頭の中で悟空の声がする。三蔵はうるさそうに振り返った。
お供の坊主が訝しそうに三蔵を見返す。悟空の呼び声は自分にしか聞こえないと分かっていてもわずらわしく、照れくさかった。だが、今の声はなんだかいつもの声とは響きが違っていた。
悟空の声は、そのくるくる変化する表情と同じくらいに豊かだ。三蔵。たったこの4文字が、楽しそうだったり怒っていたり、いつでもめまぐるしく変わる。だから三蔵は悟空と離れていても安心していられた。悟空がどんな気持ちでいるかなど、この声を聞けば一目瞭然だった。
だから、悟空の声が珍しく切なく震えているのを聞いて、三蔵は不安に囚われた。

悟空はよく我慢していると三蔵は思っている。寺の空気は、異端児である悟空にはとことん冷たい。
僧たちは悟空の未知数の能力を恐れているのだ。だから、どんなに悟空が擦り寄っていこうとも、受け入れる姿勢を示さない。
悟空を広い心で迎え入れられるのは、人生を悟りきった、あの老いた大僧正だけだ。だが、彼とて地位のある身、そう悟空に関わってはくれない。
だいたい、悟空を一所にとどめておくのがそもそも間違っているのだ。悟空は大地の精霊。野にあってこそ生き生きと輝く。人である身の三蔵の、懐だけにおとなしく留まっていられるはずもない。

だが、三蔵はもう悟空を手放せない。悟空の顔が日増しに陰っても、どうしても囲い込む手を緩められない。
今だけだと三蔵は自分に言い聞かす。雛の羽根が生えそろうまで。雛が自分でえさをついばめるようになるまで。それまでは悟空を手元に置いておこう。
だがそれはいつまでのことなのだろう。悟空は幼い子供のように見えても、その実、齢500年を重ねた大妖怪だ。もしかするともうこれ以上は決して成長しないのかもしれない。
それは密かな三蔵の願望でもあった。悟空を一生手元に縛り付けておく。目も眩むような甘美な願いだ。

「三蔵様。」

お供の坊主が声を掛ける。三蔵の行く手に立ちふさがるように立っているのは、笑顔の八戒と仏頂面の悟浄だ。
二人が三蔵を待ち伏せるなど、めったにない。三蔵はお供の坊主に向かってしっしっと手を振った。三蔵の気まぐれに慣れている坊主は、邪険に追い払われたことに文句も言わず、軽く一礼して寺へ向かった。

「こんな時間までオツトメですか。忙しいんですねえ。」
「ああ。三蔵法師サマともなれば、あちこち引っ張りだこでな、休む間もありゃしねえ。」

三蔵は懐からタバコを取り出し、火をつけて胸いっぱい吸い込んだ。わざと白い煙を鼻の穴から噴き出してみせる。二人がどんな用事で三蔵を待っていたか知らないが、面白くない話であろう事は察しがつく。
八戒が笑顔を引っ込めた。この男が笑っていないのは珍しい。怒っているときでも笑顔を絶やすことのない八戒の真顔は、妙に迫力がある。

「悟空はどうしてます?」
「…知らん。どうせまた町中をふらつきまわって、小坊主たちの顰蹙でも買ってるんじゃないか?」

わざとつっけんどんに言う。悟浄があきれたようにため息をついた。

「僕の知っている悟空はねえ、もっと屈託のない子供だったんです。最近悟空が湿りがちなの、気付いてますか?」
「…ああ。」

三蔵は仕方なく頷いた。八戒の目が細くなる。

「気付いてて無視ですか。しょうがないですねえ、これじゃ、けんかにもなりゃしない。」

行きましょう、と八戒は悟浄の袖を引いた。悟浄は不満そうな顔を隠そうともせずに、三蔵を睨む。なにか言いかけて、八戒に耳を引っ張られて慌てて止める。

「僕たちは警告しましたからね。」

八戒は最後に振り向くとこう言った。

「悟空がいつまでも変わらずに、あなたの手の中にいると思ったら大間違いですよ。」
「…なんだ、あいつら…。」

三蔵は拍子抜けして、呟いた。もっと何か食って掛かられるような事態を想定していたのだ。結局二人が何を言いたかったのか分からない。ただ、悟空に関して文句があるのだけは分かった。
三蔵は吸い殻を投げ捨てた。急にタバコがまずくなった。頭の中で響いている悟空の声は、相変わらず切なげなままだ。どうやらこの声は寺ではない所からしているらしい。寺に帰る気にもなれず、三蔵は腕を組んだ。

悟浄は何回も振り返ろうとしては、その度に八戒に耳を引っ張られて諦めた。わざわざこうして二人で足を運んで、三蔵に悟空のことについて諌めに来たはずなのに、こんなにあっさり引っ込んでしまっては意味がない。
悟浄は気が気ではなかった。悟空はまだ、あの質の悪いならず者の所へ入り浸っているに違いない。あの連中はどこから来たのか誰も知らないのだ。どこかへ行ってしまえば、きっと行く先は二度とつかめない。
何回か耳を引っ張られ、角を曲がった時点で、ついに辛抱たまらなくなった悟浄は、八戒の手を振り払った。引き返そうとする悟浄を八戒が引き止める。悟浄は食い下がった。

「あんな中途半端な忠告じゃ、何がなんだか全然わかんねえよ。俺がもう一度ねじ込んでやる。放せって!」
「大丈夫ですよ。見ててごらんなさいって。」

八戒は余裕の表情で三蔵を覗く。ブツブツ言いながらも悟浄はそれに従った。三蔵はほんの数口吸ったタバコを投げ捨てると、神経質なほどに吸殻を踏みにじった。

「三蔵は独占欲が強いですからね。あれでちょうどいいんです。悟空のことを心配するのは自分だけでいたいんです。」

三蔵は二人が見ているのも気付かずに、うろうろとその辺りを回っている。懐から新しいタバコを出しかけて、また引っ込めた。

「それに、あれ以上言ってごらんなさい。あの天の邪鬼は、絶対行動を起こしませんよ。少なくとも今日は動きません。賭けてもいいです。」
「ならよう…。」

悟浄は呆れた声を出した。この男はつくづく恐いと思う。

「俺が出てくる必要なかったじゃないか。おまえだけで、その、駆け引きすればよかっただろうに。」

嫌味に聞こえるように、わざと強めに言う。だが、八戒は動じないどころか、嬉しそうに微笑んだ。

「とんでもない。僕ら二人が揃っていることが重要なんです。僕も貴方も悟空の不安を知っている。三蔵は知らない。そう思わせることが必要なんです。貴方は僕の側にいるだけで僕に百万の援軍を送ってくれているんですよ。」

細い指が伸びてきて、また悟浄の耳を掴む。今度は優しく手繰り寄せられた。

「いつでも、ね。」

耳元で囁かれて、悟浄はぞくりと背中に鳥肌を立たせた。あんまり色っぽい声を出されて、目の前がくらくらする。悟浄はこの恐ろしい男の手から逃れられそうもない。

「あ、ほら、三蔵が動きましたよ。」

悟浄のそんな気持ちをまったく無視して、八戒は楽しそうな声を上げた。



目の前に大きな肉の塊が湯気を立てている。悟空は思わずツバを飲み込んだ。なんだか寝台を思わせる、味も素っ気もないテーブルの上には、寺では絶対にお目にかかれない豪華な料理が並んでいた。
大男は次々と皿を運んでは、悟空の前に置いていく。悟空の隣に座っている石楠花は、大男が料理を運びこむ度に背中を丸めた。

「すっげえご馳走! これみんな食っていいの?」
「ああ、今夜はお前を歓迎するために腕によりを掛けさせたんだからな。」

腰の曲がった老人の妖怪が、大男の後ろからひょこひょこと寄って来て、悟空を舐め回すような視線で見る。しばらく検分すると、老人は片手で顎を撫でた。なんだか仕草が大男とそっくりで、悟空は可笑しくなる。だが石楠花は縮こまるばかりだ。

「いただきまあす! …だけど俺、今日は一旦寺に帰るよ。一応働きに行くって言わなきゃいけないし、…もしかすると三蔵も心配してるかもしれないし。…してないかもしれないけど。」

語尾がもごもごと途切れかける悟空の声に、男たちは低く笑っただけだった。

「石楠花。食わないの?」
「ぼ…僕…。」

石楠花はこの食卓に着いてからというもの、一度も悟空と目を合わせようとはしなかった。広すぎる襟ぐりの服の袖をぎゅっと掴み、小さく震えている。悟空は少し心配になった。石楠花は具合が悪いのかもしれない。

「胸が一杯で食えないよなあ、石楠花。」

老人がニヤニヤ笑いながら言う。石楠花はますます肩をすぼめた。

「今日からは友だちが一緒にいてくれるし、…山吹の代わりはやってくれるし。」

石楠花は答える代わりに唇を噛み締めた。さっき悟空が舐めて癒してやった唇の傷がまた開きかけている。

「石楠花、あんまり唇噛まないほうがいいよ。」

悟空の手が伸びて、石楠花の傷を撫でる。石楠花は息を飲み、顔を上げた。悟空の心配そうな顔が目前にある。
悟空が撫でてくれると、傷の痛みが薄らぐ気がする。柔らかい黄金の視線が、石楠花の顔を認めてにっこりと微笑んだ。

「石楠花が痛くないほうが、俺、嬉しいから。」

悟空の優しい言葉を聞いて、石楠花は泣き出しそうな顔になった。

「…味はどうだい、悟空。」

大男に聞かれて、悟空は無邪気に答える。

「うん、美味しいけど、…ちょっと苦い味がする。」
「そりゃそうだろう。特別な味付けをしてあるからな。」
不意に石楠花が立ち上がった。不自由な足を支えるために、がっちりしたテーブルにすがり付くようにしながら、悟空ににじり寄る。

「やっぱりだめだ。逃げて、悟空!」
「え、何? 石楠…。」

つられて立ち上がった悟空の膝が震えた。ぺたんと椅子に崩れ落ちて、悟空はびっくりして目を見開く。なんだか体が言うことを聞かない。足だけでなく、手も首も、鉛が詰ったように重い。それに、…なんだろう、体が火照ってきた。

「悟空…っ!」
「おい、お前はこっちだ、石楠花。」

老人が石楠花の腕を掴んだ。あんなに背中の曲がった老人なのに、力は存外強いらしい。石楠花はずるずると引き摺られていく。

「あいつの傷が癒えて、仕事に慣れた体になるまで、…そうだな、一月くらいか。お前には予定通り山吹の後釜をやってもらわにゃあな。どんだけ縛っても殴っても、金さえ出せばなぶり殺しにしてもいい餓鬼を買える店なんて、うちしかないもんなあ。」
「ご、悟空は、僕みたいに代償を払ったわけじゃないじゃないか!」
「そうだよ。だからなあ、今晩中に移動だ。この街でもずいぶん稼がせてもらったしな。」
「三蔵法師様の色小姓だぜ。」

大男が悟空の背後に立った。太い腕でいきなりテーブルの上を薙ぎ払う。騒々しい音を立てて、中身の乗ったままの皿やらコップやらが落下し、床の上で砕けた。

「さぞや良い味をしてるに違いない。慣らす手間もないだろう。」

さすがにここに来て、悟空も身の危険を感じた。何とか立ち上がろうともがくのだが、自分の思っているほどには手足に力が入らない。
男は悟空の襟元を両手で掴むと、たいした力を入れる様子も見せずに左右に開いた。布の裂ける甲高い音がして、バナナの皮を剥くように容易く、男は悟空の上半身を露にした。

「おまえはなあ、今日から日向葵だ。いい名だろ?」
「やっ…だ、触るな!」

真っ黒い毛を生やした太い指が、悟空の裸の胸を弄る。重い腕を持ち上げて必死に抵抗しても、男はまるで蚊でも追い払うかのように、簡単に悟空の抵抗を封じてしまう。

「へへ…、こりゃあ極上の肌だ。」

男が舌なめずりをする。悟空の背中が粟立った。気持ち悪くて吐き気がする。男が撫で回す指先から、ナメクジが這ったように銀色の跡が伸びて、悟空の体を十重二十重に絡め捕る気がした。

「三蔵っ!」

力一杯叫んでいた。やっぱり三蔵の言い付けを聞いて、花街なんかに足を踏み入れなければよかったのだ。
悟空は胸の中で三蔵の名前を連呼した。振り回した手が、大男の頬に当たってぺちんと間の抜けた音を立てた。大男は反って嬉しそうに笑い、難なく悟空の両腕を一つに纏め上げる。身動きすら叶わなくなって、悟空は声に出さずに、タスケテと叫んだ。
男は軽々と悟空を宙づりにすると、ズボンに手を掛けた。あまりにもあっけなく、肌着ごと剥がされてしまい、悟空は必死に足を蹴り上げた。だが力の抜けた足は男の腹や胸に当たっても、乾いた音を立てるだけで、まったくダメージを与えられない。

「おうおう、よーく暴れるなあ。あんだけ薬を効かせてやったのによ。」

老人が戻ってきた。手には錆びた裁鋏を持っている。

「今までの餓鬼どもは、あれくらい薬を盛られりゃ、へろへろになって、抵抗どころかよだれを垂らして眠りこけたもんだがなあ。」
「そんだけこいつの活きがいいってこった。嬲らせるにゃこれ以上の餓鬼はいないだろ?」
「まあ、そうだなあ。」

大男は悟空の顎を掴んだ。ぐいっと捻じ曲げて、男のほうを向かせる。

「面もまあまあだ。唇も赤くて、紅を差す必要もないな。おとなしく寝ちまえば、痛い目をみずにすんだのに。」
「活きが良すぎるな。こいつは片足の腱を切るだけじゃ足りなさそうだ。」

老人の手にした鋏が鈍く光る。かさついた手に右足を掴まれて、悟空は必死に身を捩った。
石楠花が片足を引きずっていたのは、この老人に足の腱を切られてしまったからなのか。あの鋏があんなに錆びているのは、今まで数え切れない子供たちの足を切ってきたからに違いない。
しかし、動きがままならない悟空の足は、あんな老人の手さえも十分に躱せない。老人は面白そうに、手にした鋏をしゃきしゃき鳴らしている。

「待った。動けなくする前に、味見をしたいんだがな。」
「また始まったか。好きにすればいいだろう。」

唾液でぬらぬら光る唇を嘗め回しながら言う大男に、老人は面倒くさそうに答えた。男は老人の返事を聞くと、唇を笑いの形に歪めた。悟空の顎を捕らえていた指を伸ばし、暴れすぎで息の荒くなった悟空の唇をゆっくり嬲る。

「へ…へへ。まずはどっちに咥えさせてやろうか。」
「いいかげんにしてやれよ。お前のでかいのを無理矢理ねじ込むと、大事な商品に傷がついちまう。」
「どうせ毎晩三蔵法師サマをくわえ込んでる体だ。ちょっと乱暴な目を見せたって、どうってことねえって。」

三蔵を馬鹿にしている。悟空にはそう聞こえた。
うかつな自分がこうして素っ裸にむかれてしまっても、それは仕方がない。自分が間抜けだからだ。だけど三蔵の悪口を言う奴は許せない。
悟空はしつこく唇を撫で回す太い指に、渾身の力を込めて噛み付いた。今の悟空は本来の力の十分の一も出せない。だが、大男は情けない悲鳴を上げた。
口の中に金臭い液体が零れ、大男は大袈裟に手を引っ込めた。どうやら指を少しは噛み切ったらしい。

「…ってえじゃねえか、この野郎!」

男は吠えると、悟空をテーブルの上に叩き付けた。頭と背中をしたたかに打ち付けられて、悟空は小さく痙攣する。

「かは…っ。」

肺に入っていた空気が全部抜けて、悟空は力なくむせ返った。
大男は顎の上がった悟空の首を殴り付けるような勢いで押さえつけた。気道が潰され、空気が入ってこなくなって、悟空は必死に喘ぐ。喉の奥からひゅうひゅうと不吉な音がする。
少しでも酸素を取り込もうと開いた口に、布が差し込まれた。上顎と下顎に掛けられたそれらは、悟空の口を限界までこじ開ける。

「…ったく、活きが良すぎるのも考えもんだぜ。」

男は目を細めた。血走った目がぎらぎら光っている。男は老人を振り返った。

「やっとこを持ってこい。歯を全部引っこ抜いてやる。」
「やれやれ。」

老人は呆れたように言いながらも、腰を上げる。

「せめて前歯だけにしとけ。全部抜いたら人相が変わっちまう。」
「しゃぶらせるのに歯は必要ねえ。こいつはな、目玉さえあればいいんだ。この黄金の目玉さえな。」
「あ…がぁ…。」

酸素が取り込めない。悟空は喉元を押さえる男の手に弱々しく爪を立てた。
こじ開けられた口から、だらだらと涎が流れる。目の前が真っ赤になって意識を失いかけると、男は意地悪く手を緩める。そしてつかの間悟空に呼吸をさせると、また力いっぱい押さえつけるのだ。

「…最初の躾が肝心だ。」

大男は次第に色を失っていく悟空の顔を満足そうに見下ろした。

「それに歯を全部抜いちまえば、…自分で命を絶つこともできるまい?」

くくくくと喉を鳴らす。不意に喉が自由になった。
いきなり流れ込んできた大量の空気は、反って悟空を苦しめた。気道は破裂しそうに軋み、止められていた血流が凄い勢いで首から上を駆け巡る。悟空は頭痛にのた打ち回りそうになった。だが、実際は悟空の体は硬いテーブルに張り付けられたままだった。男にやっとこを手渡した老人が、そのまま悟空の体を押さえつけていたのだ。

「…痛ぇぞ。」

悟空が目を開けたのを確認してから、男はそう嘯いた。

「しょうがねえよなあ。おいたが過ぎる歯だもんなあ。全部取っちまわなきゃ危なくてしょうがねえ。」

悟空の顔ほどもありそうな大きな顎をもつやっとこが、悟空の鼻先でガチリと噛み合わされた。威嚇するように、再び大きく広げられた無機質の顎が、どんどん悟空に迫って来る。
悟空はぎゅっと目を瞑った。歯を全部へし折られてしまうのは、どんなに痛いだろう。だが、それよりも悟空を恐怖させているのは、人相が変わってしまうという老人の一言だった。
歯が全部なくなって、顔がすっかり萎んでしまったら、三蔵は自分を分かってくれるだろうか。それよりも、また三蔵に会えるだろうか。この大男は、今日中に移動すると言っていた。自分も一緒に連れて行かれてしまうのだろうか。もう二度と三蔵に会えないのだろうか。
不思議と涙は出ない。こんな事態に直面して、頭が現実を拒んでいるようだった。悟空にできることは、唯一、三蔵の名を呼ぶことだけだ。声にならない声で、胸の奥深くで、何度も何度も。

唇に冷たい金属が押し当てられた。頭蓋骨まで響く硬質な振動。

「まずはこの忌々しい犬歯。」

悟空は目蓋が食い込むほどに眼を瞑った。大きすぎるやっとこが一度に数本の歯を噛む。みしりと顎が鳴った。その時。

「悟空っ!」

びりびりと空気を震わすような銃声が聞こえ、不意に押さえつけられていた体が自由になった。遠くで誰かが叫んでいる声がする。意味の通じないわめき声を上げているのは、あの老人らしい。悟空は恐る恐る目を開けた。
大男が仁王立ちになって戸口を睨み付けている。その先にいるのは…三蔵だ。

「さ…んぞ…。」

三蔵は悟空を睨み据えた。法衣の裾は乱れ、肩が大きく上下している。こんなに慌てふためいた三蔵を、悟空は初めて見た。だが、息を荒くし、頬を紅潮させているにもかかわらず、三蔵の表情はとてつもなく静かだ。
悟空は息を呑んだ。三蔵が激昂している。見たこともないくらい怒り狂っている。だが、その表情は他人には冷徹に映るだろう。大男たちもそう感じたようだ。

「てめえ、一体…。」
「まて、見ろ、あの額。あれは三蔵法師だ。」

老人は後ずさったが、大男のほうは反って猛り狂ったようだった。弱腰の老人を一瞥し、凶悪に歯を剥き出してみせる。

「三蔵法師ぃ? ああ、日向葵の元の飼い主か。」
「日向葵…?」

大男の言葉を反芻していた三蔵が、ぐっと眉間に皺を寄せる。男が呼んだ名前の主と、その意味を正確に把握したらしい。無言で腕を上げる。その先には手のひらに隠れそうな小さな銃。

「そんな小さな銃で何をしようってんだ。」

男はせせら笑う。悟空の首に腕を回し、むりやり三蔵のほうへ向かせた。

「お前の可愛い稚児を今から味見してやるよ。そこで指咥えて見てろ。…ああ、こいつがいい味だったら、あんたにも花代は弾んでやるよ。それで契約成立だ。厄介者の妖怪一匹引き取ってやるんだ。なあに、礼はいらねえよ。」

悟空の体を楯にして、大男は三蔵を挑発した。わざと見せ付けるように悟空の肌に指を這わす。悟空の顔が嫌悪に歪むのを見て、三蔵の眉間の皺が一層深くなった。

「…その手を放せ。」
「そんなにケチケチすんなって。」
「…うるせえ。」

大男が悟空の頬をべろりと嘗め上げる。おぞましさに悟空は小さく悲鳴を上げた。三蔵がチッと舌を鳴らすのが聞こえた。

「悟空!」

鋭く呼ばれて、悟空はすばやく反応した。理屈ではない。直接心に突き刺さるように、三蔵の意志が伝わってきたのだ。身を縮めた悟空の背後で、大男がたたらを踏んだ。

「…寝ろ。」

冷たい声と銃声はどちらが先だったか。パンッと小さな破裂音の後、大男はいきなり四散した。
テーブルの上に蹲ったままの悟空の上にも、男の残骸は降り注ぐ。老人が悲鳴を上げた。悟空はただ喘いでいた。尋常でなく胸がどきどき言う。老人と三蔵の交わすやり取りと、老人の逃げ出す音も、悟空の上を素通りしていった。

「…このバカザル!」

いきなり鉄拳が降ってきた。大男にテーブルに打ち付けられた後頭部を直撃されて、悟空は声もなく呻いた。

「何度も呼びやがって! たたき売りじゃあるまいし! うるせえってんだよ!」

いつもと変わらない三蔵の怒鳴り声。怒鳴りつけられて、初めて悟空は危険が去ったことを知った。
不意に全身ががくがくと震えだす。顔を上げると、三蔵の綺麗な怒り顔がぼやけた。大男に押さえつけられて悔しくても恐くても、どうしても流れなかった涙が、堰を切ったように溢れ出す。

「…泣いてんじゃねえ。バカザル。」
「だっ…て、ひぃ…っく。」

三蔵の戸惑ったような声が、余計に涙を誘う。悟空はまだ重くて思うように動かない腕で、何とか顔を擦った。

「俺…っ、恐かったんだ…っ。」
「だからいつもうろちょろするなって言ってんだろうが!」
「そ…じゃなくて…。」

悟空は必死に言葉を継いだ。この気持ちはどうしても三蔵に知っていて欲しかった。

「も…、さんぞ…に、会えないかもしれないって…思ったら…、ものすごく悲しくて…、恐くて…。歯が全部なくなるより…、足が動かなくなるより…、そっちのほうが…嫌だった…。」

三蔵が絶句している。呆れているのだろうか。悟空はもじもじと体を揺らした。安心したら、急に体の火照りが戻ってきた。

「さんぞ…が、来てくれて…、俺…、ものすごく…、嬉しくて…っ。」
「…バカザル。」

やっと返ってきた返事は、どうやら聞き取れるほどの呟きだった。伏せた悟空の頭上で、三蔵がため息をつく。三蔵の怒りも治まった様子に、悟空は安堵の息をつく。

「とっとと帰るぞ。…まったく。」

三蔵は素っ裸で震えている悟空を面倒くさそうに見下ろすと、やにわに天幕を一枚剥ぎ取った。
粗末な小屋の窓に当たる部分にカーテン代わりに掛けられていた埃だらけの布だが、悟空にストリーキングをさせるよりは無難だと判断したものらしい。何しろ悟空の衣類は、無残なまでに引き千切られて床に散乱してしまっている。
悟空は埃っぽいその布を頭から被せられて、小さく肩を竦めた。くしゃみが出そうになって、慌ててそれを飲み込む。三蔵に余計な心配をさせたくはない。
だが、三蔵を追ってテーブルから降りようとした足は、どうしても一歩が踏み出せなかった。

「さんぞ…、待って…。」
「なにやってんだ、バカザル。」
「動けない…。」

新たな涙が溢れてきた。悟空は弱々しく鼻を啜った。さっきから自由の利かない手足は、わずか天幕一枚の重みで、鋼鉄の重しを乗せられたように悟空を押さえつける。
手足が動かないだけではなくて、さっきから悟空は泣き出したいほどの切なさに耐えていたのだ。テーブルの上に蹲ったまま、背中が丸まって、どうしても両手が股間に向かう。悟空は唇を噛み締めた。トイレは食事の前に行かされたはずなのに、この逼迫した排尿感は何だろう。無理に立ち上がると、粗相をしてしまいそうだ。

「さんぞ…。」

もう一度半べそで呼びかけると、三蔵は恐い顔で戻ってきた。そして悟空の前で足を止め、一瞬息を止める。

「一体何を飲まされたんだ、バカザル。」
「うう〜…。」

悟空は涙の一杯に溜まった目で三蔵を見上げた。なぜか三蔵があとずさる。

「どうにかしてよ、さんぞ…。」

ひくっとすすり泣くと、三蔵は慌てふためいて目を逸らした。



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