いつのまに笑ってごまかすなんて事を覚えたのだろう。

糸に括られたとんぼが、ついと八戒の目の前を横切る。気分を変えるように八戒は明るい声を出した。

「そのお友達にも持っていっておあげなさい。」

肉まんを指差すと、悟空の顔がぱあっと明るくなる。こんな笑顔を犠牲にして、三蔵は何を守っているというのだろう。

「いいの? 悟浄の分は?」
「いいんですよ。またいくらでも作りますし、悟浄にはおあずけさせとけばいいんです。」
「ちょっと、そりゃないんじゃないの?」
「あ、悟浄! おかえり! どこ行ってたの?」

悟空の明るい声に迎えられて、悟浄はニヤリと片頬を緩めた。だるそうな表情に、右手をシャツの中に突っ込んで腹の辺りをかいているだらしない姿が、なぜだか様になっている。

「花街にちょっとね。いろいろ面倒くせえんだよ。」

花街の一言で、悟空は鼻の頭に癇症に皺を寄せた。

「三蔵はさあ、ガキが用もないのに花街なんかうろつくなってうるさいんだぜ。」
「俺だって別に花街なんかにゃ用はないぜ。今の俺には八戒がいるからな。今日は俺のシマの偵察。最近妙な揉め事が多くてなあ。俺ぐらいの顔になると、シマの平和も俺の責任なんだよ。」
「…本当は賭場ですっからかんにされてきたんじゃないんですか?」

八戒の少し冷たい声に、悟浄は小さく肩を竦める。悟空の手につながれて飛び回るギンヤンマを目で追って、悟浄は少しあきれた顔になった。

「なんだあ? トンボ捕りかあ? ガキは気楽でいいよなあ。」
「うっせーなあ。石楠花にやるんだもん。」
「石楠花? おい、それって源氏名じゃねえの?。」
「なに? ゲンジナって?」

きょとんと目を見張る悟空に、悟浄に代って八戒がやんわりと答える。

「特殊なサービスをしてくれるお姉さんたちの、芸名ですよ。」
「じゃあ違うよ。石楠花は男だもん。」

俺と同い年くらいの妖怪の、と胸を張る悟空に、悟浄はなぜか難しい顔になった。

「悟空、そいつはきっと…。」
「あれっ、もうこんな時間? 俺もう行くね!」

悟浄の言いかけた言葉を無視して、悟空は勢いよく立ち上がった。指にギンヤンマの糸をちゃっちゃと絡めると、抜け目なく肉まんをわしわしと2つ掴む。八戒だけに手を振って悟空はあっという間に飛び出していった。

「おい、悟空、待てっ!」

叫ぶ悟浄の声など無論耳に届かない。追いかけた悟浄の肩を、八戒が静かに遮った。悟浄はこの男にしては珍しく、八戒に向かっていきり立った。

「なんで止めんだよ。奴の行き先はあの流れ者のとこだぞ。どっかから買ってきたガキに花の名前の源氏名をつけて、酷いいたぶり方をさせてる…。おまえだって噂ぐらい聞いてんだろうが!」
「大丈夫ですよ、悟空は。」

八戒の、視力の弱いほうの目が煌いた。八戒が何か企んでいるときの目だ。悟浄はぐっと気圧されるものを感じながら、それでもなお言い縋った。

「街のゴロツキも遠巻きにするような、えげつない手を使う奴等なんだぞ。悟空のおっちょこちょいなんか、いいようにあしらわれちまう。」
「いいんですよ。悟空には三蔵がついているんだから。」
「あのなあ…。」

いくら保護者が高僧だからって、かどわかされちまえば手もない。そう主張する悟浄に、八戒は意地悪そうな笑顔をした。

「いっそ、かどわかされるといいんです。」
「なんだと…っ!」

唖然とする悟浄に、八戒は厳しい顔を見せた。

「三蔵はたぶん、悟空がインプリンティングされているだけだと思い込んでいるんです。」
「イン…なんだって?」

場違いな言葉に、悟浄は目を白黒させる。

「インプリンティング。刷り込み。卵から出てきた雛が、初めて見るものをすべて親だと思ってしまうというアレですよ。」

物覚えの悪い生徒にするように、噛み砕くように説明しながら、八戒はふうとため息をつく。

「悟空が三蔵を慕うのは、子供が親にくっついていくのと同じだと思っているんです。そしてちょっと躊躇しながら、自分でも安心してしまっている。自分は悟空の親なのだから、悟空は簡単には自分から離れられるはずはないとね。
だけど悟空は無邪気なだけの子供じゃない。」
「………。」
「三蔵は思い知るべきなんです。悟空がどんなにひたむきな目で三蔵を見ているか。二人の間に流れているものがいかに危うい均衡を保っているのかをね。」

一転、八戒の顔に笑みが戻る。

「それに、三蔵の慌てふためく姿…、見物だと思いませんか?」

悟浄は思わず一歩後ずさった。笑顔のままの八戒に襟首を締め上げられて、泣きそうな顔で足をじたばたさせている三蔵の姿が目の前に写る。
今ここにいるのは、いつも腕の中でかわいい声を上げる八戒とは別人のようだ。いや、自分は八戒の本当の強さも知っている。その上で八戒を選んだのだ。それは間違いない。だが、それにしても…。

「…おっかねえ…。」

思わず呟いてしまう悟浄だった。



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