桜吹雪




桜吹雪が舞っている。
しなだれかかるような桜の枝が、惜しげもなく淡い桃色の花弁を撒き散らしている。
豪華な髪飾りのように、つややかな黒髪に乗っているそれらを、やせた指が無造作に払い落とす。ついでにその指はぽりぽりと頭皮を掻いた。

「やあ、花びらだらけだ。」

屈託なく笑い、天蓬は俺を振り向く。眼鏡のレンズの上にも、こっそりと花びらは張り付いている。だが、それはあまりに近すぎて、天蓬自身には見えないらしい。
俺は上着のポケットに両の手を突っ込んだまま、さらに背中を丸めた。あんまり無防備に笑うなよ。喉元まで声が出かかる。まったく、こんなに桜の似合う男を、俺は他に知らない。わけても、こんな風に滝みたいに降りしきる桜が、こいつには一番似合っている。散って行く桜の潔さ、見事さ、そして最後のときを自分自身に言い聞かせるような切なさが、こいつのどこか寂しげな風貌を引き立てる。

「どうしたんですか? 難しい顔をして。」
「…いんや。」

うっかりしたことを言おうものなら、こいつのシニカルな笑顔に笑い飛ばされるに決まっている。おまえごとこの風景を切り取って、俺の胸に飾っておきたいなんて、口が裂けても言えるもんか。

「…ああ、そう言えば、捲簾に初めて会ったときも、こんな花嵐でしたねえ。」

なんだ、ちゃんと覚えているんじゃないか。俺は小さく笑った。

「…何がおかしいんです?」
「お前、着ているもんが、あの時とまったく変わらねえと思ってよ。」
「おや、そうですねえ。」

天蓬は自分の白衣姿を見下ろした。
きったねえ白衣。俺の天蓬への第一印象はそれだった。


「ああ、おもしろくねえ。」

俺はタバコのフィルターをかみ締めた。キシッといやな音が頭蓋骨を伝って直接耳に響く。部下はどいつもこいつも能無しだし、上司はみんなクソったれだ。何で馬鹿な部下の起こした不祥事で、俺が降格処分にならなきゃならない。直接の部下ならともかく、どこでも鼻つまみもので、最後の最後に俺の部隊に押し込まれたばかりの馬鹿ったれじゃないか。地上の女にちょっかいを出しただと? 軍を離れたときのことまで俺が面倒見切れるか。
だいたい、あのお荷物の野郎は、俺の重しになるために押し付けられたに決まってる。あの、降格処分を言い渡すときの楽しそうな竜王の顔。あれはこうなることを見込んで絶対わざとやっているに違いない。あの男を押し付けたのも、あの竜王自身なのだから。
うららかな陽気に桜の花が舞しきる。一足踏み出すと、地上に落ちた花びらが再び舞い上がり、それらが全身を取り囲む。
こんないい日にはうまい酒が飲めるはずなのに。
ぶつぶつ言いながら歩く俺の側には誰もやってこない。暴れん坊将軍と異名を取る俺の逆鱗に触れることがどんなに危険か、誰の耳にも行き通っているのだ。愚痴を聞いてくれる奴もいないから、俺はますます荒れ狂う。そんな時だった。ふらりと天蓬が現れたのは。
地面ばかりを見つめていた俺は、カラコロと場違いな音に顔を上げた。長い白衣が目の前をひらひらと靡いている。桜吹雪のドットをバックに、その背中はひどく頼りなく見えた。

「なんだ、…きったねえ白衣。」

やけに黒ずんだ白衣だった。
ポケットの上には、しょっちゅう手を突っ込んでますと言わんばかりの黒い筋。襟も裾も黒ずんでいて、裾は特に、引き摺るのだろうか、盛大にほつれている。肘の折れる所、背もたれの当たる所、膝の裏になる所は皺だらけで、俺はそいつに襲い掛かってその白衣を毟り取り、漂白してアイロンを掛けたい衝動に駆られた。俺はこう見えても几帳面な性質だ。
カラコロ言う音を探ると、それはそいつの足元からしている。俺はその音の原因を探って思わずそいつをぶん殴りたくなった。そいつの足には、俺もよく知っている、軍の旧兵舎の便所のゲタが履かれているのだ。今時靴を脱がねばならないその便所―トイレではない。まさしく便所だ。―は、さすがの無骨な男たちにも人気がなく、誰もめったに入らない。時折その便所からうめくような声が聞こえてくるとの怪談もまことしやかに流れていたが、もしかするとこいつがその幽霊野郎かもしれない。

「…おい。」

俺は声を掛けた。気分が尖っているから、とげとげしい声だった。だがそいつは振り向かない。蛇行しながら歩くそいつの手元がちらりと見えると、そいつは片手に本を広げて、その本に没頭している様子だ。
何がそんなに楽しいのか、右手の人差し指をピッと立てて、それを振り振り歩いている。ふむふむとか、ははあとか言うのは、本に対する合いの手だろうか。

「危ねえぞ、…おい。」

石畳が敷いてあるとはいえ、伸び放題に伸びた桜の幹は、地上にヘビのように根を這わせている。せっかく俺が忠告してやったのに、奴は見事に木の根に足を取られてすっころんだ。

「…言わんこっちゃねえ。」

男はあたふたと地面を這いまわっている。どうやら眼鏡を探しているようだ。俺はそいつのへっぴり腰を見ていられなくなって、見当違いの所を探しているそいつに眼鏡を差し出してやった。
突然目の前に差し出された眼鏡と俺の黒ずくめの服装に、そいつはちょっとびっくりしたようだった。

「あ! ああ、すいません。」

男はべたっと地面の上に座り込んだまま眼鏡を掛けた。ますます白衣が汚れるじゃねえか。俺はいらいらした。
どこかで見たことのある男。俺は記憶の底をさらい、やがて思い出した。こいつは軍上層部でも変わり者と有名な天蓬元帥だ。何でそんなお偉方がこんなところを徘徊しているのだろう。

「あなたは…。」

天蓬は片手で眼鏡の蔓を押し上げて、少し視線をさまよわせた。不意ににっこりと笑う。綺麗な男と聞き及んでいたが、その笑顔はまた格別だった。
思わずどきりと胸を高鳴らせる俺に人差し指を突きつけ、奴は楽しそうに言った。

「捲簾少将!」

ビキ、とこめかみの血管が鳴る。俺は噛み付くように言った。

「大佐だ!」
「あれえ、おかしいなあ、少将だったと思ったのに。」

天蓬は、不満そうに首を傾げた。俺はその問には答えず、奴の足元を指差した。

「そのゲタ。」
「あれ? またやっちゃいましたか。どうもこのゲタはなじみがよくって。」

あはははと呑気に笑う。俺は怒鳴る気も失せて、がっくり肩を落とした。

「あんな便所、入る奴なんていねえと思ってた。」
「そう、それがいいんですよ。誰も来なくって快適ですよ〜。あんまり快適なんで長居しすぎちゃって、時々足が痺れるのが珠に傷ですが。」

俺はますます気分が萎えた。綺麗な顔に似合わず、なんともヘンな奴だ。
天蓬は、やっこらしょとおやじ臭い掛け声をかけながら立ち上がると、白衣の尻をぱたぱた叩いた。白衣の下は味も素っ気もないカッターシャツと薬品に漬けたみたいなパンツで、それもウエスト部分がガバガバだ。ちゃんとした格好をすれば、この男はもっといくらでも人目を引き付けることができるのに。
もっともこれはこれで、人目を引き付けていると言えなくもないんだが。

「その服、ぜんぜん体に合ってねえ。」
「おや? また痩せちゃいましたかねえ。そう言えば最後に食事をしたのはいつだったかなあ。」

天蓬は指を折る。いかにも学者らしい、白くて透き通るような指だ。

「あ、かれこれ二日前だ。道理でお腹も空くわけですねえ。」
「…飯食うのを忘れるほど、何をそんなに熱心に読んでんだよ。」

俺は好奇心に駆られて、天蓬の腕の中を覗き込んだ。厳めしい革表紙の古びた本を、天蓬は少し得意げに掲げた。

「これですか? ヤマモトの兵法論ですよ。古典で内容は少し遅れていますが、それだけに基盤がしっかりしていて実に興味深い。今も小手先の戦略に気を取られすぎて大局を見失い、足元を掬われる愚を説く章を読んでいたんですが…。」

一瞬真顔になる。

「…実践しちゃいましたねえ。あははは。」

俺はだんだんまじめに付き合うのがアホらしくなってきた。大事そうに本を抱え直す天蓬に向かって、鷹揚に顎をしゃくる。

「来いよ。」
「は?」
「飯ぐらい奢ってやる。」
「それは有り難いですねえ。」

その代わり、覚悟しろよ。俺は心の中で呟く。愚痴のはけ口にしてやる。

「ねえ、ところであなた、本当に大佐ですか?」

小走りになって、奴の声が追いかけてくる。俺はまたタバコのフィルターをかみ締めた。

「そうだよ。…今朝からな。」
「今朝から? あ、夕べの臨時閣議! それでか、なるほど。で、何をやらかしたんです?」
「俺じゃねえ! 部下だよ。」
「ええ? あなたの所で問題を起こしそうな部下と言うと…。」

また指を折る。

「わかった。張運だ。で、何を?」

俺はちょっときつねにつままれた気分になって天蓬を振り返った。何で次から次へそんなにすらすら名前が出てくるんだ? 俺クラスでも元帥様にすりゃ下っ端、張運―たしかに張運だった―なんぞはただの駒だろう。言ってみりゃクズだ。

「何です?」
「いや。…下界の女を孕ませたんだと。」
「…そんなの、あなたの前の部隊での不始末じゃありませんか?」

それは確かに正論だが、そんな言い訳の通らない所が軍隊というものだ。
それにしても、本当にこいつはよく、我々下々のことを知っている。張運が俺の部下になったのは、ほんの数週間前の話だ。

「なるほど、それは不当な人事ですねえ。」

なんだか楽しそうに天蓬は言う。
うるさそうに頭を振ると、長い髪に降りかかった桜の花びらがふわりと舞いあがった。

「きっと竜王はあなたのことがかわいくて仕方ないんですよ。」
「…おきやがれ。」

言うことがどこまで真面目なのかわからない。天蓬は、桜混じりの風の中に艶やかに映える笑顔を浮かべて俺の隣を歩いた。

「さあ、何をごちそうしてもらいましょうかねえ。」

考えてみると、俺がこいつの隣を歩いたのは、これが最初で最後だったかもしれない。
なんだか嬉しそうな笑顔だったから、俺はこいつに気を許したんだと思う。



その後は何を食ったかなんて覚えてない。目についた店に入り、適当に注文をした。天蓬はなんでもよく食った。茶化すと「食いだめしときます。」とか何とかぬかしていた。
俺が愚痴を垂れようと思っていたのに、主に喋ったのは天蓬の方だった。それも長ったらしい戦史だの戦略だのばかりだったから、俺は半分も聞いてなかった。
ただ天蓬の豊かな表情に見とれていた気がする。

一つだけ、これだけはどうしてもと思って聞いたことがある。俺や部下たちの名前についてだ。
半分以上冗談のつもりで、軍全員の名前を暗記しているのかと聞いてやった。少し酒が入っていつもよりもっと舌が滑らかになっていたからだろうか、天蓬は照れることなく、そうだと答えた。これには俺も仰天した。

「そうだって、将校クラスで200人からいるんだぞ。その部下っつったら、1万や2万はいるだろうに。」
「はあ、そのようですねえ。」

涼しい顔だが、ほんの少し居心地が悪そうだ。更に問い詰めると、困ったように笑った。

「僕はねえ、自分の仕事を、ボードゲームをしているようだと思うんです。」

テーブルの上の食卓塩の瓶を手にする。

「これが王様。僕の仕事はこれを守ることです。その為に日々作戦を練る。」

自分の箸の柄で、置いた食卓塩の周りをコツコツと叩く。叩かれた跡を追っていくと、それは俺でもよく知っている初歩的な布陣の形になった。

「目的は王様を守って、自分の軍を勝利に導くことですから、時には無慈悲な作戦も取ります。この駒が次の一手で取られることがわかっていて、わざとそちらに置いたり、十分助けられる駒を見捨てて、その代わり王様の包囲を厚くしたり。」

天蓬が少しうつむくと、分厚い眼鏡のレンズが光って奴の表情を隠す。天蓬は箸で叩いた所に一旦楊枝を並べ、それを一つ二つ折った。

「手持ちの駒に甚大な被害が出てもいいんです。最終的に王様が守られて、私たちが勝利を治められれば。」

食卓塩を取り上げ、折った楊枝を手で払う。

「王様さえ生きていればまた新しい布陣が敷けますし、何回でもゲームを続けられる。」

またテーブルをこつこつ叩く。今度は違う布陣だ。

「だけどね、思うんです。ボードゲームなら、捨てた駒でも次のゲームでまた生き返るし、何度でも代えが利く。だけど実際の兵はそうはいかないじゃないですか。」

俺は視線を天蓬の指先から顔へと移動させた。天蓬はずっと俯いたままだ。長い髪が顔の両脇に垂れてきて、その表情は殆ど窺えない。

「僕の采配一つで、この駒たちは砕けてしまう。もう2度とボードの上に上がることはない。この駒にだってそれぞれ背負っているものがあるに違いないのにね。」

語尾がわずかに震えた。不意に天蓬は顔を上げる。拵えたような笑顔を貼り付けている。

「だからせめて、駒の名前くらい覚えておこうと思うんです。僕がこの手のひらで転がしている駒の、名前ぐらい知っていたっていいじゃないですか。僕にはそのくらいの責任があると思うんですよ。」
「それで2万の兵を暗記…。」
「ええ、まあね。」
「…すげえなあ、あんた。」
「たいしたことじゃありません。命を賭して戦うことに比べたらね。」

俺は半ばあきれていた。俺の知っている将校の中に、自分の小隊の兵士の名を全部呼べる奴がいるだろうか? 少なくとも俺はお目にかかったことはない。
作戦なぞと言うものは、俺たちの個体差をまったく無視して作られるものだと思っていた。こいつには勝てねえ。俺はそう思った。軍での立場も、人としての大きさも。

俺があんまり驚いた顔をしたからだろうか。天蓬は少しはにかんだ。

「いやだなあ、そんなに真顔にならないで下さいよ。」

そう言って、照れ隠しのようによれよれのネクタイを引っ張る。その困ったような笑顔が、クラスでいっとう最後にようやく九九を暗唱できたガキみたいに素直で綺麗だったから、俺はこいつのことを忘れられなくなったのだ。



「ああ、いい風だ。どこかで花見酒でもいきたいですねえ。」
「やだよ。お前みたいなうわばみに付き合ってられっかよ。」
「また今度、呑み比べをしましょうよ。どっちが先に潰れるか。」
「…俺が先に決まってんじゃねえか。」

天蓬は長い髪をかきあげて笑う。髪からはらはら花びらが落ちる。もったいないからあんまり髪を払うなよ。俺は言いかけてやっぱり止める。
このへそ曲がりがそんなことを聞いたら、たちまち全身をぶるぶる振るうに決まってる。俺の眼福のもとは、桜にまみれていて欲しい。

「そう言えば、べろべろに酔っ払って、捲簾に迎えに来てもらったことがありましたねえ。」
「…ありゃあ、迎えにいったんじゃねえよ。」
そんな程度なんだな。俺は少し肩を竦めた。




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