優しい月 眩しい太陽





大好きだった月が、冷たく遠くなった。



窓に張りついて夜空を見上げる。濃紺の空には、磨いた鏡みたいな月が昇っている。格子が邪魔で、俺は身を乗り出せない。月の金色は、以前はきらきら輝いてとても優しそうだったのに、今では水銀を解かしたみたいに冷たく見える。
この寺の窓は、どうしてどこもかしこも格子が嵌まっているのだろう。芸術的だかなんだか知らないけど、閉じ込められてるみたいな気がしてしまう。

「悟空。」

静かな声が俺を呼ぶ。ぴくんと肩が震えてしまう。俺は恐る恐る振り返った。
寝間着の前を寛がせて座った三蔵が、俺を試すような目で見ている。俺は思わず口実を探す。

「月が…、真ん丸い月が見えるんだ。」
「…いいから、こっちへ来い。」

掛け布団をめくり、三蔵は俺を抱えられるように腕を広げる。俺は口の中に湧き上がってきた冷たい生唾を無理矢理飲み込む。
やっとの思いで窓枠から手を放し、俺は三蔵の方へ向かう。足がもつれてしまうのは、きっとこの着慣れない寝間着のせいだ。
あの日から、急に寺の僧たちが俺の世話を焼くようになった。寝室に行く前には、よってたかって俺にこの寝間着を着せてくれる。三蔵のとお揃いの真っ白い寝間着だ。素肌の上につけるから、胸も足もすかすかして頼りない。

「早く来いよ。」

三蔵は微かに笑った。もどかしげに腕を伸ばす。
大きな手がいやにゆっくりと俺の方へ迫ってくる。襟の辺りから髪を掴まれる。乱暴に引っ張られる。痛いと抗議の声を上げる暇もない。俺は三蔵の胸にぎゅうっと押し付けられた。

はだけた袂から、三蔵の素肌がのぞいている。信じられないくらい滑らかで、青みを帯びてさえいるように見える白磁の肌。服の上からは華奢に見えるのに、間近からは綺麗に筋肉が敷き詰められているのが分かる。
俺はその腕の中にすっぽりくるみ込まれてしまう。簡単には逃してくれない白くて綺麗な腕の檻。

俺の頭がこつんと鳴る。三蔵が祈りを捧げるように俺の頭に額を押し付けたのだ。耳を掠めて三蔵の呼気が通り過ぎる。
掴まれたままだった髪がぐっと引かれて、俺は顔を上向かされる。三蔵が俺を見下ろしている。吸い込まれそうに綺麗な菫色の瞳。
三蔵はあの日から、酷く悲しそうな目をするようになった。

カタカタカタカタ………。

またあの音がする。

三蔵が眉間に深い皺を刻む。俺はぼんやりと音の出所を探す。ごく近くでなっているように思えるのに、どこからその音がするのか全然分からない。

三蔵がふっと表情を緩めた。なにかを諦めたみたいな悲しい笑顔。俺は胸を締め付けられたようになる。だけど、どこかでほっとしている俺がいる。

「ばぁか。なんて顔してんだ。」

三蔵がゆっくりと顔を近づけてくる。俺は思わずぎゅっと目を瞑り、堅く握った両の拳で自分の胸を抱きかかえるようにした。
三蔵の唇は、金鈷を避けて俺の眉間に落とされた。あったかくて柔らかい唇が、俺の眉間を離れていきながらちゅっと小さく音を立てる。

「…もういいよ。寝ちまえ。バカザル。」

こんな時の三蔵の声は、聞いた事もないくらい優しい。

俺はそっと目を開けた。俺とお揃いの白い寝間着が、俺に背を向けてゆっくり布団の中に潜っていく所だった。背中には、ちゃんと俺が潜り込めるだけの幅と布団が残っている。

どうしようもなく切なくなって、俺は突っ立ったまま俯いた。じんわりと涙が滲む。
自分が何をどうしたいのか分からない。ただ、こっちを向いてくれない三蔵の背中が、可哀相なほどに痛々しいだけだ。

青ざめた月が、そんな俺たちを静かに見下ろしている。



屋根に登っているのがばれると、僧たちに叱られる。このところ、その回数が増えた。
無用なお小言を食らうのが嫌で、俺は更に高い屋根へと登る。この寺の中で一番居心地がいいのは、この御本尊を収めた棟の一番天辺の屋根だ。
うらうらと日当たりはいいし、何より寺中が見渡せる。格子だらけの窓から、オツトメをしている僧たちや、その後ろで居眠りをしている修行僧たちも垣間見れる。

井戸の周りには、若い僧たちが集まって、きゃあきゃあと騒ぎながら洗濯をしている。
先輩たちの衣類を洗う水より、お互いに掛け合う水の方がよほど多そうだ。

「…いいなあ。」

俺はぼんやりと呟いた。

どうせ俺が入っていけば、連中は蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまう。三蔵法師様のモノに我々が手を触れるわけにはいかない。連中の最近お気に入りの台詞だ。
モノと妖怪と、どっちがマシかな。俺は膝を抱えて蹲る。日光に暖められた瓦が、俺の素足をぽかぽかさせてくれる。
太陽は僧たちにも俺にもおんなじように降り注ぐのに、どうして彼らには俺が違う物に見えるのだろう。

「三蔵様、お待ち下さい。」
「うるせえ。」

突然、この場にそぐわない怒鳴り声が聞こえた。俺はぐるりと首を巡らす。
棟から棟へと繋がる渡り廊下を、三蔵がのしのしと歩いている。ここからでも三蔵のこめかみに浮かぶ青筋が見えそうな勢いだ。三蔵は追いすがった僧の手を邪険に払った。

「…すっげ。」

俺はそっとため息を付いた。あんなにいらいらしていても、三蔵の金の髪は、日の光の中ではキラキラ輝いて見える。黄金の冠を被ってるみたいだ。

「今小坊主を呼びますから、袈裟と冠を。神界から直々のお呼びなのですぞ。」
「なんだってんだ、あの男女。わざわざ呼び付けやがって。」
「おと…、観世音菩薩様をそんな…。」
「男女で悪けりゃおかまやろうだ。自分で出向いてきやがれ。…ったく。」

三蔵はすごい大股で歩く。たくさんの書物を持った僧が、すれ違いざま、びっくりして飛びのいたくらいだ。

「ふうん、…三蔵、また出かけるんだ。」

あんなに文句を言っていたけど、神界から呼ばれたとなれば、三蔵は出かけるに違いない。きっと数日掛かるお出かけなんだろう。だからあんなに不機嫌なんだ。
俺は淋しいような、少し安心したような気分になる。三蔵の側にいられないのは辛いけど、夜に三蔵の寝室に閉じ込められると、胃がキリキリする。

「せ、せめて御髪を整えませんと。三蔵様!」
「うるせってんだよ。」

観世音に会うためには、あの綺麗な髪を切らなきゃいけないのだろうか。俺は三蔵の髪の香りを思い出していた。
正装の三蔵が被る冠よりも、もっと豪華に輝く金色の髪。日光を集めて優しい針にしたら、きっと三蔵の髪みたいになる。柔らかくて、でもどんな物も貫かずにおけない鋭い針。俺の胸には、もう何本も刺さっている。

そう言えば、俺が最後に髪を切ったのはいつだったかな? 俺は目の上すれすれに掛かっている前髪を一房つまんでみた。少なくとも、この寺院に来てからは切ってない。
思い出そうとすると、急に頭の中に靄がかかったようにぼんやりとなる。誰かに…見上げる背の高さの誰かに、今度切ってやると言われた気がする。
そう、俺の側には、いつも暖かい誰かがいた。顔も声も思い出せないけれども、俺の体がそれを覚えてる。俺の背中に放たれた髪を撫でる手の温かさ。時々指輪に髪が絡まって、つんつんする感じ。その人は確かにそこにいた。でも俺は何一つ思い出せない。

俺は絶対忘れてはいけない大事な事を忘れてしまった。

「…爪も、切ってないよな。」

綺麗に切り揃えられた足の爪を見て、俺はなんだか悲しくなった。

不機嫌丸出しで足音高く歩いていた三蔵が不意に顔を上げた。辺りを見回すでなく、いきなり俺と目が合う。
見つかりっこないと思って油断していた俺はちょっとびっくりした。三蔵には俺の何もかもすっかり分かってしまっているみたいだ。

「悟空。出かけてくるからな。」
「あ、…うん。」
「悟空殿、またそんなところに…!」

やば。三蔵を追い掛け回していたのは、侍従とか言う僧たちの中でも、一番やかましいおっさんだ。
おっさんの顔が見る見る変な色に染まっていく。真っ赤と真っ青に同時になれたら、きっとあんな色かもしれない。

おっさんは、自分が屋根に登っているわけでもないのに、体を低く伏せた。中腰になって、両手の平を押さえつけるように下に向けて、俺の方を一心不乱に睨み付けて低い声で言う。

「そっと、そぉーっと降りてきなさい。間違っても足を滑らせたりする事のないように。悟空殿、分かりますか。」

…分かるに決まってんじゃん。こんな高さから落ちても、どうってことないのにさ。

おっさんが俺の方に夢中になったのを察して、三蔵がさっさとその場を逃げ出していく。ずりーの。俺はぐんっと立ち上がった。おっさんがひいと小さく悲鳴を上げる。

「三蔵! 帰りはいつ?」
「知らん。男女に聞け。」

三蔵は振り返りもしない。俺は面白くなくて足を蹴り上げた。
おっさんはまだ足元でおたおたしてる。だらだらと汗までかき始めた様子を見て、ちょっとだけ胸がすいた。
わざとすたすたと屋根の縁まで歩く。大袈裟によろけたふりをすると、おっさんはひぃとかひゃあとか言いながら、両手を差し伸べる。俺はびっくりした。俺がおっこちたら、抱き留めてくれるつもりなんだろうか? もっともあんなおっさんに抱っこされるのはぞっとしない。

だけど、おっさんのその仕種は俺の機嫌を少し直してくれた。

このおっさんは、ちょっとは俺の事も考えてくれてるのかもしれない。

俺は満足して、屋根から降りる事にした。だけどもちろん、お小言を言おうと待ち構えているおっさんの前に降りるなんて馬鹿な事はしない。
斜めになっている屋根の上を、瓦を蹴立ててガシガシ走ると、おっさんが死にそうな悲鳴を上げた。そのまま屋根の反対側に回り、すぱーんと勢いよく飛び降りる。
弓なりに反った体が風を切る感じ。俺はこの瞬間が大好きだ。

ざんっと音を立てて着地する。勢い余って膝を着いてしまう。痛てて、ちょっと失敗。

おっさんの声が追いかけてくる。俺は痛くない右足でぴょんぴょんと飛び跳ねると、すたこら逃げ出した。
ジーンズの膝が破れちゃった。きっとまた後で文句を言われるな。そう思いつつも、俺はなんとなく明るい気分で走っていた。



日がとっぷり暮れた頃戻ってくると、案の定、件のおっさんが鬼のような顔で待ち構えていた。
両手の握りこぶしを腰に当てて反り返ったおっさんは、俺の両手が真っ赤なのを見るとたちまち顔色を変えた。慌てふためいて、それからようやくその色が、山葡萄を握り潰した赤い汁だと気付くと、また顔色を変えた。青から赤へ。めまぐるしいおっさんだ。

「そんなに怒んなくてもいいじゃん。どうせ三蔵はいないんだし。」
「お前様もついて行かなければならなかったのに…。」

おっさんは酷く不満そうな声を出した。

「腹減った! メシは?」
「お食事の前に湯です。こんなに泥だらけになって…おや。」

おっさんは俺の姿を眺め下ろしていって目をひん剥いた。

「足に傷が…! 手当てをしなくては!」

屋根から飛び降りたときに擦りむいた膝小僧の事だ。俺はちょっと舌を出した。

「こんなの、嘗めとけば治るよ。それより、メシが先だって。」
「なりません! 大切な御身に痕が残ったらどうしますか!」

ちぇ、大袈裟なんだよな。俺はこっそりため息を付いた。
ぎりぎりまで遊んできたから、腹が減って目が回りそうなのに。だけど、俺は素直におっさんの言う事を聞いてもいい気分になっていた。
俺が大切だなんて言ってもらえたのは、おそらくこれが生まれて初めての事で、おっさんの過保護な態度がほんの少し心地よかったからだ。
俺はおっさんにほだされて、ほんのちょっぴりいい気分で、おとなしくおっさんの後に従う事にした。



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